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2007年12月

2007年12月31日 (月)

血脈…④日亜化学異聞

中村修二氏と日亜化学の裁判には、どうも血脈的な背景があるらしいことを知った。
小川雅照『父一代の日亜化学』洛風書房(0504)に、その特殊事情が記されている。サブタイトルとして、「青色発行ダイオード開発者中村修二を追い出したのは誰だ!」が付されており、著者の肩書きは、「日亜化学工業株式会社創業家実子」となっている。

裁判における日亜化学側の代表者は、小川英治氏である。小川家が創業家だということは知っていたので、英治氏も創業者の実子だと思っていたのだが、創業者である小川信雄氏の長姉和子氏の婿養子として迎えられた人だった。
著者の雅照氏は、信雄氏の三男であるが兄2人が夭折したので、実質的な長男として育てられた。
一時期日亜化学に在籍していたが、雅照氏の夫人と、信雄氏の妻との間に「嫁-姑」問題などがあって、退社した。

そういう事情があるから、雅照氏の主張を一方的に信じることはできないのかも知れないが、先代の創業者信雄氏に可愛がられていた中村氏が、日亜化学から離反することになる事情について、納得させられるものがあることは確かである。
というのは、創業家の実子で雅照氏の弟の智滋氏も、日亜化学を退社することを余儀なくされているからである。
智滋氏は、日亜化学の常務取締役であったが、信雄氏亡き後平取締役に降格され、さらには取締役からも外されたらしい。

創業者の信雄氏は、中村氏の才能を高く評価していた。
それは信雄氏自身が、職人的な技術者だったことが大きな要因だった。
信雄氏の下で、中村氏は自由な研究環境を与えられ(とはいえ、地方のさほど大きな企業ではないから、設備等が充実していたわけではない)、独創的な開発にチャレンジすることができた。
裁判で、日亜化学は、中村氏が発明した「404号特許」は実際には会社の事業に貢献していない、と主張していたが、職務発明対価を求める裁判の前に、特許を実施する権利の帰属についての争いがあったことからしても、日亜化学の主張は不合理と考えるべきだろう。
同特許の経済的価値を、新日本監査法人は-15億円と査定したが、これは依頼者の日亜化学の意向に沿うように算出したものと言わざるを得ないだろう(12月16日の項)。

婿養子の英治氏には、偉大だった創業者に反発する気持ちもあったのだろう。
創業者の2人の男の実子はいずれも会社から離れているし、日亜化学の現在の好業績をもたらした中村修二氏も会社を離れる結果となった。
もちろん一方からの見方ではあるが、雅照氏が1つの喩え話を創作していて分かりやすいので抜粋・引用する。

ある地域が広大な砂漠で、住民も旅人も井戸が出来ることを待ち望んでいた。
そこへ地質学等の専門知識を学んだ若者がやってきて、ある場所に狙いを定めて掘り始める。
若者の主人は遠くから眺めていて、「そんなところから水が出るわけがないから、止めて別のことをしろ」という。
若者は、主人の嫌がらせを受けながらも穴を掘り続けた。
ある日、穴の底から湿り気のある砂が見えたかと思うと、瞬く間に水が沁み出て豊富な水が湧き出した。
主人の父親(養父)は、その成功を我が事のように喜び、若者を褒め称えた。
主人は、「これは組織の力だ」と若者が掘り当てた井戸に大勢の部下を投入して、石組みを施し、ポンプを設置して村の中心部まで水管を通した。
主人は若者1人の力ではないことを強調し、若者が学んだ地質学さえ否定した。
主人の父親が病床に伏して人事不省に陥ると、若者は失意のうちに主人のもとを去った。

青色発光ダイオードの製品化に関しては、「モノ生み」と「モノ作り」、「個人と組織」、「理系と文系」など、多くの教訓が秘められているように思う。

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2007年12月30日 (日)

脱メタボ

「脱メタボ」商品というのが流行っているという。
「メタボ」とは、「メタボリック・シンドローム(代謝症候群)」のことで、内臓脂肪型肥満(内臓肥満・腹部肥満)に高血糖、高血圧、高脂血症のうち2つ以上を合併した状態をいう。
メタボリックは、メタボリズム(新陳代謝)の形容詞形で、10月12日に亡くなられた黒川紀章氏らが、デザイン・建築の方法論として使用したことで知られる(10月14日の項)。

