藤原京の規模
土に埋もれた藤原宮の所在地が確定したのは、昭和になってからである。
藤原宮は、橿原市高殿町に所在するが、その宮の位置を最初に推定したのは、江戸時代中期の国学者・賀茂真淵だとされる(「藤原宮木簡と郡評論争」(9月12日の項))
昭和8(1933)年春に、高殿町(旧鴨公村高殿)にあった鴨公小学校の校舎増築に際し、礎石や古瓦が発見され、民間の日本古文化研究所が発掘調査を行って、大極殿や朝堂の遺構を発見した。
発掘調査は、奈良国立文化財研究所(現在は独立行政法人・奈良文化財研究所)が引き継いで続けられており、2007年にもさまざまな成果があったことは既に述べた通りである。
しかし、日本古文化研究所の調査開始以来75年経つが、藤原京の規模については、まだ論争が継続している。
昭和41(1966)年に、藤原宮の内裏地区と推定される場所に、国道165線のバイパス建設が計画され、保存運動が起きて、内裏跡の遺構が確認された。
岸俊男京都大学教授が、この発掘成果をもとに、昭和44(1969)年に、藤原京の全体の規模を推定した。
岸説は定説的位置を占めるに至ったが、その後の発掘の成果によって、岸説の域外にも条坊に合致する道路跡が発見された。
平成8(1996)年には、藤原京の西京極、東京極とみられる道路跡の発見があり、「大藤原京」説が提唱され、岸説に替って定説化してきている(寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎』草思社(0305)、図はhttp://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm022.html)。
しかし、南北の京極跡は未だ未確認で、大藤原京の規模に関しても未確定部分が残されている。
岸説では、藤原京は平城京の1/4程度の規模とされていたが、大藤原京説では、平城京や平安京をしのぐ規模だとされている。
大藤原京では、藤原宮が京の中心地点に位置している。
藤原京は、唐の長安に倣ったとされるが、長安では「宮」は「京」の北辺中央部に設置されている。
道教の天帝思想では、天空の星が地上の人間関係の秩序や運命を司ると考えた。
その天を支配しているのは北端の中心点に座している北極星(北辰・天極星)である。
中国の皇帝は、天帝からの付託によって地上世界を支配しているとされ、その「宮」も北辺中央部に位置した。
大藤原京で「天子南面」が成立していないのは、唐との交流がしばらく途絶えていたからであろうと推測されている(寺沢:前掲書)。
藤原京遷都の約30年前の663(天智2)年、わが国は百済救援の向かった朝鮮半島白村江で、唐・新羅連合軍に大敗した。
遣唐使の派遣は中止され、それが復活したのは藤原京遷都の8年後で、中止以前に派遣された遣唐使には、都城造営の知識や技術を習得するミッションはなかったのだろう。
藤原京造営は、遣唐使が中断されていた33年間の後半期であり、都城造営についての十分な情報がなかったものと思われる。
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