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2008年1月

2008年1月31日 (木)

持統天皇(ⅲ)…関裕二説③

天武亡き後、皇太子草壁は、なぜ即位できなかったのか?
関氏は、『日本書紀』における草壁皇子の記事を抽出する。

天智元:草壁皇子、大津宮に誕生
朱鳥元:天武天皇崩御 持統皇后称制
持統元:正月 皇太子(草壁皇子)ら殯宮に参り慟哭る
     五月 皇太子殯宮に参り慟哭る    
     八月 殯宮に嘗をする
     九月 殯宮で斎会を催す
持統ニ:正月 皇太子ら殯宮に参り慟哭る
     八月 殯宮に参り慟哭る
     十一月 皇太子ら殯宮に参り慟哭る
持統三:正月 天皇、正殿にて元旦の朝拝を行う
         持統天皇吉野に行幸
         吉野から帰る
     二月 藤原朝臣史(不比等)らを判事とする
     四月 皇太子草壁皇子薨去

草壁皇子は、天武が崩御してから亡くなるまでの3年間を、ほとんど天武の殯宮で慟哭していたような記述である。
ところで、持統・草壁親子は、どこに宮を作っていたのか?
『続日本紀』の天平宝字2(758)年、草壁皇子に岡宮御宇天皇という称号が追号される。
つまり、「岡宮」で天下を治めていた天皇という意味であるが、草壁皇子が実際に即位していたという意味ではない。
「岡」宮はどこに在ったか?

『日本書紀』の舒明2年10月条に、以下の記述がある。

冬十月壬辰の朔癸卯に、天皇、飛鳥岡の傍に遷りたまふ。是を岡本宮と謂ふ。

また、斉明2年是歳条に、以下の記述がある。

是歳、飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。
……
号けて後飛鳥岡本宮と曰ふ。田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以す。田身は山の名なり。

「岡」宮はどこに在ったのか? 「岡本」と「岡」はどういう関係か?
通説は、舒明2年条の「飛鳥岡」の「岡」は地名ではなく、一般名(丘:小高い土地)とし、その近くにあるから「岡本」と呼んだ、とする。
つまり、「岡宮」と「岡本宮」は、前者は地名としての「岡」に在り、後者は丘の近くに在ったということで、両者は無関係というものである。
しかし、関氏は、この両者に関係あり、とする。
舒明は岡の傍に宮を造ったが、その宮は、岡の中心・本拠地になって岡本となった。
「岡本」は「岡」の傍であり、「岡」が存在するための拠り所、支えになった地である。
つまり、岡本宮は、多武峰の垣の中に設けられ、ふもとにある岡(小高い地)に岡宮はあった。

大津処刑後、蘇我系王朝の中で孤立した持統(=鸕野皇女)は、飛鳥の中心にいられなくなり、反蘇我系を頼り、「岡」に逼塞することを余儀なくされた。
『日本書紀』は、蘇我系と反蘇我系の相克を隠すため、持統と草壁のいた宮地を伏せざるを得なかった。
『日本書紀』には頻回の持統の吉野行幸を行っているが、どの宮に戻ったのかについてはまったく記さない。
持統は異常なまでに頻回の吉野行幸を行ったが、彼女が吉野からどこに戻ったのかを記さない。

それは、持統が、政治の中心だった飛鳥に戻ることができず、吉野と岡宮を往復していたということではないのか?
大津皇子の処刑によって、持統は蘇我系勢力から疎外された。反蘇我系を頼りに岡宮に入り、朝廷に返り咲く機会を覗うが、愛息は3年後に亡くなってしまう。
つまり、持統が即位できるような状況はなかった。
『日本書紀』は持統の即位の場所を明示していない。『扶桑略記』では、持統は不比等の私邸で即位したとしている。
天皇が即位する場所が、豪族の私邸というのも相応しくない。
持統は、実際は即位していなかったのではないか?

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2008年1月30日 (水)

大来皇女

『日本書紀』の斉明紀に、以下のような記述がある。(08年1月17日の項参照)
斉明6(660)年に、百済が唐・新羅連合軍に攻撃されて滅亡し、復興支援の要請を受けて、斉明7(661)年正月6日に、斉明天皇が難波を出発した。このとき、大田皇女が同船し、2日後に大伯皇女を出産した。 
大伯皇女は、大津皇子の姉であり、持統紀では大来皇女と表記されている。
『万葉集』に以下の歌が採録されている。(佐々木信綱編『新訂 新訓・万葉集〈上〉』岩波文庫(2709)

   大津皇子薨りましし後、大来皇女、伊勢の斎宮より京に上りましし時、作りませる御歌二首
163 神風の伊勢の國にもあらましをいかにか来にけむ君もあらなくに
164 見まく欲りわがする君もあらなくにいかにか来けむ馬疲るるに
     大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし時、大来皇女哀傷みて作りませる御歌二首
165 うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわが見む
166 磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといはなくに
     右の一首は、今案ふるに、葬を移す歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢神宮より京に還りし時、路の上に花を見て、感傷み哀咽しみてこの歌を作りませるか。

165、166番の歌にあるように、大津皇子は、二上山に移し葬られた。
二上山は、「当麻寺…①二上山」の項に書いたように、飛鳥から見ると、この山に夕陽が沈む。
二上山は、生と死を分ける霊山であり、山のこちら側は此岸で、向こう側は彼岸である。
謀反という大罪を着た大津が、このような神聖な山に葬られたことについて、どう考えるか?
罪人だから、一番目立つこの山に葬られた、という考えもあるが、いささか無理がある。
そこで、大津の墓は山頂ではなく、山麓の鳥谷口古墳である、という説が有力になっている。

しかし、関裕二氏は、「大津の墓は二上山の山頂にあって一向にさしつかえない」とする。
大津は、捕らえられてから処刑されるまでの時間からして、最初の墓は簡略なものだったであろう。
だからこそ、姉の大来皇女は、二上山の山頂へ移して、手厚く葬った。
かくして、『万葉集』は、『日本書紀』が隠そうとした一面を表に出す。
大来皇女は、自分の意思で伊勢から都に戻り、かつ朝廷(鸕野皇女=持統)の意向を無視して、大津を二上山の山頂に移葬してしまう。
大津が罪人であるならば、大来と鸕野の態度は理解不能である。
このことは、大津を殺したことの非が、鸕野の側にあったからではないか。
そして、大津を排除したにもかかわらず、鸕野は、朝廷内の支持を全面的に獲得していたわけではなかった、ということになる。

大津が二上山に移葬されたことを知り、鸕野は、自分の立場が危ういものであることを再認識するしかなかった。
壬申の乱において、天武に与した功臣が多数いる朝廷で、鸕野は壬申の乱の敵・天智の娘だった。
大津は、天武の有力な後継候補だった。大津を殺した鸕野は、孤立を余儀なくされたのではないか。
鸕野は、大津を処刑したことにより、自らピンチに陥った。

『日本書紀』では、鸕野は天武の殯を2年2ヵ月も続けたとしている。
草壁が亡くなって後即位し(持統)、天武の遺志を継いで、律令体制を整備し(飛鳥浄御原令)、藤原京遷都を行った。
つまり、持統は、天武の政策の忠実な継承者だった、ということになる。

しかし、関氏は、吉野裕子『持統天皇』人文書院(8712)から恐るべき推論を引用する。
先ず第一に、天武死後の3年間の空白は尋常ではない。
そして、皇位継承者として殆んど同じ資格を持つ2人の皇子が、相前後して急逝した。これも不自然な出来事である。
2人の皇子の死には共通するものがある。すなわち、2つの死は、同一人における同一目的の殺人である。
つまり、鸕野(持統)の権力への執念が、大津皇子だけでなく、愛する我が子まで殺めてしまったのではないか。

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2008年1月29日 (火)

持統天皇…(ⅱ)関裕二説②

持統天皇は、天智天皇と遠智娘の間の子供である。
2_3そして、遠智娘は、蘇我倉山田石川麻呂の娘である。(系譜図:所功監修『歴代天皇』実業之日本社(0602))
持統の誕生年は、乙巳の変の年・645年であるとされている。

乙巳の変は、通説では、古い氏姓制度と蘇我氏による皇室を無視しだ政治を改革するために、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって決起し、唐における先進的な律令制度を日本に導入する道を開いた、とするものである。
しかし、関裕二氏は、『謎の女帝・持統』において、次のように説く。
律令制度の導入を推進していたのは、むしろ蘇我系の豪族や皇族であった。
乙巳の変は、蘇我系が近代化政策によって支持を高めていることに危機感を抱いた中大兄と鎌足が、蘇我系の中心人物である入鹿を暗殺した事件だった。

遠智娘の父の蘇我倉山田石川麻呂も、数奇な運命を辿った。
石川麻呂は、乙巳の変の実行グループの1人で、孝徳朝においては、右大臣という要職にあった。
しかし、蘇我日向の讒言によって、謀反の疑いありとされる。
中大兄皇子は、その疑いを孝徳天皇に報告し、孝徳は使者を遣わして石川麻呂から事情聴取しようとするが、石川麻呂は天皇に直接報告したい、と話すのみだった。
孝徳は、石川麻呂の邸宅を囲むように命じ、石川麻呂は飛鳥の山田に逃げるが、結局、山田寺で一族もろとも自殺をする。
『日本書紀』は、石川麻呂の謀反計画は冤罪であったことが判明したとし、讒言をした蘇我日向は筑紫大宰帥として左遷される。

関氏は、石川麻呂の行動について、次のように推理する。
蘇我入鹿亡きあと難波に都を移した孝徳と、多武峰に拠る中大兄皇子とは対立したままだった。
大化5(649)年に左大臣の阿倍倉梯麻呂が亡くなると、中大兄はこれを好機として、飛鳥一帯で武力行使(ゲリラ戦)に出る。
これを鎮圧すべく派遣されたのが石川麻呂だったが、中大兄勢力によってピンチに陥る。
孝徳は援軍を差し向けるが、既に石川麻呂とその一族は滅亡していて、援軍は難波に戻る。
石川麻呂の死を聞いた遠智娘は発狂して亡くなってしまう。夫・中大兄皇子によって、父を殺されたわけである。
持統(鸕野皇女)5歳の時のことになる。

蘇我系と反蘇我系は、斉明天皇のもとで、大海人皇子と中大兄皇子を中心として、両勢力の統合を図る。
それを実体化するため、遠智娘の2人の遺児、大田皇女と鸕野皇女は、天武のもとに嫁ぐ。
姉の大田皇女は、大来皇女と大津皇子を生み、妹の鸕野皇女は草壁皇子を生んだ。
大田皇女は早く亡くなり、鸕野皇女が皇后の地位を得る。
ところが、姉の子の大津は人望厚い文武に優れた人物に育ったのに対し、妹の子の草壁は病弱で凡庸だった。

『日本書紀』は、朱鳥元(686)年9月9日に天武が崩御すると、皇后は「臨朝称制す」とある。称制とは、即位せずに政務を執ることを意味している。
草壁皇子は、天智元(662)年生まれで、このとき24歳であり、病弱とはいえ母が執政するのは不自然である。
これについて、草壁は立太子していたが、大津も朝政に参加していたので、主導権を確保するために称制した、というのが一般的な理解である。

そして、鸕野皇女は、草壁の最大のライバルである大津を、天武の死の直後に、謀反の疑いの廉で処刑する。
この大津謀反事件は、鸕野の謀略だったことが、ほぼ定説化している。
しかし、その背景については謎の部分が残されている(梅原猛説上山春平説)。
関氏は、大津の姉の大来皇女の行動に着目する。
『日本書紀』には、次のように記されている。

十一月の丁酉の朔壬子に、伊勢神祠に奉れる皇女大来、還りて京師に至る。

一般には、大来皇女が斎王の任を解かれて、都に召還された、と解釈されている。
しかし、『日本書紀』には、鸕野が命じて都に戻したとは書いていない。
それは、この時にはまだ鸕野は天皇に匹敵する権力を有していなかったことを暗示しているのではないか。
大来は自分の意思で帰ってきたのであり、それに対して、鸕野は何も口出しできなかったのではないか、と関氏は推論する。

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2008年1月28日 (月)

持統天皇…(ⅰ)関裕二説

天智と天武との関係を考える上で、持統天皇の位置づけが大きなポイントになる。
持統は天智の娘であり、天武の皇后である。
この持統に関して、実際には即位していなかったのではないか、とする説がある。
例えば、関裕二『謎の女帝・持統』KKベストセラーズ(0202)は、『日本書紀』が実際には即位していなかった持統を天皇として扱ったため、その記述に多くの歪みが生じた、とする。

関説は、6世紀後半から7世紀にかけてのヤマトの大王家には、2つの大きな流れがあった、という認識から始まる。
片方は、雄略天皇以来の「強い王権」を目指す王家で、他方はヤマト朝廷誕生以来の緩やかな合議制を求める王家である。
後者は蘇我系王朝であり、前者は反蘇我系王朝である。
蘇我系王朝は、多くの豪族の支持を取りつけ、飛鳥を拠点に磐石の体制を築く。聖徳太子や蘇我入鹿などの活躍がそれを示している。

「強い王権」を目指す反蘇我系は、国内での劣勢をはね返そうと、百済との結び付きを強めることを図る。
これに対し、蘇我系は、百済との一極外交の弊を除くため、唐・新羅・高句麗と多角的な外交を目指した。
こういう事情もあり、朝鮮半島では唐と新羅の連合軍によって、百済が衰弱していく。
この二つの流れが激突したクライマックスが、乙巳の変(入鹿暗殺事件)だった。この事件は、反蘇我のクーデターに他ならない。

乙巳の変の後、斉明朝で実権を握った中大兄は、百済救援の兵を挙げるが、唐・新羅連合軍に壊滅的な大敗を喫する。
わが国は亡国の危機に瀕するが、唐・新羅は高句麗に矛先を転じ、さらに新羅が唐から離反したことも手伝って、危機を切り抜ける。
中大兄は近江に遷都して即位するが、天智崩御の直後に大海人皇子が東国から挙兵、大友皇子を倒す。
この壬申の乱で大海人が勝利した要因として、蘇我系豪速の加担があった。

反蘇我系の天智の弟の大海人皇子に蘇我系が加担したことに異論があるだろうが、天智(中大兄)と大海人が兄弟でなければ不自然さは消える。
乙巳の変は、反蘇我系(中大兄)の蘇我系潰し、壬申の乱は、蘇我系(大海人)の復活、という図式である。
その中で鍵を握るのが斉明天皇である。

乙巳の変の直前、反蘇我系は、飛鳥の東の多武峰(トウノミネ)に拠点を作り、要人暗殺や有力豪族の女人略奪を行って蘇我政権に揺さぶりをかけていた。
飛鳥で高向王(蘇我系)と結ばれていた斉明は、多武峰の勢力に略奪された。
反蘇我系の担ぐ舒明天皇との間にできた子が、中大兄である。
高向王と斉明との間には、漢皇子という子供がいた。それが大海人皇子である。つまり異父兄弟説である。
大海人が中大兄より年長であるという史料の記述の矛盾は、この説で解消される。