1988(昭和63)年、生活習慣病の三大要素(高血圧・糖代謝異常・脂質代謝異常)がインシュリン抵抗性を基礎に密接に関連して、糖尿病と心血管疾患を引き起こすという学説が、Reaven GMによって「Syndrome X」との研究名で報告された。
その翌年にKaplan NMによる「死の四重奏」と題する研究報告がなされたのを契機に、インシュリン抵抗性症候群の研究が盛んとなり、1993(平成5)年、Hotamisligilが肥満とインシュリン抵抗性の間に炎症が介在することを指摘し、1998(平成10)年にWHO(世界保健機関)が『メタボリック症候群』という名称と、その診断基準を発表した事により、「メタボ」が一般に知られる病態名となった。

高血糖や高血圧はそれぞれ単独でもリスクを高める要因であるが、これらが多数重積すると相乗的に動脈硬化性疾患の発生頻度が高まる為、リスク重積状態をより早期に把握しようという試みが考えられてきた。
このようなリスクの集積は、偶然に起きるのではなく、何らかの共通基盤に基づくと考えられ、世界ではインシュリン抵抗性を共通基盤と考えるのが一般的だが、日本では特に内臓脂肪の蓄積による肥満が共通の基盤として着目されている。

来年から特定健診制度(糖尿病等の生活習慣病に関する健康診査)が始まる。
これは、メタボリックシンドロームの概念を応用して糖尿病対策を行う事を目指し、40歳から74歳までの中高年保険加入者を対象に、健康保険者に特定健診の実施を義務化すると共に、メタボリックシンドローム該当者、または予備群と判定されたものに対して特定保健指導を行うことを義務づける。
5年後に成果を判定し、結果が不良な健康保険者にはペナルティが課せられる。
厚生労働省は、中年男性では二分の一の発生率を見込むなど、約2000万人がメタボリックシンドロームと予備群に該当すると考えられている。
これを平成24年度末までに10%減、平成27年度末までに25%減とする数値目標を立てている。
これにより医療費2兆円を削減することが目標となっている。
Photo_2

脱メタボ商品の典型は、食事である。
厚生労働省と農林水産省から、平成17年6月に、「食事バランスガイド」というものが発表されている。
望ましい食生活についてのメッセージを示した「食生活指針」を具体的な行動に結びつけるため、1日に「何を」「どれだけ」食べたらよいかの目安をイラストで示したものだ。
1日に必要な食事量が、主食、副菜、主菜、牛乳・乳製品、果物の5グループに分類され、適量をコマの形で表現したものだ。
「あなたのコマは回ってる?」というコピーが添えられている。
コマの芯は水分で、回転させるのは運動である。

例えば、「食事バランス幕之内」という駅弁が発売されている。
あるいはナチュラルローソンでは、「しっかり食べよう!バランス弁当」売り出した。
あるいは、ニンテンドーDSの「健康検定」というソフトは、健康的な食事のとり方を学び、腹囲や体重などの記録と肥満度チェックができる。
確かに食事バランスが重要なことは分かる。
しかし、厚生労働省と農林水産省により指導されたくないなぁ、という気分がすることも大方の感覚ではなかろうか。

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2007年12月29日 (土)

年齢と感覚時間

年の瀬を迎えると、慌ただしく時間が過ぎていく気がする。
物理的な時間の長さは変わるはずもないのだが、人が感じる時間の長さは、さまざまな条件によって変わってくる。
一般に、忙しければ早く過ぎるような気がするだろう。
年末は何かと行事が重なるので、慌ただしいのだろう。

それはまあ自然なことだと思うが、もう1つ多くの人が口にするのが、年をとるに従い、時間が早く過ぎて行くような気がする、ということだ。
確かに、子供の頃に比べると、1年も1日も短いと思う。
例えば、小学生の頃は、学校が終わってからの時間がずいぶん長かったように思う。
私の小学生時代などは、近所の悪ガキが集まって遊んでいたのだが、家に帰るまでに遊び疲れるくらいの時間があった。

就職したばかりの頃でも結構長い時間があった。
最初の勤務は工場だったのだが、夏などは、終業後ビヤガーデンなどに出かけても、結構長時間を過ごせたような記憶がある。
それが最近は、飲み始めて気がついてみると、もう12時近くだったりする。

これにはどういう心理的なメカニズムが作用している?
一説によれば、残り時間によるものだという。
時間の過ぎていく早さは、残り時間に比例する。
残り時間は人によって異なるとしても、例えば生存可能な年齢を120歳とすれば、1歳の子供と60歳の人間は、時間の過ぎていく感覚が2倍程度違う、ということになる。

あるいは、次のように言う人もいる。
年齢による1年の長さの相対的な感覚は、<1/年齢>に比例する、と考えられるのではないか?
1歳の時の1年の長さを1とすれば、3歳ならば1/3であり、30歳ならば1/30、60歳ならば1/60というように、である。

