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2008年1月31日 (木)

持統天皇(ⅲ)…関裕二説③

天武亡き後、皇太子草壁は、なぜ即位できなかったのか?
関氏は、『日本書紀』における草壁皇子の記事を抽出する。

天智元:草壁皇子、大津宮に誕生
朱鳥元:天武天皇崩御 持統皇后称制
持統元:正月 皇太子(草壁皇子)ら殯宮に参り慟哭る
     五月 皇太子殯宮に参り慟哭る    
     八月 殯宮に嘗をする
     九月 殯宮で斎会を催す
持統ニ:正月 皇太子ら殯宮に参り慟哭る
     八月 殯宮に参り慟哭る
     十一月 皇太子ら殯宮に参り慟哭る
持統三:正月 天皇、正殿にて元旦の朝拝を行う
         持統天皇吉野に行幸
         吉野から帰る
     二月 藤原朝臣史(不比等)らを判事とする
     四月 皇太子草壁皇子薨去

草壁皇子は、天武が崩御してから亡くなるまでの3年間を、ほとんど天武の殯宮で慟哭していたような記述である。
ところで、持統・草壁親子は、どこに宮を作っていたのか?
『続日本紀』の天平宝字2(758)年、草壁皇子に岡宮御宇天皇という称号が追号される。
つまり、「岡宮」で天下を治めていた天皇という意味であるが、草壁皇子が実際に即位していたという意味ではない。
「岡」宮はどこに在ったか?

『日本書紀』の舒明2年10月条に、以下の記述がある。

冬十月壬辰の朔癸卯に、天皇、飛鳥岡の傍に遷りたまふ。是を岡本宮と謂ふ。

また、斉明2年是歳条に、以下の記述がある。

是歳、飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。
……
号けて後飛鳥岡本宮と曰ふ。田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以す。田身は山の名なり。

「岡」宮はどこに在ったのか? 「岡本」と「岡」はどういう関係か?
通説は、舒明2年条の「飛鳥岡」の「岡」は地名ではなく、一般名(丘:小高い土地)とし、その近くにあるから「岡本」と呼んだ、とする。
つまり、「岡宮」と「岡本宮」は、前者は地名としての「岡」に在り、後者は丘の近くに在ったということで、両者は無関係というものである。
しかし、関氏は、この両者に関係あり、とする。
舒明は岡の傍に宮を造ったが、その宮は、岡の中心・本拠地になって岡本となった。
「岡本」は「岡」の傍であり、「岡」が存在するための拠り所、支えになった地である。
つまり、岡本宮は、多武峰の垣の中に設けられ、ふもとにある岡(小高い地)に岡宮はあった。

大津処刑後、蘇我系王朝の中で孤立した持統(=鸕野皇女)は、飛鳥の中心にいられなくなり、反蘇我系を頼り、「岡」に逼塞することを余儀なくされた。
『日本書紀』は、蘇我系と反蘇我系の相克を隠すため、持統と草壁のいた宮地を伏せざるを得なかった。
『日本書紀』には頻回の持統の吉野行幸を行っているが、どの宮に戻ったのかについてはまったく記さない。
持統は異常なまでに頻回の吉野行幸を行ったが、彼女が吉野からどこに戻ったのかを記さない。

それは、持統が、政治の中心だった飛鳥に戻ることができず、吉野と岡宮を往復していたということではないのか?
大津皇子の処刑によって、持統は蘇我系勢力から疎外された。反蘇我系を頼りに岡宮に入り、朝廷に返り咲く機会を覗うが、愛息は3年後に亡くなってしまう。
つまり、持統が即位できるような状況はなかった。
『日本書紀』は持統の即位の場所を明示していない。『扶桑略記』では、持統は不比等の私邸で即位したとしている。
天皇が即位する場所が、豪族の私邸というのも相応しくない。
持統は、実際は即位していなかったのではないか?

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