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2007年12月26日 (水)

当麻寺…③秋櫻子

水原秋櫻子に『当麻時の記憶』と題する文章があり、小学館版『当麻寺/古寺を巡る40号』(0711)に採録されている。
秋櫻子は、1892(明治25)年に神田の産婦人科医院に生まれた。
初めて奈良を訪れたのは、1911(明治44)年8月のことで、母からの第一高等学校への入学祝だったという。
東京帝国大学医学部を卒業し、昭和医専の教授になり、家業を継ぐと共に、宮内庁の典医になって多くの皇族の子供を取り上げた。
東大在学中から俳句に取り組み、大正末期の1924年から「ホトトギス」に参加。
昭和初期には、山口誓子、阿波野青畝、高野素十と共に、頭文字をとって「4S」と呼ばれた。

秋櫻子が奈良に惹かれたのは、和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んでのことである。
和辻の文章が秋櫻子を虜にし、読了した日から「ものさびた大和路の古寺と、その金堂にひかり輝く仏像が、私の眼の前から去らなかった」と、ホトトギス時代を語った『高浜虚子』という著書に書かれている。
「ホトトギス」でエース級の活躍をしていた秋櫻子は、客観写生と唱える虚子やそれを支持する素十と作句観を巡って対立し、1931(昭和6)年に「ホトトギス」を脱退して独立する。
1934(昭和9)年には、主宰誌の「馬酔木」を創刊し、「ホトトギス」に対抗する新興勢力の拠点となった。

秋櫻子が「ホトトギス」を脱退した理由は、仁平勝『俳句のモダン』五柳書院(0212)によれば、以下の通りである。

ホトトギスには「客観写生」といふ標語があった。
……
まづ客観写生を修練させるといふ教育法はよいのであるが、ホトトギスに於てはいつまで経つても客観写生の標語だけが掲げられていて、そのさきの教育はなかつた。つまりどこまでも大衆教育であり、凡才教育であつて、その中から傑れた作者を出さうといふ教育ではなかつた。

つまり、秋櫻子は、高浜虚子が、みな一様に大衆教育、凡才教育の対象とみることに対し、大衆とは異なる存在として自覚している自身が満足しなかったということだろう。
さらに、虚子自身は、必ずしも客観写生の領域に留まっているわけではないのに、「ホトトギス」同人たちは、異を唱えることなく従っていることにも不満だったはずだ。
もちろん、教育の方法論と先端の実作の方法論が異なることは、秋櫻子も認識していたであろうが、その認識を曖昧なままにしておくことは、秋櫻子にとって耐え難いことだったのだろう。

上記『当麻寺』の「解説」によれば、1927(昭和2)年に、虚子が松山へ行った帰途、京都に10日間ほど滞在するということで、俳句仲間が京都へ行こうと誘ってくれた。
京都で吟行することは、俳句を志す者にとっては願ってもない機会だろう。
秋櫻子も、夜汽車に乗って京都に向かったが、一行から離れ、そのまま奈良に足を向けたという。
そのときに真っ先に向かったのが、当麻寺だった。

当麻寺は、牡丹の寺として有名である。
各塔頭をあわせると数千株におよび、長谷寺に匹敵する。
また桜も見事で、桜・牡丹ともにその満開の時期には、中将姫のおわす極楽浄土もかくやという雰囲気となる。
秋櫻子の第一句集『葛飾』には、次の句がある。

牡丹の芽当麻の塔の影とありぬ

当麻寺は、東西双塔の寺としても知られている。
秋櫻子は、大和吟行によって句境を広げたが、それは虚子から離れていく要因の1つとなった。
後付けかも知れないが、京都で下車しなかったことがそれを暗示しているように思える。

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