とすれば、生まれてから20歳までに過ぎた時間の長さの感覚と、20~80歳の間で感じる長さの感覚は、次のように計算できる。
・20歳まで
1/1+1/2+1/3+……+1/20=3.59年
・20~80歳
1/21+1/22+……+1/79+1/80=1.36年

これだと、平均寿命を80歳とみても、20歳までに75%近くの時間を過ごしている、ということになってしまう。
これはいくら何でも極端だろう。
それで、例えば、2歳までは余り意識的ではないとして、1/1と1/2を除外するような補正をした方が妥当ではないか。
とすれば、
・0~20歳=2.09年
・20~80歳=1.36年

上記のように考えると、20歳までの長さが60%、20歳以降が40%となる。
私はそんなところかな、と思うがどんなものだろうか?

また、小さい頃の方の体験の方が強烈な記憶となって残ることが多い。
歳を重ねるに従い、体験の総量自体も増えてきて、個別の体験のウェイトが小さくなるということもあるだろうが、体験の時間の長さの差異と考えることもできるだろう。

同じ感覚の時間を体験するのに、歳をとってからだと余計に時間が必要だということにもなる。
過ぎてしまったものはどうしようもないが、これからの時間を大切にしなければならない、と改めて思う。

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2007年12月28日 (金)

当麻寺…⑤秋櫻子(3)

秋櫻子と虚子の俳句観の差異は、客観と主観についての考え方の差異が軸になっているといえよう。
写生には、本来的に作者の心すなわち主観が入っているはずである。
客観写生というように、ことさらに客観という言葉を強調する場合、主観はどう位置づけられるのか?
芸術的表現の根底には、主観性が不可欠ではないのか?
俳句を叙景詩としてのみ考えるならば別として、叙情詩として捉えるならば、主観の果たす役割を無視できないだろう。

しかし、主観の部分をを評価することは難しい。
初学者は細部の観察を先ず重視すべきであって、それに関する主観に重きを置くと混乱する可能性がある。
だから、教育の方法論として、客観を強調することは容認できる。
しかし、芸術として人を感動させる作品を生み出そうとすると、客観写生がどこまで力を発揮できるのか?

俳句のように、極端に短い定型詩では、表現の型が定まり易い。
例えば、上五の音節を「や」で切り、下五の音節を名詞で止めるなどである。

古池や蛙飛び込む水の音
荒海や佐渡に横たふ天の河

これらは、上記の「や」+名詞止めのパターンである。
しかし、型に嵌った表現は、往々にして作者の心を表現する際の桎梏となる。
「型」化することは、個性から離れることである。
没個性の「型」をどう破るのか?

秋櫻子は、ホトトギスから独立するに際して、「自然の真と文芸上の真」と題する文章を書いて、「馬酔木」に載せた。
虚子の唱える客観写生に対する決別宣言ともいうべきもので、秋櫻子による要約を引用すれば、以下のような内容であった。

主観がうすれて、植物の形態の如きものを詮索してゐる客観写生を排撃し、かがやかしい主観を句の本態としなければならぬといふことであつた。心が澄むに従つて、眼に映る自然の美しさも深くなつて来る。主観を軽んじ、心を捨てて客観写生をしたところで、眼に映るものは自然の表面の美にすぎないのである。それを例証するために素十の句をあげ、みづほ・今夜の句修業漫談を引いて論をすすめた。文中虚子の名を書かず、虚子の説話の引用は避けたが、目指すのは虚子の主張を駁することであつた。

秋櫻子が「ホトトギス」を去った1931(昭和6)年12月、虚子は「ホトトギス」誌上に、『嫌な顔』と題する短編小説を発表した。
織田信長が越前の門徒宗の一揆を征伐した際に捕らえた栗田左近という侍の話で、左近はもともと信長の家臣だった。
信長への進言が容れられず、嫌な顔をして信長の前を引き下がり、やがて門徒宗の一揆勢に加担して、信長に反旗を翻した。
信長は、光秀、秀吉に命じて、左近を捕らえさせ、「お前が逐電したのは愚かなことだ」と諭すと共に、「左近を斬ってしまえ」と部下に命じる。

この左近が秋櫻子を準えたものであることは明らかで、「斬ってしまえ」と断罪するところは虚子の凄みとも言える。
翌年「馬酔木」1月号に、『織田信長公へ』と題する文章が掲載される。

