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2008年1月28日 (月)

持統天皇…(ⅰ)関裕二説

天智と天武との関係を考える上で、持統天皇の位置づけが大きなポイントになる。
持統は天智の娘であり、天武の皇后である。
この持統に関して、実際には即位していなかったのではないか、とする説がある。
例えば、関裕二『謎の女帝・持統』KKベストセラーズ(0202)は、『日本書紀』が実際には即位していなかった持統を天皇として扱ったため、その記述に多くの歪みが生じた、とする。

関説は、6世紀後半から7世紀にかけてのヤマトの大王家には、2つの大きな流れがあった、という認識から始まる。
片方は、雄略天皇以来の「強い王権」を目指す王家で、他方はヤマト朝廷誕生以来の緩やかな合議制を求める王家である。
後者は蘇我系王朝であり、前者は反蘇我系王朝である。
蘇我系王朝は、多くの豪族の支持を取りつけ、飛鳥を拠点に磐石の体制を築く。聖徳太子や蘇我入鹿などの活躍がそれを示している。

「強い王権」を目指す反蘇我系は、国内での劣勢をはね返そうと、百済との結び付きを強めることを図る。
これに対し、蘇我系は、百済との一極外交の弊を除くため、唐・新羅・高句麗と多角的な外交を目指した。
こういう事情もあり、朝鮮半島では唐と新羅の連合軍によって、百済が衰弱していく。
この二つの流れが激突したクライマックスが、乙巳の変(入鹿暗殺事件)だった。この事件は、反蘇我のクーデターに他ならない。

乙巳の変の後、斉明朝で実権を握った中大兄は、百済救援の兵を挙げるが、唐・新羅連合軍に壊滅的な大敗を喫する。
わが国は亡国の危機に瀕するが、唐・新羅は高句麗に矛先を転じ、さらに新羅が唐から離反したことも手伝って、危機を切り抜ける。
中大兄は近江に遷都して即位するが、天智崩御の直後に大海人皇子が東国から挙兵、大友皇子を倒す。
この壬申の乱で大海人が勝利した要因として、蘇我系豪速の加担があった。

反蘇我系の天智の弟の大海人皇子に蘇我系が加担したことに異論があるだろうが、天智(中大兄)と大海人が兄弟でなければ不自然さは消える。
乙巳の変は、反蘇我系(中大兄)の蘇我系潰し、壬申の乱は、蘇我系(大海人)の復活、という図式である。
その中で鍵を握るのが斉明天皇である。

乙巳の変の直前、反蘇我系は、飛鳥の東の多武峰(トウノミネ)に拠点を作り、要人暗殺や有力豪族の女人略奪を行って蘇我政権に揺さぶりをかけていた。
飛鳥で高向王(蘇我系)と結ばれていた斉明は、多武峰の勢力に略奪された。
反蘇我系の担ぐ舒明天皇との間にできた子が、中大兄である。
高向王と斉明との間には、漢皇子という子供がいた。それが大海人皇子である。つまり異父兄弟説である。
大海人が中大兄より年長であるという史料の記述の矛盾は、この説で解消される。

孝徳天皇崩御に際し、2つの勢力は妥協の道を探った。
2つの勢力の中心は共に斉明の子供である。斉明重祚によって和解が成立し、天智朝で蘇我系が要職を占めたのは、こういう背景があったからである。
斉明の即位によって、中大兄は飛鳥に返り咲くことができたが、「狂心の渠(タブレゴコロノミゾ)」と評された土木工事、無謀な百済救援など人々の顰蹙を買った。
百済救援行動は、唐と新羅に敗北し、近江に遷都せざるを得ないことになった。

近江遷都に関しても、不穏な空気があった。
『日本書紀』が、天智の死の直前の10年11月24日に、近江宮に火災があった、と記しているのは、不審火のことと思われる。
壬申の乱において、大海人皇子が勝利したのは、蘇我氏のみならず多くの人々の支持があったからであろう。
大海人皇子は、蘇我系の地盤の飛鳥に宮を戻し、即位した。

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