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2008年1月14日 (月)

「歳次干支」について

『日本書紀』には、干支による表現が多い。
例えば、巻第六の「活目入彦五十狭茅天皇 垂仁天皇」の即位前紀には次のようにある。
(活目入彦五十狭茅天皇:イクメイリビコイサチノスメラミコト)
(坂本太郎他校注:岩波文庫版『日本書紀(ニ)』)

天皇、御間城天皇の二十九年歳次壬子の春正月の己亥の朔を以て、瑞籬宮に生れましたまへり。

この「歳次○○(○○は干支)」について、その意味するところを追求したのが、砂川恵伸『古代天皇実年の解明―三倍在位年数を証明する 平成衝口発 』新泉社(0503)である。
『日本書紀』の紀年には不合理と思われることが多々あり、その解釈をめぐって様々な論考が発表されてきた。
砂川氏の著書は、干支の観点からのアプローチを試みたものである。

砂川氏によれば、記紀などに見られる歳次干支という言葉には、次の3通りの意味がある。
①「歳は……に次(ヤド)る」から転じた「……の歳」という意味の熟語の場合(従来の解釈)。
②「歳は……を次(ツ)ぐ」と読まなければならない場合→「……の前年」の意味となる。
③「歳は……に次(ツ)ぐ」と読まなければならない場合→「……の翌年」の意味となる。

さて、上記の垂仁天皇の場合、その没年に関しては、次のように書かれている。

九十九年の秋七月の戊午の朔に、天皇、纏向宮に崩りましぬ。時に年百四十歳。

そして、即位については次の通りである。

元年の春正月の丁丑の朔戊寅に、皇太子、即天皇位す。
中略
十一月の壬申の朔癸酉に、皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳壬辰。

元年が壬辰であれば、九十九年は庚午となり、庚午の年に百四十歳で亡くなったことになる。
しかるに、「歳次壬子」を壬子の年と考え、その年に生まれたとすると、
壬子:1歳 であれば、
庚午:19歳or79歳or139歳
となる。

つまり、1歳の食い違いがあり、これを解決する考え方として、
①垂仁紀九十九年条の「垂仁は一四○歳で亡くなった」を「一三九歳で亡くなった」の誤りとする
②「御間城天皇の二十九年歳次壬子」を「壬子を次ぐ歳、すなわち(壬子の前年の)辛亥の年」とする
のいずれかがあり得る。

『日本書紀』の開花紀、崇神紀等の記述を総合すると、「歳次壬子」「歳は壬子を次ぐ=壬子の前年=辛亥」の意味で使用しているとすると、すべての齟齬がなくなる。
従来は、「歳次○○」は、「○○の歳」と考えられており、それによって理解不能のことも多々あった。
砂川氏の読解は、一種のブレークスルーであろう。
ちなみに、砂川氏は医師を職業としている人である。

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