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2008年1月23日 (水)

壬申の乱…(ⅲ)砂川史学⑦

「大海人皇子は九州王朝の皇子である」とする砂川恵伸『天武天皇と九州王朝―古事記・日本書記に使用された暦』新泉社(0612)においては、「壬申の乱」は、どう捉えられるであろうか?
砂川氏の推論では、大海人皇子(天武)は九州王朝の皇子であり、天智は近畿天皇家の天皇で、2人の祖先が神武天皇の直前の代で分かれたとしても、40数代を遡るし、応神天皇で分かれたとしても24代前のことであるから、「別姓」と考えていい。
つまり、「壬申の乱」は易姓革命である。

しかし、易姓革命の「革命」には、別姓の下位のものが上位のものに取って代わるというニュアンスが込められている。
天武と天智とを比べた場合、天智が上位とはいえない。
「壬申の乱」の起きた672年には、九州王朝は衰微しきっていたとはいえ、消滅しているわけではない。
倭国の王者の座が近畿天皇家であったわけではない。そういう意味では、「壬申の乱」は、易姓革命ではない、ともいえる。
しかし、革命でなかったとしても、天智と天武は同姓ではないと考えるべきだ。
つまり、万世一系とは言えない、ということになる。

天武2年8月条に、次の記述がある。

耽羅の使人に詔して曰はく、「天皇、新たに天下を平けて、初めて即位す。是に由りて、唯賀使を除きて、以外は召したまはず。」

つまり、天武は武力によって新王朝を創始したのだから、新王朝への祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない、と言っている。
言い換えれば、天武には、易姓の意識があった、ということであろう。

また、『日本書紀』の天武紀10年の条に以下の記載がある。

(三月の)丙戌に、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めたまふ。

中国では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例である。
天武が歴史編纂を命じたことにも、易姓革命の意識があったことが窺われる。

天智の後継者は、天武即位前紀に、「天命開別天皇(天智天皇)の元年に、立ちて東宮と為りたまふ」という記述があることから、大海人皇子が皇太子に指名されていた、とするのが通説である。
しかし、その当時皇太子制が確立されていなかったとすれば、この部分の記述は信憑性に欠けることになる。
「万世一系」という論理を貫徹させるために、別姓である天智と天武を同父同母の兄弟とし、その上天智が大海人皇子を後継に指名した、という筋書きに構成したのではないか。

天武紀の特徴の1つに、おびただしい数の叙姓がある。
天武13年10月条には、諸氏の姓を改めて、「真人」「朝臣」「宿禰」「忌寸」「道師」「臣」「連」「稲置」の「八色の姓」を新設し、姓を一本化する詔が出されている。
砂川氏は、「八色の姓」は、九州王朝の姓だったのではないか、と推測している。
「八色の姓」の制定とそれに基づく201氏族への叙姓は、「九州王朝の王が、近畿天皇家の家臣団の中で自分の臣従する者の本領を安堵する」ことを認めた行為だった。
本領:もともと所有した領地
安堵:土地の所有権・知行権などを将軍や領主などが承認すること

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