孝徳天皇崩御に際し、2つの勢力は妥協の道を探った。
2つの勢力の中心は共に斉明の子供である。斉明重祚によって和解が成立し、天智朝で蘇我系が要職を占めたのは、こういう背景があったからである。
斉明の即位によって、中大兄は飛鳥に返り咲くことができたが、「狂心の渠(タブレゴコロノミゾ)」と評された土木工事、無謀な百済救援など人々の顰蹙を買った。
百済救援行動は、唐と新羅に敗北し、近江に遷都せざるを得ないことになった。

近江遷都に関しても、不穏な空気があった。
『日本書紀』が、天智の死の直前の10年11月24日に、近江宮に火災があった、と記しているのは、不審火のことと思われる。
壬申の乱において、大海人皇子が勝利したのは、蘇我氏のみならず多くの人々の支持があったからであろう。
大海人皇子は、蘇我系の地盤の飛鳥に宮を戻し、即位した。

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2008年1月27日 (日)

天智暗殺説

井沢元彦氏は、天智暗殺説を小説化している。『隠された帝―天智天皇暗殺事件』祥伝社(9702)である。
『日本書紀』(宇治谷孟現代語訳)では、天智崩御の様子は、以下のように記されている。

九月、天皇が病気になられた。
  ……
(十月)十七日、天皇は病が重くなり、東宮(大海人皇子)を呼ばれ、寝所に召されて詔し、「私の病は重いので後事をお前に任せたい」云々といわれた。
  ……
十二月三日、天皇は近江宮で崩御された。十一日、新宮で殯した。この時つぎのような童謡があった。
  み吉野の鮎こそは、島の辺りにいるのもよかろうが……
  ……
この年、讃岐国の山田郡の人の家に、四本足のひよこが生まれた。また宮中の大炊寮に、八つの鼎(釜)があり、それがひとりでに鳴った。ある時は一つ鳴り、ある時は二つ、ある時は三つ一緒に鳴った。またある時は八つ共一緒に鳴った。

つまり、天智は病になって、そのまま近江宮で崩御した、ということになっている。
『隠された帝』の時制設定は現代であり、登場人物が歴史上の出来事を推理する一種のベッド・ディテクティブである。
出発点は『扶桑略記』に書かれている記事である。同書は、寛治8年(1094)年以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧皇円(法然の師)が編纂したとされる(異説もある)。

1同書では、十二月三日に天皇崩の後に、五日に大友皇子が帝位に就いたとし、一云(こういう説もある)という形で、「馬を御して山階郷に幸し、更に還御なし、永く山林に交りてその崩ずるところを知らず」とある。
『扶桑略記』の信憑性について、アカデミズムの史家は、否定的である。
しかし、井沢氏の基本的な視点は、正史だから書けないこともあり、後世で関係者が居なくなった時点で初めて書けることもある、というところにある。
つまり、『日本書紀』と『扶桑略記』の記述内容に矛盾や齟齬がある場合、必ずしも『日本書紀』が正しいとは言えないということになる。

井沢氏は、『日本書紀』の天智・天武兄弟説も疑わしい、とする。
もっとも、これは井沢オリジナルということではなくて、兄弟説否定論者の小林惠子氏の説を紹介するという形で説明されている。
小林氏は、皇統を天智系と天武系に区分けする。
皇位は、天智から大友(弘文)へ継承されたが、「壬申の乱」によって、天武に移った。
天武の死後、皇后の持統が引き継ぐ。
持統は、孫の軽皇子が成人するのを待って譲位し、文武天皇が誕生する。
しかし、文武は25歳の若さで亡くなり、首皇子がまだ7歳だったため、文武の母(首皇子の祖母)が即位し、その後を首皇子の母が継いで(元正天皇)、首皇子が成人するまでの間、皇位を維持する。
元正の後、首皇子は即位して、聖武天皇となる。

聖武に男子が居なかったため、阿倍内親王が即位して孝謙天皇になる。
孝謙は未婚だったため、舎人親王の子の大炊王に譲位し淳仁天皇が誕生する。
孝謙天皇は上皇となるが、淳仁と折り合いが悪くなり、淳仁を廃帝として、重祚して称徳天皇となる。
称徳の後、白壁王が即位して光仁天皇となる。
光仁即位に際しては、陰謀めいたことがあったらしいが、それはともかく、皇位が天智系へ復帰したことになる。
光仁の次が、平安遷都の桓武天皇である。

2小林氏は、天皇家の菩提寺だった京都の泉湧寺では、天智天皇以後の天皇を祭っているが、天武系は除外されていることを指摘している。
これについて、泉湧寺のパンフレットには、「平安京の第一代桓武天皇、その御父光仁天皇、その直系の御祖天智天皇、この三天皇が霊明殿に奉祀の特に古い御方で、歴代天皇が奉祀されている。
一読すると当たり前のような記述であるが、図示してみれば、天智のあと天武から称徳までが飛ばされていて、天智だけが異例の位置づけということになる。
ここでも、天智と天武は別姓であるかのような扱いである、

天智天皇は、百人一首の第一番目の歌人として馴染みが深いが、「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ」の歌意に疑問が呈されていた。
天皇が、なぜ、そんな粗末な小屋にいたのか?
しかし、もし、天智が山科の野で変死したのであれば、不思議ではない、ということになる。
この歌は、『万葉集』にも載っていないし、そもそも天智の作かどうかも疑わしい。
天智には他にもいい歌があるにもかかわらず、藤原定家がこの歌を天智作として採録したことは、『扶桑略記』に書かれているような事情を認識していたからではないか、と井沢氏は登場人物に推理させている。
天智と天武の関係については謎が多いが、この時期は、中国の史書から「倭国」が消えて「日本国」が登場する時代でもある。
あるいは、天皇号が始まる時期でもあることを考えれば、その実相に迫ることは、日本のアイデンティティを考えるうえでも重要なテーマと言えるだろう。

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2008年1月26日 (土)

天智と天武…諡号考

『日本書紀』においては、天智天皇と天武天皇は、同父同母の兄弟であるが、その関係を疑う論者は少なくない。
その1人が、歴史ミステリー作家の井沢元彦氏である。
井沢氏は、「偶然か? それとも…②大津皇子」の項に書いたように、折口信夫を探偵役にした『猿丸幻視行』で、1980年に第26回江戸川乱歩賞を受賞している。
『逆転の日本史』シリーズなど、日本史に対してユニークな視点を提供し続けている。

井沢式「日本史入門」講座 2 万世一系/日本建国の秘密の巻』徳間書店(0701)で、「天智と天武の関係は本当に兄と弟なのか」について、見解を披瀝している。
ところで、天智とか天武という名前は、死後に贈られる諡号であって、生前にそう呼ばれていたわけではない。
また、諡号も国風と漢風の2つがあり、天智や天武は、漢風諡号である。
漢風諡号は、奈良時代に、淡海の三船(養老6(722)年~延暦4(785)年)が、神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文と文武を除く)を一括撰進したとされている。

天皇諡号について、漢文に対する深い学識を基に論究したのが、明治の文豪・森鴎外であった。
その論考『帝謚考』は大正8(1919)年に脱稿、大正10(1921)年に図書寮から限定100部が関係官庁等に配布された。
現在は、岩波書店『森鴎外全集』に収録されている。
井沢氏は、『帝諡考』をもとに、以下のように解説している。

天智と天武の名前の由来は、中国の周の歴史書『周書』の記述に基づいている。
周王朝は、殷王朝を倒した武によって建てられた。
殷の最後の王だった紂(チュウ)王は、中国史上最も暴虐な君主だったとされる。
その紂王を自殺に追い込んで倒したのが臣下だった武だった。武から見れば、暴虐王を倒すのは正義だったということになる。
そして、紂王が自殺したときに身に付けていたのが、「天智玉」という宝玉だった。
紂王の死後、天智玉を手に入れたのが武王で、それが「天智」「天武」の諡号の由来である、ということである。

つまり、天智と天武の関係は、中国の紂王と武王の関係に相似している、という意味だということになる。
武王は、紂王を自殺に追い込んで王位についた。
しかし、天武は、天智の息子の大友皇子は討っているが、天智を討っているわけではない。
だから、天智と天武の関係は、紂王と武王の関係とは異なる、ということになるだろうか?

井沢氏は、そこに正史の建前論がある、と説く。
もし、天武が、天智も討っていたとしたらどういうことになるか?
天皇位にあった人間を殺したのだから、大逆罪である。もし大友が即位していたら、二重の大逆罪である。
天武が編纂を命じ、天武の息子の舎人親王が編纂責任者だった『日本書紀』が、その通りに記述するわけがない。
天智は病死し、その死後に、息子の大友皇子と弟の大海人皇子が争った。
つまり、皇子という対等の立場の人間の争いだった、という構成にした。
しかし、淡海三船は2人の関係を知っており、それで、天智と天武という諡号を付けた。

天智の陵は、京都の山科にある。
この時代の陵は、ほとんどが飛鳥にあるのだが、天智だけ離れて山科にあるのは何故か?
それは、天智の大津京への遷都と関係があると考えられる。しかし、だとしたら、なぜ、琵琶湖側ではなく京都側なのか?
『扶桑略紀』という平安時代に書かれた史料に、「山科の里に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。山林の中で、どこで亡くなったのか分からない。それで、その沓が落ちていたところを陵にした」と書かれている。
その後も、天智の遺体は発見されなかった。
天智は、中国の紂王と同じように、殺害されたのではないか? 井沢氏の推理である。

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2008年1月25日 (金)

「朱鳥」改元の一解釈…砂川史学⑧

『日本書紀』に登場する「『朱鳥』改元」記事は、以下のような点で不自然である。
①天武紀15年(686)7月の改元であるが、同年9月9日には天武が崩御しており、死の直前に改元した理由が不明である
②『日本書紀』においては、その前の年号の白雉から32年間の断絶があり、しかも朱鳥は1年で終わって、その後15年の断絶があり、その後の大宝からは連続している
③「阿詝美苔利(アカミトリ)」と和訓が施されている(大化も白雉も和訓はない)

これらの不自然さに対する解の1つが、九州王朝で用いられていた年号(九州年号)が、『日本書紀』に混入(偽入)したという考え方である。
その混入の経緯に関して、砂川恵伸氏の『天武天皇と九州王朝―古事記・日本書記に使用された暦』新泉社(0612)に、面白い推論が載っている。

天武14年11月条の記事である。

十一月の癸卯の朔甲辰に、儲用の鉄一万斤を、周防総令の所に送す。是の日に、筑紫大宰、儲用の物、絁一百匹・糸一百斤・布三百端・庸布四百常・鉄一万斤・箭竹二千連を請す。筑紫に送し下す。

儲用は、坂本太郎他校注では、「官庁で必要とする物品」と説明されているが、砂川氏は、文字通り「儲君の用」と解すべきである、としている。
儲君は、1月22日の項でWIKIPEDIAから引用したように、皇位継承者を指す言葉であり、特に立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。
因みに砂川氏は、藤堂明保編『学研漢和大辞典』から、
「儲」:名詞:主たる者の控えとしてとっておく人。儲君。
という解説を引いて、自説を補強している。

つまり、素直に解釈すれば、鉄や布類などの上記の物品は、儲君の用に供するために筑紫に送った、という意味である。
しかも、その日のうちに、である。
天武は、筑紫の太子の要求した物品を、言われた通りに送った、ということになる。
大皇弟すなわち天武天皇を、大皇の弟と解釈し、九州王朝の王者が大皇だったとすれば、太子は天武の兄の子すなわち甥に当たる。

朱鳥改元記事は、この翌年のことである。
近畿天皇家には、朱鳥に関連するような事象は皆無で、節目ともいえない時期に改元されている。
これについて、砂川氏は、布類が多いことから、式典用の物品ではないか、とする。
つまり、丙戌年(天武15)に、筑紫で九州王朝の太子が即位の式典を挙行した。その丙戌年を朱鳥と改元したのではないか。
天武14年11月にある「儲用の物」とは、「太子即位の式典の物品」の意味であろう。

『万葉集』には、以下のような朱鳥年号が注釈的に入っている歌がある。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html

0034 白波の浜松が枝の手向ぐさ幾代までにか年の経ぬらむ
     日本紀ニ曰ク、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国ニ幸ス。

0044 吾妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
     ……右、日本紀ニ曰ク、朱鳥六年壬辰春三月丙寅ノ朔戊辰、浄広肆廣瀬王等ヲ以テ、留守官ト為ス……

0050 やすみしし 我が大王 高ひかる 日の皇子 荒布の 藤原が上に 食す国を……
     右、日本紀ニ曰ク、朱鳥七年癸巳秋八月、藤原ノ宮地ニ幸ス。……

0195 敷布の袖交へし君玉垂の越智野に過ぎぬまたも逢はめやも 
     右、日本紀ニ云ク、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川嶋薨セリ。

『日本書紀』では、朱鳥は元年しか存在していず、朱鳥2年は、持統元年になっている。
持統紀の紀年法は、「持統n年」である。
とすれば、朱鳥2年以上の表記のある史料が存在することは、近畿天皇家とは無関係な年号と考えるべきではないか。
『二中歴』では、朱鳥は、天武15年(丙戌)から9年間を朱鳥としている。
上記を総合すれば、朱鳥は九州王朝で制定した年号で、『日本書紀』はそれを天武が制定したかのように記載している、ということになる。

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2008年1月24日 (木)

壬申の乱…(ⅳ)国体論

万世一系の皇国史観において、「壬申の乱」はどのように捉えられていたのだろうか?
里見岸雄『國體に對する疑惑』里見研究所出版部(1928年4月)という著書がある。
著者の里見岸雄については、今では知る人も少ないのではないか、と思う。
明治30(1897)年に、国柱会創始者の田中智学の三男として生まれ、早稲田大学を卒業後、イギリス、ドイツ、フランスに留学し、昭和11(1936)年に日本国体学会を創設した。
立命館大学法学部国体学科で教鞭を執り、戦後は憲法改正運動と国体護持運動に生涯を捧げた。歴史学、法学、哲学、宗教学に深い造詣を有し、生涯の著作は、英文、独文のものも含め200冊を超えるという(http://shikisima.exblog.jp/2286503/)。

里見の父の田中智学は、「八紘一宇」という造語を創作したことで知られる。
「純正日蓮主義」を掲げ、法華経を国教とした日本が世界を征服し、全世界を天皇を頂点とした1つの国家に統一することを意味していた。
軍部はこの思想を利用し、大東亜共栄圏の名目で、東アジア諸国を侵略した。
現時点で見れば、トンデモな危険思想のように思えるが、石原莞爾や宮沢賢治なども、国柱会の熱心な信者だった。
石原莞爾は、満州事変の立役者という印象が強いが、日中戦争の拡大には反対の立場だった。
宮沢賢治は、軍国主義やナショナリズムとは縁遠いように思われるが、24歳で国柱会に入会し、生涯会員だった。
また、かつて創価学会や公明党の唱えていた「国立戒壇の建立」も田中智学の発想だったことも付言しておきたい。

