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2008年1月10日 (木)

古代年号偽作説

「古代逸年号」は、鎌倉時代以降に僧侶によって偽作されたものである、という説がある。
「説がある」というよりも、丸山晋司『古代逸年号の謎』によれば、

「通説」では、もちろん、これらを後代の「偽作年号」として無視し続けているのであるが……。

ということであり、「古代逸年号」は、歴史認識の対象にすらされていないらしい。
「通説」は、「大化改新」で有名な「大化」(645年)が最初のもので、「白雉」(650年)へ続き、断絶があって、朱鳥(686年)が1年だけ発布され、「大宝」(701年)以後は、現在まで絶えることなく続いている、とする。
それが歴史学会の「定説」で、われわれが教えられてきたのも(といっても忘れてしまっていて、再学習して思い出している状態ではあるが)そういう認識である。

しかし、もし「古代逸年号」が実在した(実際に使われていた)ものであるならば、「通説」による歴史認識は大きな変更を迫られることになる。それは、古代史像の根本に係わる問題ともいえる。
丸山晋司氏の労作は、史料批判の「論理」から、「実在論」を是とし、「偽作論」を非とすることを試みたものであり、「通説」に立つ人たちは、「論拠」を問うのと同時に、丸山氏の「論理」を論破すべき課題を負っていると思う。
丸山氏の労作の初版刊行から既に15年以上経つが、全体的な状況は余り変わっていないのではなかろうか。

「古代逸年号」を、鶴峰戊申の『襲国偽僣考』を参照して「九州年号」として、自説の「九州王朝説」の柱として展開したのは古田武彦氏であった。
「九州王朝説」そのものが、一時のブーム的状況から否定的論調が強まるに従い(古田否定論調は、『偽書「東日流外三郡誌」事件 』に、古田氏が主体的に係わってきたことよる影響が大きいと思われる)、「古代逸年号」実在説も無視される状況が続いているのであろうか。
古田武彦氏の実在論の骨子は、以下の通りである(丸山:前掲書)。

①「九州年号」は、『日本書紀』の「大化・白雉・朱鳥」と矛盾し、重複しているが、偽作ならばそのようなことをするとは考えられない。
②「偽作」を「継体16年」から始めているのは不自然(古田氏は、『ニ中歴』記載の「継体」を最初の「九州年号」とみた)。偽作するならば、例えば、神武以来とか、もっと区切りがいいところから始めるのではないか。
③「九州年号」は2代の天皇にまたがる場合がしばしばある。偽作とすれば余りにも無神経ではないか。
④『日本書紀』の552年(元興寺縁起などでは538)年とされる仏教伝来以前に、「僧聴」などの仏教関係の文字が使われているが、『日本書紀』の仏教伝来記事を知らない偽作者は想定し難い。

丸山氏は、古田氏の影響を濃厚に受けながら、しかし古田氏と独立的な立場から、史料批判を試みている。
丸山氏は、鎌倉期初頭に成立したと考えられる『ニ中歴』に、古代逸年号が群として記載されており、『ニ中歴』所引の諸文献が平安後期のものであるから、古代逸年号も平安後期の文献から引用されたものだろう、と推測している。
つまり、「鎌倉期以降の偽作」は成立しない、とする。
なお、『ニ中歴』というのは、平安後期成立の百科事典『掌中歴』『懐中歴』のニ歴をあわせて編集したことによる名称である。

「古代逸年号」が、「偽作」だと論証するためには、「いつ」「だれが」「何のために」偽作したかを明らかにする必要がある。
「いつ」については、「鎌倉期以降」とされているが、それが成り立たないことを、丸山氏が示した。
「だれが」については、「僧侶によって」とされているが、それでは特定されたことにならないだろう。
「何のために」については、「日本の年号を古く見せるため」等が想定されているが、これも「だれが」「いつ」とのセットで具体的状況を想定すべきであろう。

「古代逸年号」の実在を直接的に示す文字史料(6、7世紀の九州出土)は、未だ発見されていない(丸山氏)。
しかし、それが「偽作」であったという証拠も見出されていないのである。

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