干支について
古代史関連の資料書籍類を見ていると、「干支(カンシ、エト)」についての知識が不可欠になってくる。
干支というのは、左表のように、十「干」と十二「支」をを組み合わせたものである。
10と12の最小公倍数は60なので、「干」と「支」の組み合わせによって、60の順序を区分することができる。
現在、「えと」という場合、十二支の方について、ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ……と動物を指すように使われることが多いが、厳密に言えば誤った用法である。
干は、幹・肝と同源であり、支は枝・肢と同源である。
つまり、干支は、幹枝・肝肢に通ずる。
十干の訓読には、「え」と「と」が交互に出てくるが、「え」は陽(剛)を、「と」は陰(柔)を表している。
日本語では、「え」は兄、「と」は弟である。
「えと」という呼び方は、ここから来ている。
干支は、ベトナム、朝鮮半島、日本など、東アジア世界で通用していた。
東アジア世界での標準時ということができる。
干支によって日付を記述する方法(干支紀日法)や月を記述する方法(干支紀月法)は、殷(紀元前600年頃~紀元前1046年の中国の王朝)の時代から用いられていたという。
干支紀年法は、中国の戦国時代(紀元前403~紀元前221年)にはじまったらしい。
木星は、約12年で天球上を一周する。
天球を天の赤道に沿って西から東に12等分した区画(12次)を、木星は1年に1次進むので、木星は年を示す星として、「歳星」と呼ばれる。
古代史との関係で重要なのは、「辛酉革命」「甲子革命」の思想であろう。
辛酉は天命が改まる年、つまり王朝が交代する革命の年とされ、辛酉革命といわれる。
『日本書紀』では、神武天皇が即位したとする年を、西暦紀元前660年の辛酉の年としている。
これについて、明治時代の歴史学者・那珂通世は、『緯書』にある鄭玄という人の注に、1260年に一度(干支1周60年を1元といい、21元。これを1蔀(ホウ)という)の辛酉年に大革命が起こるという記述があることから、推古9(601)年がその大革命の年の基準として、その1260年前の紀元前660年を即位年とした、という説を立てた。
異説としては、一蔀は1320年(22元)が正しく、逆算起点を60年後の斉明7(661)年の辛酉年とする説もある。
また、甲子の年に革令があるとされている。
甲子は、干支の最初であり辛酉の4年後にあたるが、天意が革(アラタ)まり、徳を備えた人に天命が下される変乱の年とされている。
辛酉革命・甲子革令説を世直しの革命説として取り上げたのは平安中期の三善清行で、昌泰4(901)年が辛酉の年にあたっていたため、「除旧布新」すべき年であるとして、世直しのため改元すべきことを上奏し、昌泰は延喜と改元された。
それ以降、改元の年ということになり、1024年以降は、明治の一世一元の詔より前に甲子改元が無かったのは永禄7(1564)年だけだという。
なお、三善清行が辛酉革命説を積極的に取り上げた裏には、ライバルであった菅原道真の失脚をねらったものであるとわれている。
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