ところで、「国体」といっても、われわれの世代ですら、国民体育大会の略語と思うのが普通である。
しかし、皇国史観の中心的なコンセプトとして、さまざまな論議をされてきた。
悪名高い治安維持法(1925(大正14)年公布・施行)では、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」と規定されており、1928(昭和3)年の改正では、構成要件が分離されて、「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」となった。
つまり、国体を変革することを志向することは、死刑もあり得る重罪とされたわけである。

ただ、その「国体」の観念が、われわれにとっては、いささか分かりづらいことも事実である。
文部省編纂『國體の本義』内閣印刷局(3705)では、次のように解説されている。

大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。

要するに、天照大神が孫のニニギノミコトを降臨させるに際し、神勅を授けた。
それには、自分の子孫が、豊葦原瑞穂の国、つまり日本国を、未来永劫にわたって統治すべきであることが示されていた。
つまり、万世一系の天皇家の統治の正統性である。
神話に書かれていることが、近代国家統治の根本原理とされていたのだから、共同幻想というのは大きな力を持つものである。

しかしながら、このような国体論には、常識的な感覚で考えるとおかしなことが多々出てくる。
國體に對する疑惑』は、それらについてどう考えるべきかを説いた本である。
例えば、次のような「疑惑」に関するQ&Aである。
・天皇陛下の御真影に敬礼するは要するに偶像崇拝にあらずや
・天皇は何故神聖なりや

・我等は何故天皇に忠義を尽さざるべからざるか、忠義観念はつひに人の理性を昏昧ならしむる麻酔剤にあらざるか
  ……

これらのQについて、多くの人は、そもそも問題意識を持たないか、追求してみようという意識を持たない、一種の思考停止の態度だったのではないのだろうか。
尤も、現在だって、女性誌等において、芸能報道と皇室報道とは紙一重であり、「そもそも天皇制とは?」などと考える人は少数派のようである。
しかし、これらの「疑惑」に対して、里見岸雄は熱心に回答する。

里見の設定した問いの中に、「壬申の乱の如き忌はしき歴史あり、何を以て國體を讃美するや。」という項目がある。
「神州日本は萬國に冠たり」などと自讃自負するならば、「國史上の種々なる忌はしき事件は如何にして起り得たか」「國初以来君臣其別を守り、民は君を犯す無く、君は民を虐ぐる事なし、などゝいふ主張がいたる處に裏切られてゐるではないか」と問う。

そして、皇位継承に関するトラブルは、皇位継承候補者が一定していなかったから起きたのであり、その代表例が「壬申の乱」であるとする。
それは国体に対する無自覚に起因するものであり、それを解決したのが、明治天皇によって定められた「皇室典範」であるというのが、里見岸雄の回答である。
先ず「國體ありき」という自覚から出発しなければならない、という循環する論理で説くしかなかったことが、国体論を突き詰めていった結果だったということであろうか。

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2008年1月23日 (水)

壬申の乱…(ⅲ)砂川史学⑦

「大海人皇子は九州王朝の皇子である」とする砂川恵伸『天武天皇と九州王朝―古事記・日本書記に使用された暦』新泉社(0612)においては、「壬申の乱」は、どう捉えられるであろうか?
砂川氏の推論では、大海人皇子(天武)は九州王朝の皇子であり、天智は近畿天皇家の天皇で、2人の祖先が神武天皇の直前の代で分かれたとしても、40数代を遡るし、応神天皇で分かれたとしても24代前のことであるから、「別姓」と考えていい。
つまり、「壬申の乱」は易姓革命である。

しかし、易姓革命の「革命」には、別姓の下位のものが上位のものに取って代わるというニュアンスが込められている。
天武と天智とを比べた場合、天智が上位とはいえない。
「壬申の乱」の起きた672年には、九州王朝は衰微しきっていたとはいえ、消滅しているわけではない。
倭国の王者の座が近畿天皇家であったわけではない。そういう意味では、「壬申の乱」は、易姓革命ではない、ともいえる。
しかし、革命でなかったとしても、天智と天武は同姓ではないと考えるべきだ。
つまり、万世一系とは言えない、ということになる。

天武2年8月条に、次の記述がある。

耽羅の使人に詔して曰はく、「天皇、新たに天下を平けて、初めて即位す。是に由りて、唯賀使を除きて、以外は召したまはず。」

つまり、天武は武力によって新王朝を創始したのだから、新王朝への祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない、と言っている。
言い換えれば、天武には、易姓の意識があった、ということであろう。

また、『日本書紀』の天武紀10年の条に以下の記載がある。

(三月の)丙戌に、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めたまふ。

中国では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例である。
天武が歴史編纂を命じたことにも、易姓革命の意識があったことが窺われる。

天智の後継者は、天武即位前紀に、「天命開別天皇(天智天皇)の元年に、立ちて東宮と為りたまふ」という記述があることから、大海人皇子が皇太子に指名されていた、とするのが通説である。
しかし、その当時皇太子制が確立されていなかったとすれば、この部分の記述は信憑性に欠けることになる。
「万世一系」という論理を貫徹させるために、別姓である天智と天武を同父同母の兄弟とし、その上天智が大海人皇子を後継に指名した、という筋書きに構成したのではないか。

天武紀の特徴の1つに、おびただしい数の叙姓がある。
天武13年10月条には、諸氏の姓を改めて、「真人」「朝臣」「宿禰」「忌寸」「道師」「臣」「連」「稲置」の「八色の姓」を新設し、姓を一本化する詔が出されている。
砂川氏は、「八色の姓」は、九州王朝の姓だったのではないか、と推測している。
「八色の姓」の制定とそれに基づく201氏族への叙姓は、「九州王朝の王が、近畿天皇家の家臣団の中で自分の臣従する者の本領を安堵する」ことを認めた行為だった。
本領:もともと所有した領地
安堵:土地の所有権・知行権などを将軍や領主などが承認すること

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2008年1月22日 (火)

壬申の乱…(ⅱ)「原因」論争

「壬申の乱」には謎が多いが、別冊歴史読本『古代史論争 歴史大事典』新人物往来社(0101)に、『壬申の乱「原因」論争』と題する項目があり、「大海人皇子が決起した理由の「正当性」は何か?」が論じられている。
ここでは、以下が前提とされている。
①「壬申の乱」は、ポスト天智をめぐる後継争いであり、その当事者は大海人皇子と大友皇子であることについて、異説はほぼない。
②近江政権を百済系、大海人皇子方を新羅系とする説が一般に流布しているが、渡来氏族を百済系、新羅系に明確には弁別できず、この仮説は根拠がない。

大海人皇子が「壬申の乱」を起こす正当性について、以下の諸説が紹介されている。
1.荒木敏夫説『日本古代の皇太子』
皇太子であることが正当性の根拠とされているが、当時は皇太子制自体がなかった。
皇太子の地位は、飛鳥浄御原令か大宝令で成立したもので、軽皇子(文武天皇)か首皇子(聖武天皇)が初例。
首皇子が皇太子の場合でも、元正女帝が即位するなど、次期天皇としての皇太子の地位は、まだ確定していなかった。
次期皇位継承者の地位が成立していなかったのだから、皇太子・大海人皇子の「正当な継承権の回復」という主張は成り立たない。
『日本書紀』の編纂は、天武天皇の命令で始まっているから、その点を書き替えている。

2.遠山美都男『壬申の乱』
大海人皇子が重篤だった天智天皇を見舞ったとき、天智が「後事を以て汝に属く」といったのに対し、大海人は、「請ふ、洪業(ヒツギ)を挙げて、大后に付属けまつらむ」(大后の倭姫王に譲位せよ)と提案した。
これは、大友皇子の即位を認めず、女帝によって、皇位継承権の留保を企図したものである。
「壬申の乱」は、この留保された継承権の決着を図るものだった。

この項を担当している松尾光氏は、以下のように総括している。
①当時は、平安時代のような確定的儲君制はなかった。しかし、大海人皇子は、後継者の一番手として位置づけられていたのではなかろうか。
「壬申の乱」は、大海人皇子の大王位「奪還」行為であり、『日本書紀』の改竄は、分かり易くする程度のものとみることができる。
儲君:WIKIPEDIA「皇太子」(080111最終更新)では、次のように説明されている。
南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」とならないこともあった。これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに、立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君」(ちょくん、もうけのきみ)と呼ばれた。
南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。これに対して、北朝においては、後円融天皇から南北朝合一を遂げた後の霊元天皇に至るまで、300年以上にわたって立太子を経ない儲君が皇位に就いている。

②大海人が倭姫王の即位を促したことへの着目は面白い。
もし、倭姫王が即位していたら、皇位継承権は留保されたかも知れないが、彼女は即位せず、大友皇子が公式に後継者についたのだから、大海人は継承権を留保し得ないことを知っていたのではないか。

大海人皇子決起の根拠は、まだ十分に論じ尽くされているとは言えない。

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2008年1月21日 (月)

壬申の乱…(ⅰ)研究史

「壬申の乱」は、大海人皇子が、先帝天智天皇の長子大友皇子の統括する近江朝廷への叛乱軍を組織し、実力によってこれを倒し、皇位を獲得した事件である。
『日本書紀』巻ニ十八(天淳中原瀛真人天皇:天武天皇(上)は、全巻を「壬申の乱」の記述に費やしている。
天武1人で2巻というのも異例であるし、即位前紀というべき事件に1巻を費やしているのも異例である。
しかし、皇国史観では、叔父と甥が皇位を争ったことになる「壬申の乱」の扱いは、かなりやっかいだったと思われる。

星野良作『研究史 壬申の乱・増補版』吉川弘文館(7801)の「はしがき」に白州正子さんの言葉が引用されている。

私が子供の頃、もっとも興味を持ったのは、壬申の乱についてであった。が、学校では教ええくれない。皇位継承の争いなぞ、当時はタブーであったからだ。終戦が来て、タブーはとかれ、壬申の乱に関する本は巷に氾濫した。私はむさぼるように読みふけったが、一つとして満足を与えてくれたものはない。少なくとも私の目にふれた限りでは、いずれも図式的で、天智天皇は専制君主の悪玉、天武天皇は民衆の支持を得た善玉で、玩具の兵隊ごっこしている風に見えた。そんな単純なわり切り方は、次第に通らなくなったとは言え、そういう考え方がまったく失せたとはいい切れない。

「芸術新潮」の昭和47年10月号の『近江山河抄Ⅲ・大津の京』の中の文章である。
幸いにして、私たちは、皇位継承の争いに関するタブーから解放された時代に育っている。
だから、史実としての「壬申の乱」がどうであったか、に関して、純粋な好奇心を持つことができる。
皇位継承に関して、現行の「皇室典範」を改定することが必要ではないか、という議論がなされていたとき、秋篠宮家に悠仁親王が誕生し、とりあえずの議論に終止符が打たれた。
兄から弟の系統への皇位の変更の可能性を、現代版「壬申の乱」などと称することができたのも、タブーが解かれたお陰である。
しかし、にもかかわらず、「壬申の乱」は、依然として謎の多い事象である。

星野良作氏の上掲書では、「壬申の乱」の研究史を、以下の三期に区分している。
①江戸時代:大友皇子即位の主張とその論拠→明治3(1870)年の弘文天皇追諡で一応の落着
②弘文天皇追諡~第二次大戦の終結:弘文即位の史実性の研究や乱の意義などであるが、天皇制の重圧が増大した時期で、全般的に研究は停滞
③戦後~現在:本格的な研究の展開。しかし、論争の形で発展したものも多く、明確な結論を得ていない部分が少なくない

星野氏は上掲書において、「増補 最近における壬申の乱の研究」という項目を設けている。
増補版刊行の時期から既に30年を経て、各種の論考が引き続き提出されているが、星野氏の増補版刊行時点における「最近の研究」の内容の大要を見てみよう。
・皇位継承問題と「不改常典」の解釈:不改常典は、天智が皇位の継承を兄弟相続から直系相続に切り換えようとして定めた皇位継承法か?
・「不改常典」の新解釈と直(嫡)系皇位継承法説:直系による皇位継承と嫡系による皇位継承
・評造軍研究からの視点:兵力の性格論からの評造軍という軍制についての研究
・壬申の乱と伊福部の性格:大海人の軍事的基盤の究明による乱の意義へのアプローチ
・壬申の乱と渡来人の動向:東アジア史の流動との関係

通説の代表として、笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)の記述を見てみよう。

六七一(天智一○)年、天皇は子の大友皇子を太政大臣に任じて皇太弟大海人皇子の実権を奪い、少数の豪族が権力を握る専制的な体制をとってこの危機に対処しようとしたが、同年病死した。
吉野に隠退した大海人皇子は、天智天皇の死後、大友皇子を擁する近江の朝廷と対立し、翌六七ニ(天武元)年六月、ひそかに吉野を出、伊賀・伊勢をへて美濃(岐阜県)にいたり、ここを本拠として東国の兵を集めた。近江方は急遽諸国に募兵したが失敗し、この間大和でも大伴氏や倭漢氏などの在地豪族が大海人皇子に呼応して蜂起した。七月に入り、大海人皇子方は諸道から攻勢に転じ、瀬田川を渡って大津京を陥れ、大和でも援軍をえた大伴吹負が全地域を平定した。七月ニ三日、大友皇子が自殺して戦闘は終了した。これが壬申の乱である。壬申の乱は皇位継承をめぐる争いであるが、それが大規模な戦乱となった背景には、対外危機を背景に強力に中央集権政策を進めてきた天智天皇に対する豪族層の不満、抵抗があったことが考えられ、それが大海人皇子が各地の首長層の武力を動員しえた大きな原動力となっていたと考えられる。しかし、乱の勝利によって強大な皇権を手中に収めた天武天皇は、この後、律令制を軸とする中央集権化を、一層強力に推進していくことになる。

「壬申の乱」は、『日本書紀』の記述を客観的に解すれば、叛乱軍が実力で皇位を簒奪した事件である。
「万世一系」史観にとっては、まことに具合が悪い出来事である。
「大皇弟」の大海人皇子と、長子大友皇子とのどちらが正当な皇位継承権者だったのか?
叛乱軍が、軍事的に圧勝した背景はなんだったのか?
天智(中大兄)と天武(大海人)の本当の関係は?
「壬申の乱」が、古代史解釈の分岐点であることは間違いない。

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2008年1月20日 (日)

砂川史学…⑥大海人皇子(6)