如何に大衆文芸なりと申せ、全然空想の作物は近頃流行仕らず、ここは矢張り写生的に御取材遊ばさるる方、拙者退身の史実も明らかとなりてよろしかならんかと、一応愚見開陳仕り候。御作御発表の上、又何かと御糊塗なされ候点を指摘仕るべく候。何はしかあれ、日頃の御寛仁にも似ず、身づから馬を陣頭に進め給ひしこと、弓矢とる身の面目これにすぎたることはなく、暑く御礼申上候。
恐惶謹言。生きている左近
織田右府どの

虚子の文章を大衆文芸といい、「斬ってしまえ」にも拘わらず、「生きているぞ」という辺り、秋櫻子の度胸も座っている。

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2007年12月27日 (木)

当麻寺…④秋櫻子(2)

仁平勝さんは、前掲『俳句のモダン』において、1930(昭和5)年に刊行された秋櫻子の第一句集『葛飾』の序文で、秋櫻子自身が、「多くの人々から万葉調と呼ばるゝに至つた」とする句風について、次の句を抽出して論じている。

葛飾や水漬きながらも早稲の秋
梨咲くと葛飾の野はとの曇り

どこが万葉調なのかというと、先の句では、すなわち「水漬き」という言葉があるからだ。「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」という大伴家持の歌がすぐ浮かぶが、こんな言葉はそれこそ万葉集の時代にしか使われていないのではないか。そうした古語をつかうことが、この句のオリジナリティということになる。
後の句では、やはり「との曇り」が万葉集に出てくる言葉で、……

しかし、それは秋櫻子のオリジナリティではあっても、「主観」の表現であるのかどうか、と仁平さんは問う。
作者の知識ではあっても、作者の心とはいえないだろう、と。

秋櫻子は、1925(大正14年)頃から、俳句表現における革新を試みはじめた。
それは、俳句に「調べ」を導入しようとすることによって行われた。
秋櫻子は、「朝の光」という歌誌に参加するなど、俳句のみならず短歌にも傾倒していた。
「朝の光」の指導者だった窪田空穂が「調べ」という言葉をよく口にしていた。
言葉のひびきや音の連なりであり、秋櫻子は、そこに俳句表現の新しい可能性を感じ、俳句革新の方法論として導入しようと試みた。

どうしたら「調べ」を俳句に導入できるか?
朋友の山口誓子らと共に、『万葉集』等について研究し、万葉作品中の古語やリズムを俳句へ用いた。
つまりは、秋櫻子における「万葉調」である。
秋櫻子の『当麻寺の記憶』によれば、二度目に当麻寺に行ったのは、昭和13年4月末のことで、牡丹の盛りを見ることが目的だった。
自宅の病院を経営していたが、典医の仕事や昭和医専の仕事で、一番忙しい時代だった。
夜行で出かけて夜行で帰るにも、無理をして日程をやりくりしなければならなかった。

その日は好天気で、二上山がくっきりと聳え、上空には片雲も浮かんでいない。
当麻寺の駅は非常に混雑していて、駅から寺まで人の行列だった。

牡丹咲き塔頭に光りあふれたり

塔頭の庭に咲く牡丹の花は満開で、光が塔頭の庭にあふれるばかりだった。
庭は築地垣に囲まれているが、垣は低く、寺苑を通る人は花を見ることができる。

牡丹咲く炎に低き築地あり

牡丹の上に寺の甍がなだれて見える。
牡丹も堂も立派だった。

牡丹燃え甍のなだれ眼にせまる

奈良は、秋櫻子にとって、作句の素材の場であると同時に、表現の方法を鍛える場でもあったといえよう。

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2007年12月26日 (水)

当麻寺…③秋櫻子

水原秋櫻子に『当麻時の記憶』と題する文章があり、小学館版『当麻寺/古寺を巡る40号』(0711)に採録されている。
秋櫻子は、1892(明治25)年に神田の産婦人科医院に生まれた。
初めて奈良を訪れたのは、1911(明治44)年8月のことで、母からの第一高等学校への入学祝だったという。
東京帝国大学医学部を卒業し、昭和医専の教授になり、家業を継ぐと共に、宮内庁の典医になって多くの皇族の子供を取り上げた。
東大在学中から俳句に取り組み、大正末期の1924年から「ホトトギス」に参加。
昭和初期には、山口誓子、阿波野青畝、高野素十と共に、頭文字をとって「4S」と呼ばれた。

秋櫻子が奈良に惹かれたのは、和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んでのことである。
和辻の文章が秋櫻子を虜にし、読了した日から「ものさびた大和路の古寺と、その金堂にひかり輝く仏像が、私の眼の前から去らなかった」と、ホトトギス時代を語った『高浜虚子』という著書に書かれている。
「ホトトギス」でエース級の活躍をしていた秋櫻子は、客観写生と唱える虚子やそれを支持する素十と作句観を巡って対立し、1931(昭和6)年に「ホトトギス」を脱退して独立する。
1934(昭和9)年には、主宰誌の「馬酔木」を創刊し、「ホトトギス」に対抗する新興勢力の拠点となった。

