砂川史学…③大海人皇子(3)
『日本書紀』の天武2年条には次の記載がある。
二月の丁巳の朔癸未に、天皇、有司に命せて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子尊を生れます。先に皇后の姉大田皇女を納して妃とす。大来皇女と大津皇子とを生れませり。次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子とを生れませり。次の妃新田部皇女、舎人皇子を生れませり。又夫人藤原大臣の女氷上娘、但馬皇女を生めり。次の夫人氷上娘の弟五百重娘、新田部皇子を生めり。次の夫人蘇我赤兄大臣の女太蕤娘、一の男・二の女を生めり。其の一を穂積皇子と曰す。其のニを紀皇女と曰す。其の三を田形皇女と曰す。天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり。次に宍人臣大麻呂が娘カヂ<木偏+穀旁>娘、ニの男・二の女を生めり。其の一を忍壁皇子と曰す。其のニを磯城皇子と曰す。其の三を泊瀬部皇女と曰す。其の四を託基皇女と曰す。乙酉に、有勲功しき人等に、爵賜ふこと差有り。(坂本太郎他校注『日本書紀 (4) 』ワイド版岩波文庫(0310))
二月二十七日、天皇は有司に命じて壇場を設け、飛鳥浄御原宮で即位の儀をされた。正妃(菟野皇女)を立てて皇后とされた。后は草壁皇子(文武・元正両天皇の父)を生まれた。これよりさき皇后の姉大田皇女を召して妃とされ、大来皇女と大津皇子を生まれた。次の妃大江皇女(天智天皇の娘)は、長皇子と弓削皇子とを生まれた。次の妃、新田部皇女は舎人皇子(日本書紀編纂の総裁)を生まれた。また夫人の藤原大臣(鎌足)の女氷上娘は但馬皇女を生まれた。次の夫人氷上娘の妹の五百重娘は、新田部皇子を生まれた。次の夫人の蘇我赤兄大臣の女太蕤娘は、一男一女を生まれた。第一を穂積皇子といい、第二を紀皇女、第三を田形皇女という。天皇は初め鏡王の女、額田姫王を召して十市皇女(大友皇子の室)を生まれた。次に胸形君徳善の女尼子娘を召して高市皇子を生まれた。次に宍人臣大麻呂女カヂ媛娘は二男二女を生まれた。第一を忍壁皇子、第二を磯城皇子、第三を泊瀬部皇女、第四を託基皇女という。(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』 講談社文庫(8808))
いささか煩雑であるが、天武の皇子や皇女は、古代史理解のカギになるものと思われるので、岩波文庫版と講談社文庫版を併記した。
先ず問題になるのは、鸕野皇女(後の持統天皇)の姉の大田皇女である。
斉明7(661)年に次の記載がある。(宇治谷孟現代語訳)
春一月六日、天皇の船は西に向って、航路についた。八日、船は大伯の海(岡山県邑久の海)についたとき、大田姫皇女(中大兄の子で、大海人皇子の妃)が女子を生んだ。それでこの子を大伯皇女と名づけた。十四日、船は伊予の熟田津(愛媛県松山市付近)の石湯行宮(道後温泉)に泊った。
三月二十五日、船は本来の航路に戻って、娜大津(博多港)についた。磐瀬行宮(福岡市三宅か)におはいりになった。天皇は名を改めてここを長津(那河津)とされた。
つまり、斉明6(660)年に、百済が唐・新羅連合軍に攻撃されて滅亡し、復興支援の要請を受けて、斉明7(661)年正月6日に、斉明天皇が難波を出発した。
このとき、大田皇女が同船し、2日後に大伯皇女を出産した。
ここで問題は、なぜ、大田皇女は、出産間近の状況で、百済救援の軍団に同行したのか、ということである。
砂川氏は、今まで盲点となっていたこのことに着眼した。
そして、出産間近の妊婦が危険を冒して旅に出る理由として考えられるのは、次の2つくらいしかないのではないか、としている。
①実家に戻り出産するため
②夫婦が離ればなれになっていて、特に戦争を控えていて生き残れるか否か予断を許さない状況にあるので、生まれてくる子を男親(夫)に会わせるため
大田皇女の場合、父は天智であり、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘だから、生粋の大和国の人間だと考えていい。
とすれば、大田皇女が危険を冒して船旅に出たのは、実家に戻るためということは考えられない。
とすれば、夫の大海人皇子が旅先の筑紫にいたから、ということになる。
出産間近の妻を同行して、戦いに向かうなど論外というべきだから、大海人が百済救援軍の船団に、大田皇女と一緒にいたとは考えられない。
大海人皇子は、筑紫にいた。
そして、大田皇女が妊娠した時(出船したのが臨月だったとしたら、10ヵ月前)には近畿大和にいたわけである。
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