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2008年1月 2日 (水)

藤原京の造営

持統天皇が、藤原宮に遷都したのは、694(持統8)年の暮のことだった。宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈上〉』講談社学術文庫(8808)では、次のように記述されている。

十二月六日、藤原宮に遷都された。九日、百官が拝朝した。十日、親王以下郡司に至るまでに絁・綿・布をそれぞれに賜わった。十二日、公卿大夫に宴を賜わった。

天武紀に、「(天武二年)二月二十七日、天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥浄御原宮で即位の儀をされた」とある。
持統紀には、「朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩御され、皇后は即位の式もあげられぬまま、政務を執られた」とあり、さらに「四年春一月一日……皇后は皇位に即かれた」とあるから、藤原宮の前は、飛鳥浄御原宮だった。

明日香村の飛鳥京跡とされる地には、飛鳥岡本宮(舒明天皇)、飛鳥板蓋宮(皇極天皇)、後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武・持統天皇)が重なって存在していた、と考えられている。
飛鳥浄御原宮跡とされる遺構はその最上層であり、内裏にあたる東西約200m、南北約170mの内郭と、その南約150mにあるエビノコ廓とからなる。
飛鳥浄御原宮跡から藤原宮大極殿までの距離は3.5kmで、歩けば1時間足らずの場所だった。

藤原宮までは、天皇一代ごとに新しい宮を築くのが原則だった。
宮を中心に役所を設け、その周辺に皇族や貴族や役人の住居が存在した。しかし、特に秩序だった形ではなかった。
寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎』草思社(0305)によって、藤原京を概観してみよう。
藤原京は、新しい造都理念に基づいて発想された都であった。
その理念とは、次の2つである。
①天皇一代限りではなく、永代の都とすること
②道路を碁盤目状に敷設し、施設を計画的に配置すること

Photo藤原京は、東西路(条)と南北路(坊)を座標軸として構成された。
東西の中央を、南北に幅25mの朱雀大路が通って、京を2分した。
東側が左京で、西側が右京である。
一般道路は、大路が幅10m前後、小路が幅6m程度で、これらが等間隔に縦横に走って、街区が格子状に区画された。

京の中心となる藤原宮は、一辺約1kmの四周に塀をめぐらせ、宮の内部には、北から南に向かって、内裏(天皇の住居)、大極殿、朝堂(政務や儀式の場)が整然と並んでいた。
持統天皇は、藤原京への遷都の3年後(697年)に、15歳の孫の軽皇子(草壁皇子の子)に皇位を譲った。文武天皇である。
持統は、大宝2(702)年に58歳で亡くなるが、その5年後の慶雲4(707)年には、文武も25歳の若さで亡くなってしまう。

文武の後は、母親の阿閉皇女が皇位を継ぐ(元明天皇)。文武の遺児の首皇子がまだ7歳だったためである。
元明は、即位の半年後に新都造営の詔を発し、和銅3(710)年には平城京に遷都した。
永代の都として計画された藤原京は、わずか16年で廃都となってしまった。
その条坊は土に埋もれ、条里制の水田と化してしまった。
藤原京が廃都された理由は謎とされている。

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