天武即位前紀の、「天命開別天皇(天智天皇)の元年に、立ちて東宮と為りたまふ」をどう理解すべきか?
文字通り解釈すれば、中大兄皇子が天皇に即位して、すぐに大海人皇子を後継者(皇太子)に指定した、ということになる。
そして、通説では、天智天皇が息子の大友皇子ではなく、大海人皇子を皇太子に指定した理由を、以下のように理由づけしている。
①大友皇子の生まれが卑しいから
②当時の皇位継承は世代が優先するから(親に兄弟がいる場合は、親の兄弟の世代が先に皇位につく)
などと説明している。

砂川氏は、『日本書紀』における兄弟間の皇位継承の全11例について、その事情を検証している。
そして、結論として、「兄弟がいるときは、兄弟に皇位を継がせることが慣例だった」ということが、事実ではないことを示している。
11例の中で、先代が兄弟を後継者(皇太子)に指定しているのは1例(履中→反正)だけで、他の場合は、先代の子が幼いか、嗣子がいないために群臣の協議によって擁立されたものである。あるいは、己の軍事力で天皇に即位している。

つまり、『日本書紀』の記述する時代の近畿天皇家では、兄弟に皇位を継承させることが慣例だった、という通説は間違いだった、ということになる。
息子が適当な年齢に達していれば、息子を後継者に指定するのは、まあ当たり前ともいえる。
それでは、なぜ、天智は大友皇子を後継者に指定しなかったのか

天智の即位について、天智紀は次のように記す。

七年の春正月の丙戌の朔、戊子に、皇太子即天皇位す。(或本に云はく、六年の歳次丁卯の三月に、位に即きたまふ。)

(或本に云はく……)として書かれている「注」こそが、天智の真実の即位年ではないのか?
この「六年の歳次丁卯」を、砂川氏は、「六年、歳は丁卯を次ぐ」と読むべきである、とする。
つまり、『「歳次干支」について』(08年1月14日の項)で示したように、「……を次ぐ」と読む場合は、「……の前年」の意味であり、「六年、歳は丁卯を次ぐ」は、「六年=丙寅年=666年」の意味となる。

天智3(664)年(甲子)に大海人皇子が近畿大和に出現し、天智6(666)年(丙寅)に天智が即位する。
この2年間を、砂川氏は、天智が「東日本の支配者の地位をこれまでどおり近畿天皇家のものとすべきか、あるいは九州王朝の大海人皇子に譲るべきか」迷った期間だとする。
その迷いの末に天智は即位を決断するが、その際に、大海人皇子と「次はあなたに位を譲ります」という契約を交わしたのではないか。
それが、「天命開別天皇(天智天皇)の元年に、立ちて東宮と為りたまふ」ということだろう。

この元年は、「六年の歳次丁卯=丙寅=666年」のことであろう。
天智と大海人皇子との不仲を伝える記事もある。
中臣鎌足の曾孫で、恵美押勝として知られる藤原仲麻呂らにより作成された『藤氏家伝』には、「近江浜楼事件」が次のように記されている。

帝(天智)、群臣を召して、浜楼に置酒したまふ。酒酣(タケナワ)にして歓を極む。是に、大皇弟長き槍を以て、敷板を刺し貫きたまふ。帝、驚き大きに怒りて、執害(ソコナ)はむとしたまふ。大臣固く諌め、帝即ち止めたまふ。大皇弟、初め大臣の所遇の高きことを忌みたるを、茲(コ)れより後、殊に親ぶることを重みしたまふ。

天智の催した酒宴の席で、大海人皇子が槍を抜いて敷板を刺し貫くという振る舞いをした、というのだから、大事件である。
大海人皇子は、天智即位を全面的に是認していなかった、ということかも知れない。
天智即位後、九州王朝の没落は、誰の目にも明らかになっていく。
それを踏まえ、天智は、大海人皇子との契約を反故にし、大友皇子を後継者にすることを決断する。
天智10年条に、「大友皇子を以て、太政大臣に拝(メ)す」とある記述がそれを示している。

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2008年1月19日 (土)

砂川史学…⑤大海人皇子(5)

『万葉集』1-27に、次の歌がある。(佐々木信綱編『新訂 新訓・万葉集〈上〉』岩波文庫(2709)

  天皇、吉野宮に幸しし時の御製の歌
淑き人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見つ
  紀に曰く、八年己卯年庚申朔甲申、吉野宮に幸しきといへり。

『日本書紀』の天武紀八年の条には、次のようにある(ワイド版岩波文庫)。

五月の庚辰の朔甲申に、吉野宮に幸す。乙酉に、天皇、皇后及び草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して曰はく、「朕、今日、汝等と倶に庭に盟ひて、千歳の後に、事無からしめむと欲す。奈之何」とのたまふ。

いわゆる「吉野の盟約」の記事である。
上記の万葉歌は、天武天皇の歌ということになるが、その意味がよく分からない歌として知られている。
「よき」「よし」を繰り返す言葉遊びに過ぎないようにも感じられる。
砂川氏は、これを、近畿天皇家に対して大海人皇子が倭国の一員として、倭・百済連合軍の戦いに参加して欲しいと要請したことが成功したことを詠んだものではないか、とする。

いい人がいて(淑き人の)、九州王朝の要請を理解してくれて(よしとよく見て)、軍隊派遣を賛成してくれた(良しと言ってくれた)。いい人に巡り会うことができたものだ(よき人よく見つ)

ところで、大海人皇子は、天智紀の3年2月条、7年5月条、8年5月条等において、「大皇弟」と表記されている。
そして、「大皇弟」と表記されるのは、大海人皇子のみである。
「大皇弟」とは、「大いなる天皇の弟」の意味であると考えられるが、天智3年には中大兄はまだ即位していない。
「皇太子の弟だから大皇弟と表記された」というのは不自然である。

天武即位前紀には、「天命開別天皇(天智天皇)の元年に、立ちて東宮と為りたまふ」とあり、四年「十二月に、天命開別天皇崩りましぬ」とある。
『日本書紀』本文では、天智即位年は天智七年の戊辰年とされている。
天智崩御は天智十年の辛未年だから、上記の「四年十二月」は辛未年であり、天智七年の戊辰年を「元年」とした数え方になる。
7(元)戊辰→8(2)己巳→9(3)庚午→10(4)辛未
つまり、大海人皇子が「立ちて東宮と為りたまふ」とされているのは、天智七年の戊辰年ということになる。

中大兄が皇太子の時には、大海人皇子を「中大兄皇子の東宮(皇太子)」と呼ぶことはあり得ないから、天智即位年に「立ちて東宮と為りたまふ」は当然のことである。
とすると、、「大海人皇子(2)」の項に記したように、天智紀の「三年春二月の己卯の朔丁亥に、天皇、大皇弟に命して」という表記された「大皇弟」には、「太子(ヒツギノミコ)」や「東宮」という意味はない、とすべきではないか。
坂本太郎他校注では、天智三年二月条の「大皇弟」に「ひつぎのみこ」という訓がふられているが、それは後代になってからの解釈で、『日本書紀』の記述でも、天皇に即位するまでの中大兄皇子の表記は、いずれも「皇太子」となっている。

天智三年二月条に、「天皇」と表記されているのは、「大皇弟」という表記との位取りを合わせるためで、大海人皇子を大皇弟と表記し、中大兄皇子を皇太子と表記したのでは位取りがおかしくなるためである。
大海人皇子を「大皇弟」と表記するために、中大兄を天皇と表記したとすると、なぜ天智三年の時点で、大海人皇子を「大皇弟」と表記しなければならなかったのか?

中大兄の表記を、わざわざ天皇に変更してまで「大皇弟」という言葉を使ったのは、大海人皇子が既に「大皇弟」と呼ばれていたと考えるべきであろう。
それでは、大海人皇子は、なぜ、既に「大皇弟」と呼ばれていたのか?
大海人皇子が九州王朝の皇子であるとすれば、「大皇」という呼称・表記が、そのときの九州王朝の王の呼称ではなかったのか?
「大皇弟」は、「大いなる皇弟」ではなく、「大皇の弟」の意味だと考えるべきだ、というのが、砂川氏の推論である。

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2008年1月18日 (金)

砂川史学…④大海人皇子(4)

天武天皇と九州王朝―古事記・日本書記に使用された暦 』新泉社(0612)という著書のタイトルが示すように、砂川恵伸氏の論考は、古田武彦氏の「九州王朝説」の影響下にある。
古田氏の第二書『失われた九州王朝』朝日新聞社(7308)に接し、「それまで不透明で謎だらけであった日本古代史が澄み渡るような感じを受けた」として、以下の項目を挙げている。

①従来の近畿天皇家一元史観では、誰に比定してもしっくりこない「倭の五王」問題。
②隋書には、七世紀初頭の倭国に君臨した「阿毎足利思比(北)孤」という王者が記載されているが、近畿天皇家による日本側文献にはそのような王者は存在しないこと。
③白鳳・朱雀を初めとする多くの逸年号・九州年号といわれる不思議な年号の存在。

砂川氏は、『失われた九州王朝』により、早晩、日本古代史の書き換えが起きると考えた。
しかし、同書が刊行されてから、既に35年間が過ぎようとしているが、日本古代史は以前として、近畿天皇家一元史観が通説としての立場を保っている。
砂川氏は、九州王朝説を信じつつ、そのウィークポイントとして以下を挙げる。

①何故、七枝刀は石上神宮にあるのか?
②何故、法隆寺釈迦三尊像は法隆寺にあるのか?
③日本書紀に記述されている対朝鮮交渉史は、そのほとんどが九州王朝の対朝鮮交渉史であるはずなのだが、それを近畿大和の対朝鮮交渉史として、何故、あれほど克明に記述することができたのか?

九州王朝が実在したのならば、百済王から九州王朝の王に贈られた七枝刀や、出家して法皇となった九州王朝の王をかたどった法隆寺釈迦三尊像は、九州に存在しなければならない。
九州に存在しないのであれば、紛失あるいは焼失したという状況証拠が欲しい。

これらの諸点に関し、砂川氏は、「これらを九州から大和に運びこんだのは大海人皇子であり、大海人皇子は近畿天皇家の皇子ではなく、九州王朝の皇子である」という1つの解に辿りついた。
砂川氏は、『筑前国風土記』宗像郡の条に記された次の説話を紹介している。

其の大海命(オオアマノミコト)の子孫は、今の宗像朝臣等、是なり。云々

「大海命の子孫は今の宗像朝臣等である」というのは、「天武天皇の子孫は……」というように解釈されるし、されてきた。
しかし、それならば、なぜ、「天武天皇の子孫は……」と記述しないのだろうか?
一般論として考えれば、天皇が祖先であるならば、その天皇の即位以前に生まれた子の子孫であったとしても、「○○天皇の子孫」と書いた方が家格は高くなるから、そう書くはずである。
それがそうなっていないことの理由を、砂川氏は次のように説明する。

九州筑紫に皇子としての大海命がいた。九州王朝の皇子の1人である。
しかし、大海命は九州では大王になれなかった。その後、大海命は九州を離れ、近畿大和で天智天皇のあとに天武として天皇になった。
九州に取り残された子孫はそれを知らなかったか、知っていても九州在住の九州王朝の者の眼からすれば、近畿大和の天皇は格の低いものだった。
そのため、自らの系譜を、「天武天皇の子孫」と改めず、「其の大海命の子孫」のまま伝承した。
そして、天皇の呼称が日本の支配者の呼称であるという認識が九州に浸透する前に、筑前国風土記に収録された。

『日本書紀』が、大海人皇子(天武天皇)の妃の1人に、「胸形君徳善の女(ムスメ)尼子娘」がいたとしていることは既述の通りである。
この胸形君徳善は、現在の福岡県宗像市の辺りにいた有力者であると想定される。
九州王朝の皇子・大海人皇子は、白村江の戦いの際に、本拠地の筑紫に留まっていた。
そこへ、倭・百済連合軍の潰滅的敗北の報が届く。
唐・新羅連合軍が攻めてくるかもしれないが、それを迎撃する兵力は筑紫には残されていない。
そこで、大海人皇子は、九州王朝の宝物一切を帯同して、近畿大和へ逃げた。七枝刀や対朝鮮交渉史の史料等である。
法隆寺釈迦三尊像は、大海人皇子が天武天皇になってからか、持統天皇の時代に九州から運びこまれたのだろう。

斉明7(661)年正月に、大田皇女が臨月だったとすれば、妊娠したのは斉明6(660)年3月頃ということになる。
斉明6年春、九州王朝の皇子・大海人皇子は、倭国(九州王朝)の同盟軍として近畿天皇家に軍隊を派遣するよう要請するため、九州王朝の「大使」として、近畿天皇家を訪れた。
そのとき、近畿天皇家の皇太子・中大兄皇子の娘の大田皇女がもてなしのため差し出されたのではないか。
その結果が、大田皇女の妊娠で、筑紫に戻った夫・大海人皇子を訪ねるため、大田皇女は斉明の百済救援の軍団に同行した。
そして、難波出航の2日後、岡山県の大伯で大伯皇女を出産した。

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2008年1月17日 (木)

砂川史学…③大海人皇子(3)

『日本書紀』の天武2年条には次の記載がある。

二月の丁巳の朔癸未に、天皇、有司に命せて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子尊を生れます。先に皇后の姉大田皇女を納して妃とす。大来皇女と大津皇子とを生れませり。次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子とを生れませり。次の妃新田部皇女、舎人皇子を生れませり。又夫人藤原大臣の女氷上娘、但馬皇女を生めり。次の夫人氷上娘の弟五百重娘、新田部皇子を生めり。次の夫人蘇我赤兄大臣の女太蕤娘、一の男・二の女を生めり。其の一を穂積皇子と曰す。其のニを紀皇女と曰す。其の三を田形皇女と曰す。天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり。次に宍人臣大麻呂が娘カヂ<木偏+穀旁>娘、ニの男・二の女を生めり。其の一を忍壁皇子と曰す。其のニを磯城皇子と曰す。其の三を泊瀬部皇女と曰す。其の四を託基皇女と曰す。乙酉に、有勲功しき人等に、爵賜ふこと差有り。(坂本太郎他校注『日本書紀 (4) 』ワイド版岩波文庫(0310))

二月二十七日、天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥浄御原宮で即位の儀をされた。正妃(菟野皇女)を立てて皇后とされた。后は草壁皇子(文武・元正両天皇の父)を生まれた。これよりさき皇后の姉大田皇女を召して妃とされ、大来皇女と大津皇子を生まれた。次の妃大江皇女(天智天皇の娘)は、長皇子と弓削皇子とを生まれた。次の妃、新田部皇女は舎人皇子(日本書紀編纂の総裁)を生まれた。また夫人の藤原大臣(鎌足)の女氷上娘は但馬皇女を生まれた。次の夫人氷上娘の妹の五百重娘は、新田部皇子を生まれた。次の夫人の蘇我赤兄大臣の女太蕤娘は、一男一女を生まれた。第一を穂積皇子といい、第二を紀皇女、第三を田形皇女という。天皇は初め鏡王の女、額田姫王を召して十市皇女(大友皇子の室)を生まれた。次に胸形君徳善の女尼子娘を召して高市皇子を生まれた。次に宍人臣大麻呂女カヂ媛娘は二男二女を生まれた。第一を忍壁皇子、第二を磯城皇子、第三を泊瀬部皇女、第四を託基皇女という。(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』 講談社文庫(8808))