秋櫻子が「ホトトギス」を脱退した理由は、仁平勝『俳句のモダン』五柳書院(0212)によれば、以下の通りである。

ホトトギスには「客観写生」といふ標語があった。
……
まづ客観写生を修練させるといふ教育法はよいのであるが、ホトトギスに於てはいつまで経つても客観写生の標語だけが掲げられていて、そのさきの教育はなかつた。つまりどこまでも大衆教育であり、凡才教育であつて、その中から傑れた作者を出さうといふ教育ではなかつた。

つまり、秋櫻子は、高浜虚子が、みな一様に大衆教育、凡才教育の対象とみることに対し、大衆とは異なる存在として自覚している自身が満足しなかったということだろう。
さらに、虚子自身は、必ずしも客観写生の領域に留まっているわけではないのに、「ホトトギス」同人たちは、異を唱えることなく従っていることにも不満だったはずだ。
もちろん、教育の方法論と先端の実作の方法論が異なることは、秋櫻子も認識していたであろうが、その認識を曖昧なままにしておくことは、秋櫻子にとって耐え難いことだったのだろう。

上記『当麻寺』の「解説」によれば、1927(昭和2)年に、虚子が松山へ行った帰途、京都に10日間ほど滞在するということで、俳句仲間が京都へ行こうと誘ってくれた。
京都で吟行することは、俳句を志す者にとっては願ってもない機会だろう。
秋櫻子も、夜汽車に乗って京都に向かったが、一行から離れ、そのまま奈良に足を向けたという。
そのときに真っ先に向かったのが、当麻寺だった。

当麻寺は、牡丹の寺として有名である。
各塔頭をあわせると数千株におよび、長谷寺に匹敵する。
また桜も見事で、桜・牡丹ともにその満開の時期には、中将姫のおわす極楽浄土もかくやという雰囲気となる。
秋櫻子の第一句集『葛飾』には、次の句がある。

牡丹の芽当麻の塔の影とありぬ

当麻寺は、東西双塔の寺としても知られている。
秋櫻子は、大和吟行によって句境を広げたが、それは虚子から離れていく要因の1つとなった。
後付けかも知れないが、京都で下車しなかったことがそれを暗示しているように思える。

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2007年12月25日 (火)

当麻寺…②小林秀雄

小林秀雄に『当麻』という小品がある。
昭和17(1942)年4月号の「文学界」に発表された。
小林秀雄は、昭和4(1929)年、雑誌「改造」の募集した懸賞論文に『様々なる意匠』を以て応募した。
自分の1位当選を確信していて、それを材料に借金を重ねていたという逸話が残っている。
審査の結果は、小林の思惑と異なり、1位には宮本顕治の『敗北の文学』が選ばれた。
昭和2(1926)年に自殺した芥川龍之介を論じた作品である。

余談ではあるが、宮本顕治も今年の7月18日に物故した。
戦前・戦中の12年間を獄中で過ごし、少なからぬ転向者を出した戦前からの指導層の中で、信念の強さが際立っていた。
そのことが共産党内でのカリスマ性を高め、戦後40年にわたって日本共産党の最高指導者の位置を維持した。
対立分子を容赦なく除名処分して「宮本独裁体制」を築き上げた手法は、外部から見るといささか馴染みにくいものではあるが、革命政党としては当然のこととも言えよう。
それにしても、今の時点で振り返ってみれば、「改造」の懸賞論文は随分豪華な応募作品に恵まれたことになる。

ともあれ、『様々なる意匠』によって、小林秀雄は商業文壇へのデビューを果たした。
同時に、それは、小林の「近代批評」宣言でもあった。
文芸批評が、個人の嗜好の押し付けか、マルクス主義等の公式の適用かのいずれかでしかなかった状況に対し、文学が言葉による自意識の表現であることを確認し、批評もまた批評する者の自意識の表現でなければならない、と論じたのだった。

批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であつて二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!

