壬申の乱…(ⅱ)「原因」論争
「壬申の乱」には謎が多いが、別冊歴史読本『古代史論争 歴史大事典』新人物往来社(0101)に、『壬申の乱「原因」論争』と題する項目があり、「大海人皇子が決起した理由の「正当性」は何か?」が論じられている。
ここでは、以下が前提とされている。
①「壬申の乱」は、ポスト天智をめぐる後継争いであり、その当事者は大海人皇子と大友皇子であることについて、異説はほぼない。
②近江政権を百済系、大海人皇子方を新羅系とする説が一般に流布しているが、渡来氏族を百済系、新羅系に明確には弁別できず、この仮説は根拠がない。
大海人皇子が「壬申の乱」を起こす正当性について、以下の諸説が紹介されている。
1.荒木敏夫説『日本古代の皇太子』
皇太子であることが正当性の根拠とされているが、当時は皇太子制自体がなかった。
皇太子の地位は、飛鳥浄御原令か大宝令で成立したもので、軽皇子(文武天皇)か首皇子(聖武天皇)が初例。
首皇子が皇太子の場合でも、元正女帝が即位するなど、次期天皇としての皇太子の地位は、まだ確定していなかった。
次期皇位継承者の地位が成立していなかったのだから、皇太子・大海人皇子の「正当な継承権の回復」という主張は成り立たない。
『日本書紀』の編纂は、天武天皇の命令で始まっているから、その点を書き替えている。
2.遠山美都男『壬申の乱』
大海人皇子が重篤だった天智天皇を見舞ったとき、天智が「後事を以て汝に属く」といったのに対し、大海人は、「請ふ、洪業(ヒツギ)を挙げて、大后に付属けまつらむ」(大后の倭姫王に譲位せよ)と提案した。
これは、大友皇子の即位を認めず、女帝によって、皇位継承権の留保を企図したものである。
「壬申の乱」は、この留保された継承権の決着を図るものだった。
この項を担当している松尾光氏は、以下のように総括している。
①当時は、平安時代のような確定的儲君制はなかった。しかし、大海人皇子は、後継者の一番手として位置づけられていたのではなかろうか。
「壬申の乱」は、大海人皇子の大王位「奪還」行為であり、『日本書紀』の改竄は、分かり易くする程度のものとみることができる。
儲君:WIKIPEDIA「皇太子」(080111最終更新)では、次のように説明されている。
南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」とならないこともあった。これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに、立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。
南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。これに対して、北朝においては、後円融天皇から南北朝合一を遂げた後の霊元天皇に至るまで、300年以上にわたって立太子を経ない儲君が皇位に就いている。
②大海人が倭姫王の即位を促したことへの着目は面白い。
もし、倭姫王が即位していたら、皇位継承権は留保されたかも知れないが、彼女は即位せず、大友皇子が公式に後継者についたのだから、大海人は継承権を留保し得ないことを知っていたのではないか。
大海人皇子決起の根拠は、まだ十分に論じ尽くされているとは言えない。
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