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2008年1月21日 (月)

壬申の乱…(ⅰ)研究史

「壬申の乱」は、大海人皇子が、先帝天智天皇の長子大友皇子の統括する近江朝廷への叛乱軍を組織し、実力によってこれを倒し、皇位を獲得した事件である。
『日本書紀』巻ニ十八(天淳中原瀛真人天皇:天武天皇(上)は、全巻を「壬申の乱」の記述に費やしている。
天武1人で2巻というのも異例であるし、即位前紀というべき事件に1巻を費やしているのも異例である。
しかし、皇国史観では、叔父と甥が皇位を争ったことになる「壬申の乱」の扱いは、かなりやっかいだったと思われる。

星野良作『研究史 壬申の乱・増補版』吉川弘文館(7801)の「はしがき」に白州正子さんの言葉が引用されている。

私が子供の頃、もっとも興味を持ったのは、壬申の乱についてであった。が、学校では教ええくれない。皇位継承の争いなぞ、当時はタブーであったからだ。終戦が来て、タブーはとかれ、壬申の乱に関する本は巷に氾濫した。私はむさぼるように読みふけったが、一つとして満足を与えてくれたものはない。少なくとも私の目にふれた限りでは、いずれも図式的で、天智天皇は専制君主の悪玉、天武天皇は民衆の支持を得た善玉で、玩具の兵隊ごっこしている風に見えた。そんな単純なわり切り方は、次第に通らなくなったとは言え、そういう考え方がまったく失せたとはいい切れない。

「芸術新潮」の昭和47年10月号の『近江山河抄Ⅲ・大津の京』の中の文章である。
幸いにして、私たちは、皇位継承の争いに関するタブーから解放された時代に育っている。
だから、史実としての「壬申の乱」がどうであったか、に関して、純粋な好奇心を持つことができる。
皇位継承に関して、現行の「皇室典範」を改定することが必要ではないか、という議論がなされていたとき、秋篠宮家に悠仁親王が誕生し、とりあえずの議論に終止符が打たれた。
兄から弟の系統への皇位の変更の可能性を、現代版「壬申の乱」などと称することができたのも、タブーが解かれたお陰である。
しかし、にもかかわらず、「壬申の乱」は、依然として謎の多い事象である。

星野良作氏の上掲書では、「壬申の乱」の研究史を、以下の三期に区分している。
①江戸時代:大友皇子即位の主張とその論拠→明治3(1870)年の弘文天皇追諡で一応の落着
②弘文天皇追諡~第二次大戦の終結:弘文即位の史実性の研究や乱の意義などであるが、天皇制の重圧が増大した時期で、全般的に研究は停滞
③戦後~現在:本格的な研究の展開。しかし、論争の形で発展したものも多く、明確な結論を得ていない部分が少なくない

星野氏は上掲書において、「増補 最近における壬申の乱の研究」という項目を設けている。
増補版刊行の時期から既に30年を経て、各種の論考が引き続き提出されているが、星野氏の増補版刊行時点における「最近の研究」の内容の大要を見てみよう。
・皇位継承問題と「不改常典」の解釈:不改常典は、天智が皇位の継承を兄弟相続から直系相続に切り換えようとして定めた皇位継承法か?
・「不改常典」の新解釈と直(嫡)系皇位継承法説:直系による皇位継承と嫡系による皇位継承
・評造軍研究からの視点:兵力の性格論からの評造軍という軍制についての研究
・壬申の乱と伊福部の性格:大海人の軍事的基盤の究明による乱の意義へのアプローチ
・壬申の乱と渡来人の動向:東アジア史の流動との関係

通説の代表として、笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)の記述を見てみよう。

六七一(天智一○)年、天皇は子の大友皇子を太政大臣に任じて皇太弟大海人皇子の実権を奪い、少数の豪族が権力を握る専制的な体制をとってこの危機に対処しようとしたが、同年病死した。
吉野に隠退した大海人皇子は、天智天皇の死後、大友皇子を擁する近江の朝廷と対立し、翌六七ニ(天武元)年六月、ひそかに吉野を出、伊賀・伊勢をへて美濃(岐阜県)にいたり、ここを本拠として東国の兵を集めた。近江方は急遽諸国に募兵したが失敗し、この間大和でも大伴氏や倭漢氏などの在地豪族が大海人皇子に呼応して蜂起した。七月に入り、大海人皇子方は諸道から攻勢に転じ、瀬田川を渡って大津京を陥れ、大和でも援軍をえた大伴吹負が全地域を平定した。七月ニ三日、大友皇子が自殺して戦闘は終了した。これが壬申の乱である。壬申の乱は皇位継承をめぐる争いであるが、それが大規模な戦乱となった背景には、対外危機を背景に強力に中央集権政策を進めてきた天智天皇に対する豪族層の不満、抵抗があったことが考えられ、それが大海人皇子が各地の首長層の武力を動員しえた大きな原動力となっていたと考えられる。しかし、乱の勝利によって強大な皇権を手中に収めた天武天皇は、この後、律令制を軸とする中央集権化を、一層強力に推進していくことになる。

「壬申の乱」は、『日本書紀』の記述を客観的に解すれば、叛乱軍が実力で皇位を簒奪した事件である。
「万世一系」史観にとっては、まことに具合が悪い出来事である。
「大皇弟」の大海人皇子と、長子大友皇子とのどちらが正当な皇位継承権者だったのか?
叛乱軍が、軍事的に圧勝した背景はなんだったのか?
天智(中大兄)と天武(大海人)の本当の関係は?
「壬申の乱」が、古代史解釈の分岐点であることは間違いない。

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