小林秀雄には、直観的・天才的な印象を受ける。
しかし、厳しい自己鍛錬の結果獲得し得た天才だったと考えるべきだろう。
文壇デビューを果たしてから、「文藝春秋」や「東京朝日新聞」などに文芸時評を執筆した。
しかし、時評という枠の中で、何ほどの「己れの夢を懐疑的に語る」ことができるであろうか?
昭和10(1935)年の1月から、「文学界」に『ドストエフスキーの生活』の連載を始める。
文学・芸術の天才を対象とすることで、「己れの夢を懐疑的に語る」ことを芸術として確立させることの試みたのだった。

昭和16(1941)年、東亜・太平洋戦争が始まる。
小林秀雄は、文芸時評と手を切り、陶器や仏画など、古美術の世界に沈潜する。
「文学界」に連載した『当麻』『無常といふ事』『徒然草』などは、日本の古典をフランス文学で鍛えた批評眼を以て論じた作品である。
中でも、『当麻』は、この時期における小林秀雄の代表作の一つとして位置づけられるだろう。
世阿弥の芸術論に託して、彼の芸術認識を語ったものだ。

梅若の能楽堂で、万三郎の当麻を見た。
僕は、星が輝き、雪が消え残った夜道を歩いてゐた。何故、あの夢を破るような笛の音や大鼓の音が、いつまでも耳に残るのであらうか。
……
してみると、自分は信じてゐるのか、世阿弥といふ人物を、世阿弥といふ詩魂を。突然浮んだこの考へは、僕を驚かした。

能の世界のことはよく知らない。
しかし、能の世界における中将姫の姿を通じて、人間の観念(つまりは、「様々なる意匠」)を裁断しているように思える。

音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになつて了つてゐる。そして、そういうものがこれでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えず囁いている様であつた。音と形との単純な執拗な流れに、僕は次第に説得され征服されて行く様に思へた。最初のうちは、、念仏僧の一人は、麻雀がうまさうな顔付きをしてゐるなどと思つてゐたのだが。

中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出でた花の様に見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。僕は、かういふ形が、社会の進歩を黙殺し得た所以を突然合点した様に思つた。要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつく事ができただけなのだ。あの慎重に工夫された仮面の内側に這入り込むことは出来なかつたのだ。世阿弥の「花」は秘められてゐる、確かに。

世阿弥が美といふものをどういふ風に考へたかを思ひ、其処に何の疑はしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし」。美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない。肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいヽ、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はさう言つてゐるのだ。

全文を書き写してもいい程度のボリュームであるが、多くの批評家・評論家が、戦争追随的文章を発表していた時代、古典と格闘して自らの認識力を鍛える道を択んだ小林秀雄は、やはりホンモノだったと思わざるを得ない。

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2007年12月24日 (月)

当麻寺…①二上山

小学館から「古寺を巡る」というシリーズが週刊で刊行されている。
11月20日発行の第40号は、「當麻寺」である(以下「当麻寺」)。
中将姫(8月29日の項)の伝承で知られる古刹だ。
毎年、5月14日には、中将姫が生身のまま往生したという伝説を再現する「練供養:聖衆来迎練供養会式」が行われ、賑わいを見せる。

練供養は一種の野外宗教劇で、25菩薩らの聖衆が来迎し、姫を極楽浄土へ導くさまを演じる。
午後4時ごろから「お練り」が始まり、中将姫が極楽往生を遂げる様子が再現され、観客は宗教的な高揚感に浸る。
姫が極楽往生を遂げようとする頃に、日は西に傾いて、二上山に沈んでいく。
この山の向こうには、西方極楽浄土があると信じられていた。

二上山の南の竹内峠を、わが国最古の国道と呼ばれている竹内街道が通っている。
難波から南下し、堺市で東に折れ、竹内峠を越えて飛鳥に入る。
遣隋使や遣唐使、あるいは中国や朝鮮半島から先進の文物を携えた渡来人も通った道である。
二上山の山頂には、天武天皇の子で謀反の疑いをかけられ自害させられた大津皇子の墓がある。

大津皇子は大海人皇子(天武天皇)の子であったが、大津宮では天智天皇に愛されて育った。
風格も優れ、言語明朗、漢詩文を好むなど学問好きで、成長するに従い、才能を開花させていった。
特に文筆に秀でたものがあったという。
大津皇子が21歳になった時、初めて「朝政を聴こしめす」と『日本書紀』にある。
天武天皇政権の中心的な立場に立って、政治の指示を出す役割を持っていたと推測される。

2_2天武天皇が崩御した翌月、川島皇子の密告によって謀反の疑いをかけられ、翌日に訳語田の家で自害させられた。
24歳の若さであった。
鵜野讃良皇后(後の持統天皇)が、自分の実子の草壁皇子を次の天皇にするためにはかったことだとも言われているがるが謎が多い(8月31日の項9月1日の項)。
草壁も皇位に就くことなく2年後には亡くなっている。
この世のことは夢幻である。