いささか煩雑であるが、天武の皇子や皇女は、古代史理解のカギになるものと思われるので、岩波文庫版と講談社文庫版を併記した。
先ず問題になるのは、鸕野皇女(後の持統天皇)の姉の大田皇女である。
斉明7(661)年に次の記載がある。(宇治谷孟現代語訳)

春一月六日、天皇の船は西に向って、航路についた。八日、船は大伯の海(岡山県邑久の海)についたとき、大田姫皇女(中大兄の子で、大海人皇子の妃)が女子を生んだ。それでこの子を大伯皇女と名づけた。十四日、船は伊予の熟田津(愛媛県松山市付近)の石湯行宮(道後温泉)に泊った。
三月二十五日、船は本来の航路に戻って、娜大津(博多港)についた。磐瀬行宮(福岡市三宅か)におはいりになった。天皇は名を改めてここを長津(那河津)とされた。

つまり、斉明6(660)年に、百済が唐・新羅連合軍に攻撃されて滅亡し、復興支援の要請を受けて、斉明7(661)年正月6日に、斉明天皇が難波を出発した。
このとき、大田皇女が同船し、2日後に大伯皇女を出産した。

ここで問題は、なぜ、大田皇女は、出産間近の状況で、百済救援の軍団に同行したのか、ということである。

砂川氏は、今まで盲点となっていたこのことに着眼した。
そして、出産間近の妊婦が危険を冒して旅に出る理由として考えられるのは、次の2つくらいしかないのではないか、としている。
①実家に戻り出産するため
②夫婦が離ればなれになっていて、特に戦争を控えていて生き残れるか否か予断を許さない状況にあるので、生まれてくる子を男親(夫)に会わせるため

大田皇女の場合、父は天智であり、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘だから、生粋の大和国の人間だと考えていい。
とすれば、大田皇女が危険を冒して船旅に出たのは、実家に戻るためということは考えられない。
とすれば、夫の大海人皇子が旅先の筑紫にいたから、ということになる。
出産間近の妻を同行して、戦いに向かうなど論外というべきだから、大海人が百済救援軍の船団に、大田皇女と一緒にいたとは考えられない。

大海人皇子は、筑紫にいた。
そして、大田皇女が妊娠した時(出船したのが臨月だったとしたら、10ヵ月前)には近畿大和にいたわけである。

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2008年1月16日 (水)

砂川史学…②大海人皇子(2)

兄とされている天智は、乙巳の変の主役など、事績の多いことで有名である。
百人一首の冒頭の歌の作者として、現代人にも馴染みが深いが、一時代を画したという印象がある。
しかし、その天智に関する記述量は196行で第12位であり、天武に比べれば30%にも満たない。
『日本書紀』が、天武の発案で編纂されたことなども考え合わせれば、天武を重視した編纂になっていることは疑い得ないだろう。

大海人皇子(後の天武天皇)が、『日本書紀』に登場するのは、舒明紀2年正月条である。

二年の春正月の丁卯の朔戊寅に、宝皇女を立てて皇后とす。后、二人の男・一の女を生れませり。一を葛城皇子と曰す。(近江大津宮御宇天皇なり。)二を間人皇女と曰す。三を大海皇子と曰す。(浄御原御宇天皇なり。)夫人蘇我嶋大臣の女法提郎媛、古人皇子(更は大兄皇子と名く。)を生めり。又吉備国の蚊屋采女を娶して、蚊屋皇子を生しませり。(坂本太郎他校注『日本書紀 (4)』ワイド版岩波文庫(0310))

二年春一月十二日、宝皇女(後の皇極、斉明天皇)を立てて皇后とした。皇后はニ男一女を生まれた。第一は葛城皇子(天智天皇)、第二は間人皇女(孝徳天皇の皇后)、第三は大海皇子(天武天皇)である。夫人の蘇我馬子の女法提郎媛は古人皇子(大兄皇子とも名づける)を生んだ。また吉備国の蚊屋采女を召して、蚊屋皇子を儲けられた。(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』講談社学術文庫(8808))

この条の表現からすれば、天智と天武は共に舒明と皇后の宝皇女(後の皇極・斉明天皇)の間の兄弟であることは明瞭である。
舒明天皇は、在位13年目の辛丑年に亡くなった。
舒明元年は、推古没年の翌年の己丑年で、推古没年は戊子年で西暦628年である。
つまり、舒明元年は629年の己丑年であり、没年は641年の辛丑年である。
舒明が亡くなった時の殯(モガリ)に際して、中大兄(東宮開別)皇子は16歳で「誄(シボビゴト)したまふ」とある。

推古没:戊子:628
舒明元:己丑:629
舒明没:辛丑:641(13)…中大兄皇子16歳
とすれば、中大兄皇子の誕生年は626年の丙戌年で、天智没年とされている天智10年の辛未(671)年には46歳だったことになる。
そこで、大海人皇子は、中大兄皇子との間に間人皇女を挟んだ皇子であるから、中大兄との年齢差を4~5歳程度とすると、630年前後の生まれということになる。

大海人皇子の記事は、上記の舒明2年の後は天智3(664)年まで現れない。
645年の「大化改新」に繋がる「乙巳の変」という天皇家にとっての最重要の事件においても、大海人皇子の名前は見えない。
蘇我入鹿誅滅に加わったメンバーとして、名前が明記されているのは以下の通りである。
①中大兄皇子
②中臣鎌足
③蘇我倉山田石川麻呂
④佐伯連子麻呂
⑤葛城稚犬養連網田
⑥海犬養連勝麻呂

645年の乙巳の年には、中大兄皇子は20歳だから大海人皇子は16歳程度で、乙巳の変に参加しなかったとも考えられる。
しかし、孝徳、斉明紀を通じて、中大兄皇子の名前は頻出するが、大海人皇子の名前は見えない。
次に大海人皇子の名前が登場するのは、天智3年2月条である。

三年の春二月の己卯の朔丁亥に、天皇、大皇弟に命して、冠位の階名を増し換ふること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ふ。(上掲坂本太郎他校注)

三年春二月九日、皇太子(中大兄)は弟大海人に詔して、冠位の階名を増加し変更することと、氏上・民部・家部などを設けることを告げられた。(上掲宇治谷孟現代語訳)

つまり、「大皇弟」は、「大いなる弟の皇子」の意味で、大海人皇子のことである、とされるのが一般的な解釈である。
天智3年は、664年の甲子年であり、前年の663年8月に、白村江で倭・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗している。
百済は、白村江の敗北で完全に滅亡することになった。
つまり、大海人皇子が役割を担って登場するのは、白村江敗北後の約半年後の翌年2月である。
そこから、<大海人皇子=戦勝国新羅の人>というような推測も生まれてくる。

大海人皇子は、4人の天智天皇の娘を妃に迎えている。
大田皇女、鸕野皇女(後の持統天皇)、大江皇女、新田部皇女である。
当時でも同母の姉妹との婚姻はタブーであったが、姪を妃に迎えること自体はさして問題ないとしても、4人もというのは如何なものだろうか、という気はする。

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2008年1月15日 (火)

砂川史学…①大海人皇子(1)

記・紀に登場する「歳次干支」の語を分析した砂川恵伸さんは、第二著として『天武天皇と九州王朝―古事記・日本書記に使用された暦 』新泉社(0612)を上梓している。
タイトルが示すように、古田史学の九州王朝説を踏まえているが、独自の視点を盛り込んだ新しい史観を生み出している。
古田史学に倣えば、砂川史学とでも呼ぶべき内容だと思われる。
以下、いくつかのポイントについてレビューしてみたい。

第一点は、大海人皇子(天武天皇)に関する考察である。
『日本書紀』の記述においては、大海人皇子(天武天皇)と中大兄皇子(天智天皇)は、舒明天皇と皇極(斉明)天皇の間に生まれた同父同母の兄弟とされている。
もちろん、この天智・天武兄弟説が学界の定説であり、多数説である。
しかし、この同父同母の兄弟関係を疑う論説も少なくない。

大海人皇子の出自については、不明のことが多い。
『日本書紀』では、乙巳の変や白村江の戦いなどの重要局面で、大海人は登場していない。
大海人皇子が活躍が目立つようになるのは大津遷都以後であるが、不思議なことに出生や年齢は不詳である。
しかも、『日本書紀』の編纂は、天武の発案になるとされている。
神武から持統までの40代(弘文天皇を入れれば41代)の天皇が登場しているが、年齢が不明なのは天武だけである(もちろん、一方では、古代天皇の年齢については不自然な記述が少なくなく、その点についても数多くの論議がある)。

天武の年齢が書かれていないのは、『日本書紀』の編者がそれを意図的に隠したのではないか、という見方がある。
そして、天智と天武は、実際は兄弟ではなかったのではないか、と推測している論者も少なくない。
『日本書紀』では、天武を天智の弟としたため、年齢に齟齬を生じて書き込むことができなかったのではないか、とも推測される。
実際に、『本朝皇胤紹運録』という本の記述等を根拠に計算すると、弟だとされている天武の方が年上になる、という有力な説がある。
また、天武が天智の娘を4人も妃としていることも不自然といえば不自然であろう。

そのため、大海人皇子については、戦勝国の新羅から戦後処理のために、日本に派遣されたのではないか、とする見方がある。
壬申の乱において、天皇の正当な後継ともいうべき近江京の軍勢に対して、余りにも鮮やかに勝利したことは、天武が土着の日本人ではなかったのではないか、と疑わせる点である。
天智の親百済政策から、天武は親新羅政策に転換したともされている。

天武の出自に関する諸説を、砂川氏の上掲書から引用する。
佐々克明…「天武=新羅人の金多遂」説
水野 祐…異母兄弟説
小林惠子…「天武=高句麗の宰相・淵蓋蘇文」説
大和岩雄…異父兄弟説(高向王と宝皇女<後の皇極天皇>との間の子の漢皇子説
井沢元彦…異父兄弟説(宝皇女と外国人との間の子説)

砂川史学の刮目すべき点の第一は、大海人皇子が、九州王朝の皇子であった、とすることである。
『日本書紀』は全30巻のうち、28、29の2巻を天武天皇にあてている。このような扱いは、天武だけであるし、その記述量は、天武が最大である。
砂川氏の上掲書によりそのボリュームを比較すると、下記の通りである(『日本書紀』(普及版、吉川弘文館、1982年における記述行数)。
第1位:天武 687行
第2位:欽明 445行
第3位:孝徳 375行
第4位:持統 336行
第5位:雄略 310行

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2008年1月14日 (月)

「歳次干支」について

『日本書紀』には、干支による表現が多い。
例えば、巻第六の「活目入彦五十狭茅天皇 垂仁天皇」の即位前紀には次のようにある。
(活目入彦五十狭茅天皇:イクメイリビコイサチノスメラミコト)
(坂本太郎他校注:岩波文庫版『日本書紀(ニ)』)

天皇、御間城天皇の二十九年歳次壬子の春正月の己亥の朔を以て、瑞籬宮に生れましたまへり。

この「歳次○○(○○は干支)」について、その意味するところを追求したのが、砂川恵伸『古代天皇実年の解明―三倍在位年数を証明する 平成衝口発 』新泉社(0503)である。
『日本書紀』の紀年には不合理と思われることが多々あり、その解釈をめぐって様々な論考が発表されてきた。
砂川氏の著書は、干支の観点からのアプローチを試みたものである。

砂川氏によれば、記紀などに見られる歳次干支という言葉には、次の3通りの意味がある。
①「歳は……に次(ヤド)る」から転じた「……の歳」という意味の熟語の場合(従来の解釈)。
②「歳は……を次(ツ)ぐ」と読まなければならない場合→「……の前年」の意味となる。
③「歳は……に次(ツ)ぐ」と読まなければならない場合→「……の翌年」の意味となる。

さて、上記の垂仁天皇の場合、その没年に関しては、次のように書かれている。

九十九年の秋七月の戊午の朔に、天皇、纏向宮に崩りましぬ。時に年百四十歳。

そして、即位については次の通りである。

元年の春正月の丁丑の朔戊寅に、皇太子、即天皇位す。
中略
十一月の壬申の朔癸酉に、皇后を尊びて皇太后と曰す。是年、太歳壬辰。

元年が壬辰であれば、九十九年は庚午となり、庚午の年に百四十歳で亡くなったことになる。
しかるに、「歳次壬子」を壬子の年と考え、その年に生まれたとすると、
壬子:1歳 であれば、
庚午:19歳or79歳or139歳
となる。

つまり、1歳の食い違いがあり、これを解決する考え方として、
①垂仁紀九十九年条の「垂仁は一四○歳で亡くなった」を「一三九歳で亡くなった」の誤りとする
②「御間城天皇の二十九年歳次壬子」を「壬子を次ぐ歳、すなわち(壬子の前年の)辛亥の年」とする
のいずれかがあり得る。

『日本書紀』の開花紀、崇神紀等の記述を総合すると、「歳次壬子」「歳は壬子を次ぐ=壬子の前年=辛亥」の意味で使用しているとすると、すべての齟齬がなくなる。
従来は、「歳次○○」は、「○○の歳」と考えられており、それによって理解不能のことも多々あった。
砂川氏の読解は、一種のブレークスルーであろう。
ちなみに、砂川氏は医師を職業としている人である。

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2008年1月13日 (日)

干支について

古代史関連の資料書籍類を見ていると、「干支(カンシ、エト)」についての知識が不可欠になってくる。42
干支というのは、左表のように、十「干」と十二「支」をを組み合わせたものである。
10と12の最小公倍数は60なので、「干」と「支」の組み合わせによって、60の順序を区分することができる。

現在、「えと」という場合、十二支の方について、ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ……と動物を指すように使われることが多いが、厳密に言えば誤った用法である。
干は、幹・肝と同源であり、子は枝・肢と同源である。
つまり、干支は、幹枝・肝肢に通ずる。
十干の訓読には、「え」と「と」が交互に出てくるが、「え」は陽(剛)を、「と」は陰(柔)を表している。
日本語では、「え」は兄、「と」は弟である。
「えと」という呼び方は、ここから来ている。
干支は、ベトナム、朝鮮半島、日本など、東アジア世界で通用していた。
東アジア世界での標準時ということができる。

干支によって日付を記述する方法(干支紀日法)や月を記述する方法(干支紀月法)は、殷(紀元前600年頃~紀元前1046年の中国の王朝)の時代から用いられていたという。
干支紀年法は、中国の戦国時代(紀元前403~紀元前221年)にはじまったらしい。
木星は、約12年で天球上を一周する。
天球を天の赤道に沿って西から東に12等分した区画(12次)を、木星は1年に1次進むので、木星は年を示す星として、「歳星」と呼ばれる。

