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2008年1月 6日 (日)

「白鳳」の由来

ところで、「白鳳」という言葉は、何に由来するのだろうか?
「白鳳」は、中学の美術史にも登場しているはずであり、文化史的には著名な言葉である。
一見すると年号のように思えるが、『日本書紀』には「白鳳」という年号は現れない。

笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)では、以下のように説明されている。

「白鳳」の名は、孝徳朝の白雉の年号を奈良時代に白鳳と称したことがあり、また平安時代に入って、天武朝の年号として白鳳があったとする観念が生まれたことによるが、孝徳朝や天武朝に現実に白鳳の年号が行われたことはない(坂本太郎「白鳳朱雀年号考」『日本古代史の基礎的研究』下制度篇所収)

また、上記書には、次のような説明が記述されている。

白鳳時代は、飛鳥時代につぐ仏教文化の第二の発展期であり、その芸術には、初唐芸術の影響もあって、清新・華麗な風がみなぎった。
この時代の寺院建築には、飛鳥時代の流れを汲む旧来の様式のほかに、ことに後半になって、白鳳様式ともいえる新しい建築様式があらわれた。

「白鳳様式ともいえる」というからには、前提として、「白鳳」という時期の規定が明確で、他の時代と何がどう違うかが明確になっていることが必要であろう。
しかし、上記の「白鳳」の由来についての説明は、いつからいつまでを「白鳳」とするのか、いささか漠然としているのではなかろうか。
「現実に『白鳳』」の年号が行われたことはない」のならば、何をもって「白鳳」とし、「白鳳様式」の特徴は何なのか?
なぜ奈良時代に、「白雉」を「白鳳」と称したのか?
「雉」と「鳳」は似たようなものなのか? 素人的には、「雉」と「鳳」ではかなり違うだろうと思う。
あるいは、なぜ平安時代に、「天武朝に白鳳があった」という「観念」が生まれたのか?
上記書は、版元からしても著者からしても、最もオーソドックスな日本古代史のテキストと思われるが、どうもスッキリしないように感じる。

『日本書紀』に登場する年号は、次の3つである(文章は、宇治谷孟現代語訳『日本書紀(下)講談社学術文庫(8808)による)。
大化:「皇極天皇の四年を改めて大化元年とした」(孝徳紀元年)
白雉:「今わが祖先のお治めになる長門国よりめでたいしるしがあった。それ故に天下に大赦を行い、白雉元年と改元する」(孝徳紀大化6年2月)
朱鳥:「二十日、改元して朱鳥元年とした」(天武紀15年7月)
つまり、『日本書紀』に登場する年号は、いずれも「改元」として記述されている。

『続日本紀』には、次のような記述がある(宇治谷孟現代語訳『続日本紀(上)』講談社現代文庫(9206))。
聖武元年10月1日条

京および諸国の僧尼の名籍を調べてみますと、……伏して天皇のご裁定を仰ぎたいと思います。
次のように詔があった。
白鳳以来・朱雀以前(孝徳朝以後天武の諸朝)のことは、遥か昔のことなので、調べ明らかにすることはむつかしい。また役所の記録にも、粗略のところが多くある。そこで今回僧尼の名を確定して、それから公験を支給せよ。

『続日本紀』の記述は、「役所の記録にも、粗略のところが多くある」などと、何やら昨今の「年金記録」問題を彷彿させるが、『日本書紀』の年号の中で、特異なのは、『日本書紀』の天武15年における朱鳥改元記事である。
7月20日の改元のおよそ50日後の9月9日に、「天皇の病ついに癒えず、正宮で崩御された」とある。
天武の死の直前ともいうべき時の改元である。
いかなる理由、いかなる目的のための改元だったのか?

また、『続日本紀』の現代語訳で、朱雀以前を「天武の諸朝」としているが、朱雀と朱鳥との関係はどう考えるべきか?
「白鳳」や「朱雀」は、『日本書紀』や『続日本紀』には現れないが、寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には見られる私年号(逸年号)である。
「白鳳」や「朱雀」は、何らかの形で年号として実際に用いられていたものなのだろうか?

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