大津皇子の妃の山辺皇女が、裸足で髪をふり乱して駆けつけ同日殉死したと伝えられている。
大津皇子の墓所は不明であるが、姉の大伯皇女が次の歌を残していることから、二上山に葬られたと推測されている。

うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を弟背と我が見む

折口信夫は、中将姫の伝承と大津皇子の悲劇を結びつけて、『死者の書』という不思議な書を書き上げた(8月28日の項)。
二上山に沈む夕陽を愛する古代史ファンは多い。

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2007年12月23日 (日)

血脈…③万世一系

天皇誕生日である。
現行憲法は、第一章「天皇」であって、天皇について冒頭で次のように規定している。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
第2条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

そして、「国会の議決した皇室典範」は、第一章の「皇位継承」において、皇位について次のように定めている。

第1条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
第2条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。

 1.皇長子
 2.皇長孫
 3.その他の皇長子の子孫
 4.皇次子及びその子孫
 5.その他の皇子孫
 6.皇兄弟及びその子孫
 7.皇伯叔父及びその子孫

2 前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。
3 前2項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。

男性皇族が40年誕生していなかったため、若い男性皇族が不足し、皇位継承に支障を来たす恐れがあることから2004年12月27日に「皇室典範に関する有識者会議」が、当時の内閣総理大臣であった小泉純一郎氏により設置された。
2005年11月24日に、有識者会議は、皇位継承に関する報告書を提出した。その骨子は以下の通りである。

・女性天皇及び女系天皇を認める
・皇位継承順位は、男女を問わず第1子を優先する
・女性天皇及び女性の皇族の配偶者も皇族とする(女性宮家の設立を認める)
・永世皇族制を維持する
・女性天皇の配偶者の敬称は、「陛下」とする
・内親王の自由意志による皇籍離脱は認めない

女性天皇及び女系天皇を認めるということで、現行の皇室典範を大きく変更しようとするものであった。
しかし、秋篠宮妃の懐妊が報告されると、男児誕生の場合には、第3位の皇位継承資格を有することになるので、皇室典範改正論議は封印された。
2006年9月6日には、秋篠宮家に悠仁親王が誕生し、有識者会議での論点そのものが解消したわけではないにも係わらず、皇位継承論議はとりあえず沈静化した。
しかし、この論議の過程で、天皇家の血脈について、改めて関心が高まったことは事実である。

皇位継承に関しては、「万世一系」ということがいわれることが多い。
皇統の一貫性や天皇制の永続を主眼とする思想であり、日本は、初代天皇とされる神武天皇から現在に至るまで、王朝が断絶することなく、一貫して天皇家によって統治されてきた、とする史観である。
皇室典範改正論議において、女系天皇が容認されそうな雰囲気になってきたとき、「神武天皇のY染色体」を継承することが重要なのであって、女性天皇は事例があるが、女系天皇は日本の歴史には存在しない、というような議論が登場した。

Y染色体などというといかにも科学的な認識に基礎を置いたような議論であるが、この議論がナンセンスであることは、皇国史観においてすら、「皇祖」は神武天皇ではなく天照大神であったこと、つまり「万世一系」は、神武以来ではなく天照以来であったことからも明らかである。
「Y染色体」による男系の継承などと言っても、神武の父、さらにその父、さらにその父と辿っていけば際限のない話である。

私自身は、歴史的事実として、第26代の応神天皇の5(あるいは6)世の孫とされる継体天皇、壬申の乱、南北朝時代などにおいて、「万世一系」とはいえないだろうとと考えるものである。
そして、そもそも天皇制を守るべき根拠が、「万世一系」というような「血」であるならば、そのこと自体が意味のないことではないかと思う。
親から子へ遺伝するものは確かに実在すると思うが、男系で継承されるものが仮に50%であったとしても、7代を経れば1%未満になってしまうことになるのである。

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2007年12月22日 (土)

漢字と図形

漢字は象形文字として生成したから、漢字に図形性が備わっているのは当然であろう。
図形の特性は、全体を一目で理解できるということである。パッと見てパッと分かる。それが図形である。
プレゼンテーションなどにおいて、図解の重要性がいわれることが多いが、相手に伝達するうえで、図で示すことが効果的であるからである。

しかし、図解することは、相手への伝達において有効なだけではない。
自分自身の理解と思考を深化させることにも役に立つ。
というよりも、自分自身が理解と思考を深化できることが、相手の理解を容易にすることに繋がるのだろう。
ビジネスの場では、「見える化」という妙な日本語が主張されている。
企業には(だけではないが)、実にさまざまな問題が日々生起している。
「見える化」とは、状況を常に見えるようにしておくことで、問題が発生してもすぐに対処できる環境を実現すると共に、問題が発生しにくい環境を実現するための取り組みのことである。
ローランド・ベルガーというコンサルティング・ファームの遠藤功さんが、『見える化-強い企業をつくる「見える」仕組み』東洋経済新報社(0510)を出版してからブームになった。