古代史との関係で重要なのは、「辛酉革命」「甲子革命」の思想であろう。
辛酉は天命が改まる年、つまり王朝が交代する革命の年とされ、辛酉革命といわれる。
『日本書紀』では、神武天皇が即位したとする年を、西暦紀元前660年の辛酉の年としている。
これについて、明治時代の歴史学者・那珂通世は、『緯書』にある鄭玄という人の注に、1260年に一度(干支1周60年を1元といい、21元。これを1蔀(ホウ)という)の辛酉年に大革命が起こるという記述があることから、推古9(601)年がその大革命の年の基準として、その1260年前の紀元前660年を即位年とした、という説を立てた。
異説としては、一蔀は1320年(22元)が正しく、逆算起点を60年後の斉明7(661)年の辛酉年とする説もある。

また、甲子の年に革令があるとされている。
甲子は、干支の最初であり辛酉の4年後にあたるが、天意が革(アラタ)まり、徳を備えた人に天命が下される変乱の年とされている。
辛酉革命・甲子革令説を世直しの革命説として取り上げたのは平安中期の三善清行で、昌泰4(901)年が辛酉の年にあたっていたため、「除旧布新」すべき年であるとして、世直しのため改元すべきことを上奏し、昌泰は延喜と改元された。
それ以降、改元の年ということになり、1024年以降は、明治の一世一元の詔より前に甲子改元が無かったのは永禄7(1564)年だけだという。
なお、三善清行が辛酉革命説を積極的に取り上げた裏には、ライバルであった菅原道真の失脚をねらったものであるとわれている。

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2008年1月12日 (土)

「白鳳」という時代

古代逸年号(九州年号)は、丸山晋司氏によれば(前掲:『古代逸年号の謎』)、「善記」(元年は522年とされる)から、「大長」(元年は692年で9年の700年まで)に至る31個の年号群が知られている。
179年間で31個だから、平均すると<5.8年/1年号>ということになる。
しかし、その1つである「白鳳」は、実に23年という異例ともいうべき長い期間にわたっている。
丸山晋司氏の説くように、白鳳元年が辛酉(661年)だとした場合、白鳳時代というのは、以下の年表に示される時代、ということになる。
わが国の歴史上でも、稀にみる激動の時代、といえるのではなかろうか。

・661年(白鳳元):斉明7、天智即位(称制)
・662年(白鳳02):阿倍比羅夫を百済救援に派遣
・663年(白鳳03):白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗
・664年(白鳳04):対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を設置し水城を築く
・665年(白鳳05):筑紫大野城を築く
・667年(白鳳07):近江国の大津へ遷都
・668年(白鳳08):高句麗が唐・新羅連合軍に滅ぼされる/中大兄皇子が即位し、第38代天智天皇となる
・670年(白鳳10):全国的に戸籍をつくる(庚午年籍)
・671年(白鳳11):新羅と唐が対立する/第39代弘文天皇(大友皇子)が即位
・672年(白鳳12):天智天皇没/壬申の乱/第40代天武天皇即位/飛鳥浄御原宮に遷る
・676年(白鳳16):新羅が朝鮮半島を統一
・681年(白鳳21):飛鳥浄御原令の編纂を開始する
・683年(白鳳23):軽皇子(第42代文武天皇)生誕

「古代逸年号」において、白鳳に続く年号は、朱雀、大化、大長である。
『日本書紀』では、645年の乙巳の変の年が大化元年とされているが、丸山晋司氏らの研究では、686年が大化元年である。
大化、大長の年号の時代における主要事象を挙げれば、以下の通りである。

・686年(大化元):天武天皇没/第41代持統天皇即位
・689年(大化03):飛鳥浄御原令を発令
・690年(大化04):庚寅年籍をつくる
・694年(大長03):藤原京に遷都
・697年(大長06):持統天皇が、第42代文武天皇に譲位

そして、大長9年の700年で「古代逸年号」は終焉することになり、701年は大宝元年で、以後年号はずっと継続している。
『続日本紀』の大宝元年3月21日の条に、以下のような記載がある(講談社学術文庫版:宇治谷孟現代語訳)。

対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。

そして、「群評論争」で明らかにされたように、藤原京出土の木簡は、「評」から「群」への転換が、大宝元(701)年を境にして起きていることを示している。
大宝元年は、『続日本紀』が、「文物の儀、是に備れり」と表現している正月の朝賀が行われた年でもある。

「古代逸年号」は実在したのだろうか?
「古代逸年号は、『日本書紀』の記す「大化」「白雉」「朱鳥」の3年号といかなる関係にあるのだろうか?
645年の「乙巳の変」(大化改新)のような大事件があったにも係わらず、「古代逸年号」では「命長」という年号が継続していることはどう考えるべきか?
「古代逸年号」の終焉と大宝建元が連続していることには、どういう意味があるのだろうか?
「新しく元号をたてて」と改元は同じか?
「同じ」とすれば、大宝の前の元号は何か? 「違う」とすれば、『日本書紀』の元号がいずれも改元記事であったこととはどういう関係になるか?
白村江の敗戦という国家の重大事にもかかわらず、「白鳳」の年号が継続しているのは、どう理解すべきか?
政治史における激動と文化史とはどう結びつくのだろうか?

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2008年1月11日 (金)

「朱鳥」改元について

『日本書紀』に現れる年号に「朱鳥」がある。
天武紀15年(686)7月のことで、その年の9月9日に天武は亡くなっている。
そして朱鳥には、「阿詝美苔利(アカミトリ)」と和訓されている。普通、年号に和訓は施されない。
『日本書紀』に登場する他の年号である「大化」は、孝徳天皇即位の年であり、「白雉」は大化5年に穴戸(長門)国より献上された白雉に因んで改元されたもので、白雉5年(654年)孝徳が難波宮で没するまで続く。
つまり、「朱鳥」以外の「大化」は孝徳天皇在位の始まりと一致し、「白雉」は孝徳天皇の在位の終わりと一致している。
次の斉明紀と天智紀には年号記事はない。

「古代逸年号」においても「朱鳥」は登場する。
各種の議論があるが、『日本書紀』と同じ686年説が有力である。
「大化」「白雉」も「古代逸年号」に登場するものであるが、『日本書紀』に記された年とは乖離している。
古田武彦氏らは、『日本書紀』に登場する年号は、九州王朝の年号が紛れ込んだ(もしくは盗用した)としている。
それでは、「大化」「白雉」と「朱鳥」の扱いの差異は何によるものだろうか?

古田武彦・澁谷雅男『日本書紀を批判する』新泉社(9410)所収の『「大化・白雉・朱雀」年号の偽入』という古田論文では次のように説明されている。
『日本書紀』における「大化」という年号は、いわゆる「大化の改新」の詔勅群と連結して出現している。
そこでは、「郡制」が前提とされる記述が行われている。
a.其のニに曰く、初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞……を置き、
b.凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ
これらの「郡制」は、木簡の分析によって、701年以降の制度であることが分かった(「郡評論争」)。つまり、「大化の改新」の実態は、701年以降にあったとみることができる。
そして、この701年は、「古代逸年号」の有力史料である『ニ中歴』では、大化7年に当たる(丸山晋司氏案によれば、大長7(700)年が区切り…大宝建元が701年3月21日だから、このとき古代逸年号から大宝に年号が変わったとすれば、古代逸年号の最終年は700年とみることも、701年とみることもいずれも可)。
『日本書紀』の編者らは、「大化の改新」を、天智天皇や鎌足らの時代に遡らせるために、約半世紀繰り上げることにした。

「古田史学の会」の事務局長を務める古賀達也氏は、当然「九州王朝」を認める立場に立つ。
「朱鳥」改元について、『日本書紀』と逸年号史料との年次の一致を、次のように書いている(『古代に真実を求めて』明石書店(0110)所収『朱鳥元年の史料批判』)。
7月20日の改元記事は,前日(19日)の徳政令記事と関連している(以下、すべて宇治谷孟現代語訳)。

十九日、詔して、「諸国の百姓で、貧しいために、稲と資材を貸し与えられた者は、十四年十二月三十日以前の分は、公私を問わずにすべて返済を免除せよ」といわれた。

そして、翌持統元年にも次の記事がある。

秋七月二日、詔して、「およそ負債をもつ者に関して、天武十四年以前のものについては、利息を取ってはならぬ。もしすでに労働で償っている者には、利息分まで労働させてはならぬ」といわれた。

この両年の徳政令は、「九州王朝」から朱鳥元年、2年の年号付き文書で通達されたものであり、近畿天皇家は、それを引き続き認めるのか、認めないのかの判断を迫られたが、結果として公認し、それを『日本書紀』に同年の記事として記載した。
徳政令により負債を免除された勢力の中心は、白村江の戦いに参戦敗北した九州王朝側の豪族たちである。
戦前からの水城や神籠石山城の築城、戦時の徴兵と戦死による労働力不足、戦勝国唐への「戦後賠償」。
そして、疲弊した筑紫にとどめをさしたのは、天武7(678)年12月に起きた「筑紫大地震」だった。

十二月二十七日、臘子鳥が空をわたって、西南より東北に飛んだ。この月、筑紫国で大地震があった。地面が広さ二丈、長さ三千余丈にわたって裂け、どの村でも多数の民家が崩壊した。このとき、岡の上にあったある民家は、地震の夜、岡が崩れて移動した。しかし家は全くこわれず、家人は岡がこわれて移動したことを知らず、夜が明けてからこれに気づいて大いに驚いたという。(臘子鳥:アトリ)

古田武彦氏によれば、この徳政令を発布した「九州王朝」は、「公の官僚」や「私の富者」の支持を失い、その結果として「九州王朝の滅亡」を促した。
『日本書紀』の「朱鳥」改元記事の不自然さを解く1つの考え方ではあると思う。

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2008年1月10日 (木)

古代年号偽作説

「古代逸年号」は、鎌倉時代以降に僧侶によって偽作されたものである、という説がある。
「説がある」というよりも、丸山晋司『古代逸年号の謎』によれば、

「通説」では、もちろん、これらを後代の「偽作年号」として無視し続けているのであるが……。

ということであり、「古代逸年号」は、歴史認識の対象にすらされていないらしい。
「通説」は、「大化改新」で有名な「大化」(645年)が最初のもので、「白雉」(650年)へ続き、断絶があって、朱鳥(686年)が1年だけ発布され、「大宝」(701年)以後は、現在まで絶えることなく続いている、とする。
それが歴史学会の「定説」で、われわれが教えられてきたのも(といっても忘れてしまっていて、再学習して思い出している状態ではあるが)そういう認識である。

しかし、もし「古代逸年号」が実在した(実際に使われていた)ものであるならば、「通説」による歴史認識は大きな変更を迫られることになる。それは、古代史像の根本に係わる問題ともいえる。
丸山晋司氏の労作は、史料批判の「論理」から、「実在論」を是とし、「偽作論」を非とすることを試みたものであり、「通説」に立つ人たちは、「論拠」を問うのと同時に、丸山氏の「論理」を論破すべき課題を負っていると思う。
丸山氏の労作の初版刊行から既に15年以上経つが、全体的な状況は余り変わっていないのではなかろうか。

「古代逸年号」を、鶴峰戊申の『襲国偽僣考』を参照して「九州年号」として、自説の「九州王朝説」の柱として展開したのは古田武彦氏であった。
「九州王朝説」そのものが、一時のブーム的状況から否定的論調が強まるに従い(古田否定論調は、『偽書「東日流外三郡誌」事件 』に、古田氏が主体的に係わってきたことよる影響が大きいと思われる)、「古代逸年号」実在説も無視される状況が続いているのであろうか。
古田武彦氏の実在論の骨子は、以下の通りである(丸山:前掲書)。

①「九州年号」は、『日本書紀』の「大化・白雉・朱鳥」と矛盾し、重複しているが、偽作ならばそのようなことをするとは考えられない。
②「偽作」を「継体16年」から始めているのは不自然(古田氏は、『ニ中歴』記載の「継体」を最初の「九州年号」とみた)。偽作するならば、例えば、神武以来とか、もっと区切りがいいところから始めるのではないか。
③「九州年号」は2代の天皇にまたがる場合がしばしばある。偽作とすれば余りにも無神経ではないか。
④『日本書紀』の552年(元興寺縁起などでは538)年とされる仏教伝来以前に、「僧聴」などの仏教関係の文字が使われているが、『日本書紀』の仏教伝来記事を知らない偽作者は想定し難い。

丸山氏は、古田氏の影響を濃厚に受けながら、しかし古田氏と独立的な立場から、史料批判を試みている。
丸山氏は、鎌倉期初頭に成立したと考えられる『ニ中歴』に、古代逸年号が群として記載されており、『ニ中歴』所引の諸文献が平安後期のものであるから、古代逸年号も平安後期の文献から引用されたものだろう、と推測している。
つまり、「鎌倉期以降の偽作」は成立しない、とする。
なお、『ニ中歴』というのは、平安後期成立の百科事典『掌中歴』『懐中歴』のニ歴をあわせて編集したことによる名称である。

「古代逸年号」が、「偽作」だと論証するためには、「いつ」「だれが」「何のために」偽作したかを明らかにする必要がある。
「いつ」については、「鎌倉期以降」とされているが、それが成り立たないことを、丸山氏が示した。
「だれが」については、「僧侶によって」とされているが、それでは特定されたことにならないだろう。
「何のために」については、「日本の年号を古く見せるため」等が想定されているが、これも「だれが」「いつ」とのセットで具体的状況を想定すべきであろう。

「古代逸年号」の実在を直接的に示す文字史料(6、7世紀の九州出土)は、未だ発見されていない(丸山氏)。
しかし、それが「偽作」であったという証拠も見出されていないのである。

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2008年1月 9日 (水)

非常識な判決

福岡市で、2006(平成18)年8月25日に、元福岡市職員が起こした交通事故に関して、福岡地裁は8日、危険運転罪の成立を認めず、業務上過失致死傷罪を適用した判決を言い渡した。
その結果、求刑が懲役25年だったのに対し、判決は懲役7年6月となった。
これは、業務上過失致死傷罪の上限で、過失の大きさや結果の重大性、ひき逃げの悪質性などを勘案した結果であるという。
この地裁判断について、法曹界でも賛否両論あるようであるが、常識(コモンセンス)の問題として、とても首肯できるものではないと感じた。

私も、刑法の適用に関しては、構成要件は厳密に捉えるべきだし、そうあって欲しいと考えるものである。
しかし、今回の判決は、成文法の適用要件の解釈以前の事実認識において、重大な過誤があると考える。
それは、「酩酊度」と「判断力」と「運転能力」の関係についてである。
判決要旨(080109付静岡新聞による)は、飲酒状況と運転状況について次のようにいう。

