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2008年1月29日 (火)

持統天皇…(ⅱ)関裕二説②

持統天皇は、天智天皇と遠智娘の間の子供である。
2_3そして、遠智娘は、蘇我倉山田石川麻呂の娘である。(系譜図:所功監修『歴代天皇』実業之日本社(0602))
持統の誕生年は、乙巳の変の年・645年であるとされている。

乙巳の変は、通説では、古い氏姓制度と蘇我氏による皇室を無視しだ政治を改革するために、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって決起し、唐における先進的な律令制度を日本に導入する道を開いた、とするものである。
しかし、関裕二氏は、『謎の女帝・持統』において、次のように説く。
律令制度の導入を推進していたのは、むしろ蘇我系の豪族や皇族であった。
乙巳の変は、蘇我系が近代化政策によって支持を高めていることに危機感を抱いた中大兄と鎌足が、蘇我系の中心人物である入鹿を暗殺した事件だった。

遠智娘の父の蘇我倉山田石川麻呂も、数奇な運命を辿った。
石川麻呂は、乙巳の変の実行グループの1人で、孝徳朝においては、右大臣という要職にあった。
しかし、蘇我日向の讒言によって、謀反の疑いありとされる。
中大兄皇子は、その疑いを孝徳天皇に報告し、孝徳は使者を遣わして石川麻呂から事情聴取しようとするが、石川麻呂は天皇に直接報告したい、と話すのみだった。
孝徳は、石川麻呂の邸宅を囲むように命じ、石川麻呂は飛鳥の山田に逃げるが、結局、山田寺で一族もろとも自殺をする。
『日本書紀』は、石川麻呂の謀反計画は冤罪であったことが判明したとし、讒言をした蘇我日向は筑紫大宰帥として左遷される。

関氏は、石川麻呂の行動について、次のように推理する。
蘇我入鹿亡きあと難波に都を移した孝徳と、多武峰に拠る中大兄皇子とは対立したままだった。
大化5(649)年に左大臣の阿倍倉梯麻呂が亡くなると、中大兄はこれを好機として、飛鳥一帯で武力行使(ゲリラ戦)に出る。
これを鎮圧すべく派遣されたのが石川麻呂だったが、中大兄勢力によってピンチに陥る。
孝徳は援軍を差し向けるが、既に石川麻呂とその一族は滅亡していて、援軍は難波に戻る。
石川麻呂の死を聞いた遠智娘は発狂して亡くなってしまう。夫・中大兄皇子によって、父を殺されたわけである。
持統(鸕野皇女)5歳の時のことになる。

蘇我系と反蘇我系は、斉明天皇のもとで、大海人皇子と中大兄皇子を中心として、両勢力の統合を図る。
それを実体化するため、遠智娘の2人の遺児、大田皇女と鸕野皇女は、天武のもとに嫁ぐ。
姉の大田皇女は、大来皇女と大津皇子を生み、妹の鸕野皇女は草壁皇子を生んだ。
大田皇女は早く亡くなり、鸕野皇女が皇后の地位を得る。
ところが、姉の子の大津は人望厚い文武に優れた人物に育ったのに対し、妹の子の草壁は病弱で凡庸だった。

『日本書紀』は、朱鳥元(686)年9月9日に天武が崩御すると、皇后は「臨朝称制す」とある。称制とは、即位せずに政務を執ることを意味している。
草壁皇子は、天智元(662)年生まれで、このとき24歳であり、病弱とはいえ母が執政するのは不自然である。
これについて、草壁は立太子していたが、大津も朝政に参加していたので、主導権を確保するために称制した、というのが一般的な理解である。

そして、鸕野皇女は、草壁の最大のライバルである大津を、天武の死の直後に、謀反の疑いの廉で処刑する。
この大津謀反事件は、鸕野の謀略だったことが、ほぼ定説化している。
しかし、その背景については謎の部分が残されている(梅原猛説上山春平説)。
関氏は、大津の姉の大来皇女の行動に着目する。
『日本書紀』には、次のように記されている。

十一月の丁酉の朔壬子に、伊勢神祠に奉れる皇女大来、還りて京師に至る。

一般には、大来皇女が斎王の任を解かれて、都に召還された、と解釈されている。
しかし、『日本書紀』には、鸕野が命じて都に戻したとは書いていない。
それは、この時にはまだ鸕野は天皇に匹敵する権力を有していなかったことを暗示しているのではないか。
大来は自分の意思で帰ってきたのであり、それに対して、鸕野は何も口出しできなかったのではないか、と関氏は推論する。

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