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2007年12月 3日 (月)

鶏頭論争

江国滋さんが「有名な水かけ論争」と評した「鶏頭論争」は、俳句界における論争の中でも、最も有名なもののようだ。

鶏頭の十四五本もありぬべし  (子規)

既に、「俳句評価の難しさ(8月24日の項)」で触れているが、その中身についてもう少し見てみよう。
意味的には、「鶏頭が十四五本はあるはずだ」という程度のことである。
「ありぬべし」は文法的には、「ありぬ」+「べし」で、「ぬ」は動作や作用の完了を示す助動詞。「べし」は当然、可能、想像などの意味を示す助動詞。「ぬ」+「べし」で、言っていることを確認・強調する用法となる。
「ありぬべし」は、「確かにある」「きっとある」という意味になる。

子規庵の庭には、草好きの子規のためにたくさんの花が植えられ、鶏頭は、明治30年の春に森鴎外が、各種の種を送ってきた中の1つだという。
「十四五本」という数はどうだろうか?
ポイントは「も」にあるのではないか、という説がある。
とすると、「三四本」「六七本」「七八本」「十四五本」となるが、「三四本」だと一目瞭然だし、「七」の「チ」の語感が良くないから、「十四五本」が残る、ということになる。

この句が作られたのは、1900(明治33)年の9月9日の子規庵句会。
子規は、鶏頭の題で次の9句を作った。

堀低き田舎の家や葉鶏頭
葉鶏頭の錦を照す夕日哉
誰か植えしともなき路地の鶏頭や
萩刈りて鶏頭の庭となりにけり
鶏頭の十四五本もありぬべし
鶏頭の花にとまりしばったかな
朝顔の枯れし垣根や葉鶏頭
鶏頭に車引入るるごみや哉
鶏頭や二度の野分に恙なし

「ありぬべし」の句の一座の評価は低く、虚子は最後の一句のみをとった。
虚子選『子規句集』の2306句の中に、鶏頭の語を含む句は以下の7句があるが、虚子はこれらの句より「ありぬべし」は劣位だとした。

鶏頭や賤が伏屋の唐錦      <賤(シズ)、伏屋(フセヤ)>
墓原や小草もなしに鶏頭花
うつくしき色見えそめぬ葉鶏頭
藁茸の法華の寺や鶏頭花
鶏頭の黒きにそゝぐ時雨かな
鶏頭の皆倒れたる野分哉
鶏頭やこたへこたへて幾時雨

志摩芳次郎という人が『俳句をダメにした俳人たち』中央書院(8712)で、「鶏頭の鮮烈な色ほど秋を感じさせるものはないのに、子規のこの句は色彩感覚が欠如している」とし、以下の句より劣る凡句だと評した。

鶏頭や雁の来る時尚あかし  (芭蕉)
ぽつぽつと痩せけいとうも月夜なり  (一茶)
鶏頭に秋の日のいろきまりけり  (久保田万太郎)
鶏頭の一抹の朱わが生に  (桂信子)
鶏頭の夕影並び走るなり  (松本たかし)
人の如く鶏頭立てり二三本  (前田普羅)
鶏頭の澎湃として四十過ぐ  (石田波郷)
鶏頭の穂先とびちる野分かな  (石原八束)

私の感想は?
もちろん、駄句と否定するほどの見識はない、というか、そんなに俳句を知っていない。
しかし、「子規の鶏頭の句がわかるかどうかでその人間の俳句がわかるかどうかを判定できる」と言う人もいるらしいが、絶賛するほどの句とは思えないというのが、正直なところである。
そもそも、「俳句がわかるかどうか」の「リトマス試験紙」みたいな句などあり得ないのではなかろうか。

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