……被告は二軒の飲食店で飲酒後、運転を開始した時に、酒に酔った状態にあったことは明らか。しかし、その後の具体的な運転操作や車の走行状況を離れて、運転前の酩酊状態から直ちに「正常な運転が困難な状態」にあったという結論を導くことはできない。
(中略)
被告は事故直後、ハザードランプをつけて降車したり、携帯電話で友人に身代わりを頼むなど、相応の判断能力を失っていなかったことをうかがわせる言動にも出ている。飲酒検知時も千鳥足になったり足がもつれたりしたことはなく……(以下略)
(中略)
被告は二軒目の飲食店を出発して事故後に車を停止させるまでの約八分間、湾曲した道路を進行し、交差点の右折左折や直進を繰り返した。幅約二・七メートルの車道でも車幅一・七九メートルの車を運転していた。
(後略)

私たちの世代の多くの人は、若い頃(つまりもう時効になっている時期)に、多少の飲酒運転の経験を持っているだろうが、おそらく多くの人が、この地裁判断に違和感を持ったのではないか、と思う。
判決が「正常な運転が困難な状況にあったとは認められない」とする論拠が、飲酒運転の経験則に全く合致していないからだ。
おそらく、福岡地裁の裁判長は、職業柄もありかつ年齢的にも(実際の年齢は分からないが、私たちよりはかなり若いのだろうと思う)、飲酒運転の経験などは皆無なのではなかろうか。

飲酒運転を自覚している場合、運転者はどう行動するか?
私の経験では、全神経を集中して運転する。それは、飲酒していない場合に比べてはるかに慎重だともいえる。
裁判長は、危険運転罪の構成要件を、そのような判断すらもできない状態と考えたのであろうか?
それは「酩酊」というよりも「泥酔」とか「意識混濁」というべきものである。
「高度に酩酊した状態」であったとしても、瞬間的な判断はある程度正常にできるのである。
湾曲した道路を進行し、交差点の右折左折や直進を繰り返すことなど、相当に酩酊していたとしても、ほとんど問題なくクリヤできるだろう。
私の場合、もちろん、飲酒運転の事故歴などは皆無である。

しかし、酩酊状態においては、確率的には、事故を起こしやすくなっていると考えるべきだろう。たとえ慎重になっていたとしても、である。
福岡の事件で、事故を起こすまで、被告が「正常に見えるかのような運転」をしていたのは、そう見えただけで結果的に事故を起こしているわけである。
「携帯電話で友人に身代わりを頼む」ことなどを、相応の判断能力を失っていなかったことの論拠とする辺りは、唖然という感じである。
これでは、隠蔽工作を奨励しているようなものではないか。

私は、少なくとも四半世紀程度は、飲酒運転はまったくしていないが、「高度に酩酊した状態」になること自体はしばしばある。
そして、その時の記憶は、往々にして途切れている。
しかし、後から一緒に居た人の話を総合すると、(多くの場合は何らかの議論をしているのであるが)日頃の考えと殆ど同じことを喋っているようである。

最近の世論は、飲酒運転について厳しいものになっている。
元福岡市職員の起こした事故について、感情論的にとても許されない、というのが一般的な意見だろう。
裁判長としては、あるいは、こういう世論に流されない、ということを1つの司法的見識として示そうと考えたのかも知れない。
そして、その結果として、危険運転罪の構成要件を厳密に解釈し、「疑わしきは罰せず」という法理に従ったのかも知れない。

もちろん、「飲酒量」と「酩酊度」の関係については、個人差もあるし同一人であっても、その日の体調や気分によってかなり差異があることは、酒飲みの常識である。
この事件の被告が、実際にどういう酩酊状態にあったのか、本人や裁判長を含めて、正確な判断を下せる人間はいないと考えるべきであろう。
しかし、判決が「正常な運転が困難な状態にあったとはいえない」と判断する論拠は、飲酒運転の経験と相容れないものであることは間違いない。
報道されている飲酒量(少なくとも二軒の飲食店で何杯もの焼酎のロックやブランデーの水割り等を飲酒)からしても、「高度に酩酊していた」と判断するのが妥当だと考える。
こういう判決を書く裁判長がいるようでは、司法修習の一環に、酩酊運転の体験を組み込んでみたらどうか、とすら思うくらいだ。

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2008年1月 8日 (火)

「白鳳」年号の位置づけ

現在の歴史学会の定説では、「白鳳」は『日本書紀』に現れる「白雉」の異称ということになっている。
また、「白鳳」は、いわゆる「九州年号」の代表的存在でもある。
丸山晋司『古代逸年号の謎』アイ・ピー・シー(9202)は、正史に記載されていない年号を「逸年号」という呼び方で統一し、各種の史料類を広範に渉猟して整理した労作である。
同書を参考に、「白鳳」という年号に関して検討してみよう。

坂本太郎らの学会の権威が、「白鳳」が「白雉」の異称であるとしてきた論拠は、『藤氏家伝』の白鳳5年の記事と、『日本書紀』白雉5年の記事が一致する、と見なせるということであった。
しかし、『藤氏家伝』における他の「白鳳」記事は、「白雉」の1年前を元年としており、これらの事実は無視される形で定説が形成されてきた。
これらの記事の「白鳳元年=白雉の1年前」は、貞観23(649)年己酉に相当する。
『藤氏家伝』以外にも、天武朝初期(672、673)や斉明7(661)年辛酉を「白鳳元年」とする史料が多数見られる。
つまり、逸年号における「白鳳」は3タイプに分類される。

笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)に、「平安時代に入って、天武朝の年号として白鳳があったとする観念が生まれた」とあるが、丸山氏は、天武朝初期の672年壬申、673年癸酉年を「白鳳」元年としているのは、「白鳳」が天武と非常に係わりの深い年号と考えられていて、天武元年を白鳳元年として意識したものであろう、としている。
そして、天武元年について、天武の実際の元年は「壬申の乱」によって近江朝を転覆した年ではなく(それは近江朝の大友皇子が即位していれば弘文元年になる)、翌年の癸酉年だったと考えるのが妥当ではないか、としている。
とすれば、天武と関連付けらて考えられる「白鳳」の元年は、癸酉年ということになる。

そう考えると、3タイプの「白鳳」は、すべて「酉」年を元年としていることになる。
「白鳳」年号が実在したことは、『続日本紀』の記述で裏付けられ、それは『日本書紀』の「白雉」の異称ではない、と考えた方が妥当である。
3タイプのうちのいずれかが実在した「白鳳」であり、他は「酉」の年による誤伝と考えられる。

これらのうち、『藤氏家伝』に登場する己酉白鳳(孝徳白鳳)は、藤原氏という「大和政権」中枢部の氏族が伝えるものであるから、これが正しいとすれば、『日本書紀』の編者はこの年号を無視して、乙巳大化、庚戌白雉を設定するというようなことはあり得ないだろう。
また、己酉白鳳は、癸酉や辛酉に比べると数が少ない。
さらに、『続日本紀』は、「白鳳以来、朱雀以前」と「白鳳」と「朱雀」をセットで記述している。
史料群を検討すると、癸酉白鳳には壬申朱雀が、辛酉白鳳には甲申朱雀がセットになっているのに対し、己酉白鳳には対になるべき朱雀が不明である。

癸酉白鳳は、天武即位年という重要な位置にあり、『日本書紀』の編者が見逃すことは不自然であろう。
また、『続日本紀』の「白鳳以来、朱雀以前」は、素直に読めば白鳳が朱雀に先行していると考えられる。
癸酉白鳳の場合、壬申朱雀が白鳳に先行することも不自然である。
朱雀を朱鳥の誤伝とするならば、前後関係の問題は解消するが、そのような恣意的な史料改変が妥当な判断か?
上述のような考察を踏まえ、丸山氏は、辛酉白鳳が正位置の候補として最も有力ではないか、としている。

果たして、「白鳳」という年号は実在したのだろうか? 
それとも笹山晴生『日本古代史講義』で解説されているように、「現実に白鳳の年号が行われたことはない」のであろうか?
もし、「白鳳」という年号が「現実に行われた」としたなら、それを発布したのは、『日本書紀』を編纂した権力、つまり大和朝廷とは異なるのだろうか?
大和朝廷とは別の年号発布権限を有する体制を想定するということになると、私たちの古代史像は、大きな変更を要請されることになる。

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2008年1月 7日 (月)

「九州年号」論

江戸時代の国学者に、鶴峰戊申という人がいる。
豊後国臼杵(現大分県)に、天明8(1788)年に生まれ、江戸で安政6(1859)年に享年72歳で死んだ。『襲国偽僣考』、『国偽僣考』、『金契木文字考』、『嘉永刪定神代文字考』、『天御柱考証』、『古義神代考』、『本教異聞』、『語学新書』、『臼杵小鑑』、『海防秘策乾巻』、『中将棊絹篩』など数多くの著作を残した。

『襲国偽僣考』で、鶴峰戊申は「九州年号」という言葉を使い、大和朝廷の年号に先行する年号の存在を説いた。
松尾幹之『邪馬台・俀国はどこか』暁印書館(0012)は、「九州年号」について、以下のように記す。

鶴峰戊申は九州年号を襲国の年号とし、襲国の最終的な滅亡を、養老四年(七ニ○年)のいわゆる宇佐八幡の放生会のはじまる、日向・大隈の反乱の時期まで繰り下げている。他方、いわゆる磐井の後裔をもって九州王朝(倭)としている多くの論者は、その最終滅亡の時期を、その年号の終わりの七世紀末としている。結論的に鶴峰戊申は「朝廷でまさしく年号を立てられたのは、この大宝が初めて、これより以前の年号は九州年号とたがいに入り乱れたのである。白鳳と白雉と、朱鳥と朱雀とは義相が近く、大化と大和とは音相が同じであることを考えてみることである」としている。しかし、九州年号を使用した遺物が殆どと言って良いほど、まだ発見されていないので、九州年号は或いは後人の作為ではないかとみなす意見も少なくない。

『市民の古代』という古田武彦氏の古代史論考を支持していたグループの編集していた雑誌がある。
発行元は「市民の古代研究会」というサークルである。
1977(昭和52)年に、「古田武彦を囲む会」というサークルとして発足し、1983(昭和58)年以来、「市民の古代研究会」として『市民の古代』を編集発行してきた。
1989(平成8)年10月発行の第11集(新泉社発行)は、『「九州年号」とは何か』を特集している。
この雑誌に、『「九州年号」目録』という資料が載っている。

この資料では、「九州年号」を次の2種に区分している。
第一種「九州年号」
善記より大長までの32年号から、第二種の5年号を除いた27年号
つまり、特別扱いとされたものを除いたものであるから、特別扱いについて見る必要がある。
第二種「九州年号」の説明文を引用する。

第二種「九州年号」
大和朝廷の、いわゆる「正史」に記述のある「白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化」の五年号だが、一連の「九州年号」なのか、「正史」の影響下に生じたものなのか、判断が困難である。そこで第一種とは一応切り離して考えなければ混乱をきたすとの見地から、これら五年号を第二種と仮称する。この第二種は同時に多くの問題をも含む。その一つは、第一種のような仏教年号とは一転して、瑞祥嘉号であること。そのニは年代に異説が多く、かなり乱れが生じていること。その三は、白鳳だけが異常な長さを有していること。その四は朱鳥が「九州年号であるかどうか疑問であること(丸山晋司氏による)。その五は白鳳以下は九州王朝滅亡後の唐支配下における年号と思われるが、どのような事情で年号が持続せられたのか。その六は大和朝廷の記す大化とは全く異なる時期に、大化が存在すること。等々。今後の体系的な研究と解明に期することとしたい。

この第二種「九州年号」の記載されている史料を、驚くほど多数収集しているのであるが、編者らはなお「探索が限定されている」としている。
以下では、第二種「九州年号」の見出しだけ抜粋してみることにする。
A.白雉(白智)<壬子・孝徳8・652>9年間-原形か- [異説]<庚戌・孝徳6・650>-『紀』の影響か-
B.白鳳(1)<辛酉・斉明7・661>-原形か-
C.白鳳(2)<壬申・弘文1・672>あるいは癸酉・天武1・673>-『紀』の影響か-
D.朱雀<甲申・天武12・684>一説に<壬申・672>
E.大化(1)<乙巳・孝徳1・645>-『紀』の影響か-
F.大化(2)<丙戌・天武14・686>一部に<乙未・695>とするものも有り。-原形か-
G.朱鳥(丙戌・天武14・686>一部に<甲申・684>とるすものも有り。

オーソドックスな歴史学会では、「九州年号」は否定的な扱いを受けている。
しかし、数多くの史料が存在していることは、何らかの史実を反映したものと考えたほうが妥当なように思われる。

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2008年1月 6日 (日)

「白鳳」の由来

ところで、「白鳳」という言葉は、何に由来するのだろうか?
「白鳳」は、中学の美術史にも登場しているはずであり、文化史的には著名な言葉である。
一見すると年号のように思えるが、『日本書紀』には「白鳳」という年号は現れない。

笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)では、以下のように説明されている。

「白鳳」の名は、孝徳朝の白雉の年号を奈良時代に白鳳と称したことがあり、また平安時代に入って、天武朝の年号として白鳳があったとする観念が生まれたことによるが、孝徳朝や天武朝に現実に白鳳の年号が行われたことはない(坂本太郎「白鳳朱雀年号考」『日本古代史の基礎的研究』下制度篇所収)

また、上記書には、次のような説明が記述されている。

白鳳時代は、飛鳥時代につぐ仏教文化の第二の発展期であり、その芸術には、初唐芸術の影響もあって、清新・華麗な風がみなぎった。
この時代の寺院建築には、飛鳥時代の流れを汲む旧来の様式のほかに、ことに後半になって、白鳳様式ともいえる新しい建築様式があらわれた。

「白鳳様式ともいえる」というからには、前提として、「白鳳」という時期の規定が明確で、他の時代と何がどう違うかが明確になっていることが必要であろう。
しかし、上記の「白鳳」の由来についての説明は、いつからいつまでを「白鳳」とするのか、いささか漠然としているのではなかろうか。
「現実に『白鳳』」の年号が行われたことはない」のならば、何をもって「白鳳」とし、「白鳳様式」の特徴は何なのか?
なぜ奈良時代に、「白雉」を「白鳳」と称したのか?
「雉」と「鳳」は似たようなものなのか? 素人的には、「雉」と「鳳」ではかなり違うだろうと思う。
あるいは、なぜ平安時代に、「天武朝に白鳳があった」という「観念」が生まれたのか?
上記書は、版元からしても著者からしても、最もオーソドックスな日本古代史のテキストと思われるが、どうもスッキリしないように感じる。

『日本書紀』に登場する年号は、次の3つである(文章は、宇治谷孟現代語訳『日本書紀(下)講談社学術文庫(8808)による)。
大化:「皇極天皇の四年を改めて大化元年とした」(孝徳紀元年)
白雉:「今わが祖先のお治めになる長門国よりめでたいしるしがあった。それ故に天下に大赦を行い、白雉元年と改元する」(孝徳紀大化6年2月)
朱鳥:「二十日、改元して朱鳥元年とした」(天武紀15年7月)
つまり、『日本書紀』に登場する年号は、いずれも「改元」として記述されている。

『続日本紀』には、次のような記述がある(宇治谷孟現代語訳『続日本紀(上)』講談社現代文庫(9206))。
聖武元年10月1日条

京および諸国の僧尼の名籍を調べてみますと、……伏して天皇のご裁定を仰ぎたいと思います。
次のように詔があった。
白鳳以来・朱雀以前(孝徳朝以後天武の諸朝)のことは、遥か昔のことなので、調べ明らかにすることはむつかしい。また役所の記録にも、粗略のところが多くある。そこで今回僧尼の名を確定して、それから公験を支給せよ。

『続日本紀』の記述は、「役所の記録にも、粗略のところが多くある」などと、何やら昨今の「年金記録」問題を彷彿させるが、『日本書紀』の年号の中で、特異なのは、『日本書紀』の天武15年における朱鳥改元記事である。
7月20日の改元のおよそ50日後の9月9日に、「天皇の病ついに癒えず、正宮で崩御された」とある。
天武の死の直前ともいうべき時の改元である。
いかなる理由、いかなる目的のための改元だったのか?

