藤原京の立地
『日本書紀』には、藤原宮という言葉は登場するが、藤原京という言葉は出てこない。
持統5年10月に、「甲子に、使者を遣して新益京を鎮め祭らしむ」とあるように、新益京という一般名詞で記述されている。
これまでにない条坊制を取り入れた広大な都城だったから、固有名詞をつけなくても通じたのだと思われる。
新益京は、文字通り「新たに増した京」である。
つまり、それまでの飛鳥浄御原宮に近く、その北部に拓かれた新開地というわけである。
新益京の地鎮祭が持統5年とされることから、藤原京の造営は持統天皇によって始められた、と考えられていた。
しかし、岸俊男教授は、藤原京の造営計画は、天武時代に始まっていたことを主張した。
その論拠は、『日本書紀』の持統元年十月に、「始めて大内陵を築く」とあり、その檜隈大内陵が藤原京の中軸線である朱雀大路の真南の延長線上に位置していて(いわゆる「聖なるライン」)、このときに既に藤原京の計画が定まっていたと考えられるからである。
また、持統2年に正月に、天武天皇の殯宮の記述があるが、そこで「丁卯に、無遮大会(カギリナキヲガミ)を薬師寺に設く」とあり、薬師寺の寺地が決まっていて、法会を営むことができるほど堂宇が出来上がっていたことが窺える。
薬師寺は、藤原京の条坊に従って建立されており、藤原京の造営計画が天武天皇の時代に始まっていたことが推測できる。
天武5年には次のような記載がある。
是年、新城に都をつくらむとす。限の内の田園は、公私を問はず、皆耕さずして悉に荒れぬ。然れども遂に都つくらず。
「新城に、遂に都つくらず」の原因は不明だが、天武は新都造営の意思を持っていたわけである。
『万葉集』に次の歌がある。
大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ(巻19-4260)
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ(巻19-4261)
大君は天武天皇を指し、これらの歌は、飛鳥浄御原宮の都づくりの歌と解釈されてきた。
しかし、飛鳥の地はさほど広いものではなく、歴代天皇によって開発されてきた土地でもあるから、歌意にそぐわない。
藤原の名前は、「藤井が原」が縮まったものとされる。湧水の多い沼地に近いところだったらしい。
広大な京域を造成するために多くの人々が集められ、埋め立てと整地が行われた。
藤原京造営のために、広い荒地や沼地を整地する情景を詠んだと理解すれば、イメージは良く合う。
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