藤原宮の地鎮具出土
奈良県橿原市の藤原宮の跡で、大極殿南門跡近くの穴から、日本最古の鋳造貨幣といわれる富本銭と水晶 の入った壺が出土した、と奈良文化財研究所が発表した(11月30日各紙-写真は静岡新聞)。
「藤原宮大極殿正門跡の発掘(9月8日の項)」で触れたように、藤原宮は、持統8(694)年の遷都から和銅3(710)年に平城京に遷都するまでの間、持統、文武、元明の3代にわたって使用された宮である。
『日本書紀』には、藤原京(新益京)および藤原宮の地鎮祭について、次のような記述がある(坂本太郎他校注『日本書紀 (5) 』。ワイド版岩波文庫(0311))
(持統5年10月)甲子に、使者を遣して新益京を鎮め祭らしむ。(甲子:27日)
(持統6年5月)丁亥に、浄広肆難波王等を遣わして、藤原の宮地を鎮め祭らしむ。(丁亥:23日)
今回出土した壺は、宮殿中枢部であることから、持統6年の時の地鎮具の可能性が高い。
もちろん宮地の地鎮遺構としては最古の例で、『日本書紀』の記述を裏付けるものであると考えられる。
あるいは、地鎮祭の起源となるものかも知れない、と推定されている。
南門跡(東西39m、南北14m)は、当時の国会議事堂に相当する大極殿の約50m南に位置している。
南門跡の5m西を発掘したところ、門につながる回廊の下から、水や酒を注ぎ入れる壺(平瓶(ヒラカ))が埋められた状態で出土した。大きさは直径20cm、高さ15cmである。
壺を中心に、4つの柱穴(直径20~25cm)があることも確認され、約1m四方を神聖な空間として区画した可能性もあるという。現代の地鎮祭の様子にも通じるものといえるだろう。
X線で壺の内部を調べたところ、注ぎ口に富本銭9枚が詰め込まれ、長さ2~4cmの六角柱状の水晶の原石が 底に9個入っているのが確認された。
当時、広く信仰されていた道教や陰陽道思想では「9」は最も神聖な数字とされ、「長久」の意味があるとされている。
都の繁栄を願って、富本銭と水晶を9つずつ収めた可能性が高い。
富本銭の化学分析によって、アンチモンが検出された。
藤原宮跡から約3.5km南東にある飛鳥池遺跡(明日香村)から出土した富本銭にもアンチモンが含まれていたことから、当時の官営工房と考えられている飛鳥池遺跡で鋳造された富本銭が使われたのではないかと考えられる。
われわれが学校で教えられた頃には、わが国最古の貨幣は「和同開珎」で、「珎」は、「寶」の異体字であり、「ワドウカイホウ」と読む、とされていたと思う。
最近では、「珎」は、「珍」の異体字であり、「ワドウカイチン」と読むとする説が主流だという。
『日本書紀 (5) 』の天武12年条には、次のような記述がある。
夏四月の戊午の朔壬申に、詔して曰はく、「今より以後、必ず銅銭を用ゐよ。銀銭を用ゐること莫れ」とのたまふ。乙亥に、詔して曰はく、「銀用ゐること止むること莫れ」とのたまふ。
この天武天皇の時代の銅銭が「和同開珎」ではないか、とする説もあったが、1999(平成11)年1月19日に、明日香村の飛鳥池遺跡で、富本銭が大量に出土し、その鋳造年代が7世紀後半のものであるとされたことから、天武時代の銅銭が富本銭であり、「和同開珎=最古の貨幣」説は否定された。
しかし、富本銭は広い範囲には流通しなかったと考えられ、通貨として流通したかということ自体にも疑問が投げかけられている。
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