また、『続日本紀』の現代語訳で、朱雀以前を「天武の諸朝」としているが、朱雀と朱鳥との関係はどう考えるべきか?
「白鳳」や「朱雀」は、『日本書紀』や『続日本紀』には現れないが、寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には見られる私年号(逸年号)である。
「白鳳」や「朱雀」は、何らかの形で年号として実際に用いられていたものなのだろうか?

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2008年1月 5日 (土)

白鳳芸術としての藤原京

「白鳳」という文化史における時代区分がある。
645(大化元年)の大化改新(乙巳の変)から710(和銅3)年の平城京遷都までの間とされる。
法隆寺の建築・仏像に代表される飛鳥文化と東大寺の仏像や唐招提寺の建築などに代表される天平文化の間に位置している。
なかでも、天武朝と持統朝は、天皇の権威の確立、律令の制定、都城の造営、「日本」の国号と天皇号の制定、『古事記』『日本書紀』編纂の開始、万葉歌人の輩出、仏教美術の興隆など、中国初唐の影響下に、力強い清新な文化が創造された(寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎』草思社(0305))。

藤原京は、豊穣な白鳳時代の傑出した作品である、という見方がある(寺沢:上掲書)。
規模の大きさ、均整と規律性の高い都市構成の造型感覚が、質的完成度の高い芸術作品だということである。
確かに、左右相称で、道路を座標軸にした秩序だった街区構成である。
そして、この藤原京の構成的造型が、白鳳芸術全般に影響を与えたのではないか、とされる。
薬師寺の塔や仏像などにおける理知的で様式的な形式美である。

そして、『万葉集』の「藤原宮の御井の歌(巻1-52)」という長歌の構成もその1つだとされる。

 安見しし 吾わご大君 高照らす 日の皇子 荒妙の 藤井が原に 大御門
 始め給ひて 埴安の 堤の上に 在り立たし 見し給へば 大和の 青香具山は
 日の経の 大御門に 春山と 繁さび立てり 畝火の この瑞山は 日の緯の
 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大御門に
 宜しなへ 神さび立てり 名細し 吉野の山は 影面の 大御門ゆ 雲居にぞ
 遠くありける 高知るや 天のみかげ 天知るや 日のみかげの 水こそは

 常にあらめ 御井の清水

これを次のように分かち書きしてみる。
2_3
確かに、構成的な様式美を備えている、といえよう。
この分かち書きを提示したのは、建築史家の滝沢真弓というひとだという。
藤原京の構成美の反映と捉えるのも、建築史家ならではの視点だと思う。
それが白鳳という時代の特徴であり、時代精神だった。

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2008年1月 4日 (金)

藤原京の立地

『日本書紀』には、藤原宮という言葉は登場するが、藤原京という言葉は出てこない。
持統5年10月に、「甲子に、使者を遣して新益京を鎮め祭らしむ」とあるように、新益京という一般名詞で記述されている。
これまでにない条坊制を取り入れた広大な都城だったから、固有名詞をつけなくても通じたのだと思われる。
新益京は、文字通り「新たに増した京」である。
つまり、それまでの飛鳥浄御原宮に近く、その北部に拓かれた新開地というわけである。

2新益京の地鎮祭が持統5年とされることから、藤原京の造営は持統天皇によって始められた、と考えられていた。
しかし、岸俊男教授は、藤原京の造営計画は、天武時代に始まっていたことを主張した。
その論拠は、『日本書紀』の持統元年十月に、「始めて大内陵を築く」とあり、その檜隈大内陵が藤原京の中軸線である朱雀大路の真南の延長線上に位置していて(いわゆる「聖なるライン」)、このときに既に藤原京の計画が定まっていたと考えられるからである。

また、持統2年に正月に、天武天皇の殯宮の記述があるが、そこで「丁卯に、無遮大会(カギリナキヲガミ)を薬師寺に設く」とあり、薬師寺の寺地が決まっていて、法会を営むことができるほど堂宇が出来上がっていたことが窺える。
薬師寺は、藤原京の条坊に従って建立されており、藤原京の造営計画が天武天皇の時代に始まっていたことが推測できる。
天武5年には次のような記載がある。

是年、新城に都をつくらむとす。限の内の田園は、公私を問はず、皆耕さずして悉に荒れぬ。然れども遂に都つくらず。

「新城に、遂に都つくらず」の原因は不明だが、天武は新都造営の意思を持っていたわけである。

『万葉集』に次の歌がある。

大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ(巻19-4260)

大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ(巻19-4261)

大君は天武天皇を指し、これらの歌は、飛鳥浄御原宮の都づくりの歌と解釈されてきた。
しかし、飛鳥の地はさほど広いものではなく、歴代天皇によって開発されてきた土地でもあるから、歌意にそぐわない。
藤原の名前は、「藤井が原」が縮まったものとされる。湧水の多い沼地に近いところだったらしい。
広大な京域を造成するために多くの人々が集められ、埋め立てと整地が行われた。
藤原京造営のために、広い荒地や沼地を整地する情景を詠んだと理解すれば、イメージは良く合う。

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2008年1月 3日 (木)

藤原京の規模

土に埋もれた藤原宮の所在地が確定したのは、昭和になってからである。
藤原宮は、橿原市高殿町に所在するが、その宮の位置を最初に推定したのは、江戸時代中期の国学者・賀茂真淵だとされる(「藤原宮木簡と郡評論争」(9月12日の項))
昭和8(1933)年春に、高殿町(旧鴨公村高殿)にあった鴨公小学校の校舎増築に際し、礎石や古瓦が発見され、民間の日本古文化研究所が発掘調査を行って、大極殿や朝堂の遺構を発見した。

発掘調査は、奈良国立文化財研究所(現在は独立行政法人・奈良文化財研究所)が引き継いで続けられており、2007年にもさまざまな成果があったことは既に述べた通りである。
しかし、日本古文化研究所の調査開始以来75年経つが、藤原京の規模については、まだ論争が継続している。

Photo_3昭和41(1966)年に、藤原宮の内裏地区と推定される場所に、国道165線のバイパス建設が計画され、保存運動が起きて、内裏跡の遺構が確認された。
岸俊男京都大学教授が、この発掘成果をもとに、昭和44(1969)年に、藤原京の全体の規模を推定した。
岸説は定説的位置を占めるに至ったが、その後の発掘の成果によって、岸説の域外にも条坊に合致する道路跡が発見された。
平成8(1996)年には、藤原京の西京極、東京極とみられる道路跡の発見があり、「大藤原京」説が提唱され、岸説に替って定説化してきている(寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎』草思社(0305)、図はhttp://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm022.html)。

しかし、南北の京極跡は未だ未確認で、大藤原京の規模に関しても未確定部分が残されている。
岸説では、藤原京は平城京の1/4程度の規模とされていたが、大藤原京説では、平城京や平安京をしのぐ規模だとされている。
大藤原京では、藤原宮が京の中心地点に位置している。
藤原京は、唐の長安に倣ったとされるが、長安では「宮」は「京」の北辺中央部に設置されている。
道教の天帝思想では、天空の星が地上の人間関係の秩序や運命を司ると考えた。
その天を支配しているのは北端の中心点に座している北極星(北辰・天極星)である。
中国の皇帝は、天帝からの付託によって地上世界を支配しているとされ、その「宮」も北辺中央部に位置した。

大藤原京で「天子南面」が成立していないのは、唐との交流がしばらく途絶えていたからであろうと推測されている(寺沢:前掲書)。
藤原京遷都の約30年前の663(天智2)年、わが国は百済救援の向かった朝鮮半島白村江で、唐・新羅連合軍に大敗した。
遣唐使の派遣は中止され、それが復活したのは藤原京遷都の8年後で、中止以前に派遣された遣唐使には、都城造営の知識や技術を習得するミッションはなかったのだろう。
藤原京造営は、遣唐使が中断されていた33年間の後半期であり、都城造営についての十分な情報がなかったものと思われる。

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2008年1月 2日 (水)

藤原京の造営

持統天皇が、藤原宮に遷都したのは、694(持統8)年の暮のことだった。宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈上〉』講談社学術文庫(8808)では、次のように記述されている。

十二月六日、藤原宮に遷都された。九日、百官が拝朝した。十日、親王以下郡司に至るまでに絁・綿・布をそれぞれに賜わった。十二日、公卿大夫に宴を賜わった。

天武紀に、「(天武二年)二月二十七日、天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥浄御原宮で即位の儀をされた」とある。
持統紀には、「朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩御され、皇后は即位の式もあげられぬまま、政務を執られた」とあり、さらに「四年春一月一日……皇后は皇位に即かれた」とあるから、藤原宮の前は、飛鳥浄御原宮だった。

明日香村の飛鳥京跡とされる地には、飛鳥岡本宮(舒明天皇)、飛鳥板蓋宮(皇極天皇)、後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武・持統天皇)が重なって存在していた、と考えられている。
飛鳥浄御原宮跡とされる遺構はその最上層であり、内裏にあたる東西約200m、南北約170mの内郭と、その南約150mにあるエビノコ廓とからなる。
飛鳥浄御原宮跡から藤原宮大極殿までの距離は3.5kmで、歩けば1時間足らずの場所だった。

藤原宮までは、天皇一代ごとに新しい宮を築くのが原則だった。
宮を中心に役所を設け、その周辺に皇族や貴族や役人の住居が存在した。しかし、特に秩序だった形ではなかった。
寺沢龍『飛鳥古京・藤原京・平城京の謎』草思社(0305)によって、藤原京を概観してみよう。
藤原京は、新しい造都理念に基づいて発想された都であった。
その理念とは、次の2つである。
①天皇一代限りではなく、永代の都とすること
②道路を碁盤目状に敷設し、施設を計画的に配置すること

Photo藤原京は、東西路(条)と南北路(坊)を座標軸として構成された。
東西の中央を、南北に幅25mの朱雀大路が通って、京を2分した。
東側が左京で、西側が右京である。
一般道路は、大路が幅10m前後、小路が幅6m程度で、これらが等間隔に縦横に走って、街区が格子状に区画された。

京の中心となる藤原宮は、一辺約1kmの四周に塀をめぐらせ、宮の内部には、北から南に向かって、内裏(天皇の住居)、大極殿、朝堂(政務や儀式の場)が整然と並んでいた。
持統天皇は、藤原京への遷都の3年後(697年)に、15歳の孫の軽皇子(草壁皇子の子)に皇位を譲った。文武天皇である。
持統は、大宝2(702)年に58歳で亡くなるが、その5年後の慶雲4(707)年には、文武も25歳の若さで亡くなってしまう。

文武の後は、母親の阿閉皇女が皇位を継ぐ(元明天皇)。文武の遺児の首皇子がまだ7歳だったためである。
元明は、即位の半年後に新都造営の詔を発し、和銅3(710)年には平城京に遷都した。
永代の都として計画された藤原京は、わずか16年で廃都となってしまった。
その条坊は土に埋もれ、条里制の水田と化してしまった。
藤原京が廃都された理由は謎とされている。

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2008年1月 1日 (火)

謹賀新年

2008年、明けましておめでとうございます。
皆さんは、どのような新年を迎えられたでしょうか。
私は、幸いにしてとりあえず健康な状態で(メタボリックな事情は別として)、新年を迎えることができました。
それも、多くの方々のお陰だと、心から日頃のご厚情に感謝いたします。
今朝は昨日の強風もおさまり、素晴らしい初日の出を拝むことができました。

2007年は、「今年の漢字」が「偽」だったことに示されるように、余り良い年ではなかったと思いますが、今年は少しでもマシな年となることを願っています。
そのために、自分が出来ることは何か、微力ではありますが努力を継続したいと思います。

Photo_4ところで、2007年は、藤原宮関連のニュースがいくつかありました。
藤原宮大極殿正門跡の発掘(07年9月8日の項)、藤原宮建造の際の地鎮具と思われる遺品の発見(07年12月1日の項)などです。
そして昨日、つまり大晦日の新聞は、藤原宮南門前から、大規模な柱穴列が見つかったことを報じました。
南門は、天皇が執務する中枢施設の大極殿のすぐ南、藤原宮の中心に位置し、宮内に設けられた門の中で最も重要な施設だとされます。
柱穴列は、南門の約3m南側で発見されました。穴は一辺が0.8~1.0mあり、43mの長さにわたって、15の柱穴が2~3mごとに南門と平行に並んでいました。

『続日本紀』の大宝元(701)年正月一日の条は、「文物の儀、是に備れり」という文章で有名です。宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206)から引用します。

Photo_3春正月一日、天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀式の様子は、大極殿の正門に烏形の幢(先端に烏の像の飾りをつけた旗)を立て、左には日像(日の形を象どる)・青竜(東を守る竜をえがく)・朱雀(南を守る朱雀をえがく)を飾った幡、右側に月像・玄武(北を守る鬼神の獣頭をえがく)・白虎(西を守る虎をえがく)の幡を立て、蕃夷(ここでは新羅・南嶋など)の国の使者が左右に分れて並んだ。こうして文物の儀礼がここに整備された。

この文章は、高松塚古墳に描かれていた壁画の解説文のようでもあります。
高松塚古墳の壁画は、WIKIPEDIA(12月30日最終更新)では、以下のように説明されています。

壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像の持ち物が『貞観(じょうがん)儀式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人(とねり)ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てられる。
奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと思われる。

大宝元年正月の元日の朝賀を受けた天皇は、文武天皇です。
そして、文武天皇は、『竹取物語』における帝のモデルだとされています(07年9月21日の項)。
高松塚被葬者については、未だに多くの論議があるようですが、文武朝の高官だった石上麻呂ではないかというのが有力な説の1つです(07年9月23日の項)。
『続日本紀』の大宝元年正月の記述と、高松塚古墳の壁画と、『竹取物語』の登場人物と。
何やら三題話めいてしまいましたが、興味深い世界だと思います。

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