その漢字の欠点だと考えられていたのが、タイプライターがないことであった。
もちろん、漢字の活字を配列した邦文タイプライターは考案されていたが、それは特殊な技能に属する機械であった。
誰もが操作できる、あるいはブラインドタッチが可能な漢字のタイプライターは、実現不可能だと考えられていた。
システム工学の権威者として知られた渡辺茂東京大学教授は、1976年に刊行された『漢字と図形』(NHKブックス)の中で、「(英文タイプに匹敵する和文タイプは)できる道理がないのである」と言い切っている。

その隘路をかな漢字変換によって打開したのが、元東芝社員の天野真家氏らのグループであった。
日本人が使用するすべての(多分)パソコンに、かな漢字変換機能がバンドルされている現状を見れば、その発明の社会的影響は、青色LEDに比べても遜色ないのかも知れない。
天野氏が提起している職務発明の対価は、2年度分として2億6000万円とのことであるが、私は、総額で10億円程度までの金額ならば、職務発明の相当対価として認めるべきではないかと思う。

もっとも、天野氏も現在は湘南工科大学教授という立場にあり、そのポストに就くについては東芝時代の発明も大いに与っているのだろうから、その辺りをどう考えるかという問題はある。
しかし、私は特許法35条の規定がある限り、処遇とは別に相当対価は支払われるべきだと思う。
かな漢字変換機能は、日本の漢字文化に新しいフェーズをもたらした。

図形といえば、マンガやアニメが、日本を代表するサブカルチャーとして、世界の若者を魅了しているらしい。
昨年の4月、イタリアの大手紙「ラ・レパプリカ」が発行している雑誌「XL」に、Julie(ジュリ)さんの写真集『SAMURAI GIRL』が4ページにわたって取り上げられた。
マンガやアニメの登場人物のコスチュームを身に纏った写真だという。

ジュリさんは、マンガ家を志望して芸術系の大学に進学したものの、思っていたような勉強ができず、中退してフリーカメラマンの生活を送っていた。
作品がイタリア人編集者の目にとまり、イタリアで日本の写真集を作ってみないか、と誘われた。
「日本らしさ」というテーマを与えられ、イタリアに移住してみたところ、日本のマンガやアニメの浸透ぶりに驚いた。

京都精華大学には、マンガ学部がある。
学部長の牧野圭一さんは、日本のマンガが世界の若者を魅了する根拠を、「漢字」と「八百万の神々」という日本固有の文化の帰結だと説明する(産経新聞071209)。
「重」という漢字には、「かさねる」「おもい」「え」「ジュウ」「チョウ」などの読み方があるが、日本人はそれを文脈から瞬時に判別する。
それは、1コマのマンガから、パッと意味を読み取り、自由にイメージをふくらませることに通じる、という。

また、森羅万象に神が宿り、それを自由に造型したり、擬人化したりする風土が、ストーリーやキャラクターの自由な表現を可能にしているという。
偶像崇拝を禁止する一神教では、そういう文化は生まれにくい。
八百万の神々を崇める精神は、外来の文化を許容し、受容する。
それが多様なストーリーが生まれる素地になっている、という説である。

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2007年12月21日 (金)

漢字の歴史

漢字は豊かな情報伝達力を持っている(12月14日の項)。
それは漢字が図形性と歴史性とを持っているからであろう。2_6

漢字は世界で最も長い歴史を持つ文字である。また、使用されている範囲が広く、使用者の数も多い。
漢字の起源について見てみよう。
今から約6000年前と推定される半坡遺跡で、50種ほどの符号が発見された。
一定の規則性があり、文字としての特徴を持っている。これが、漢字の萌芽である可能性が高いと見られている。
2_2

漢字が系統的な文字になるのは、紀元前16世紀の商の時代の甲骨文字だとされる。
甲骨文字は、亀の甲や獣の骨に刻まれた古い文字のことで、商の時代に国王が占いをするときの道具だとされる。
甲骨は使う前に、甲骨の上についている血や肉を取り除く。
それを磨いてから、甲の裏か、骨の裏に刃物で文字を刻んだ。
これら刻まれたものの排列も順序があって、占いをする人や巫術を行う人は、自分の名前と占いの期日、また聞きたいことをすべて甲骨に刻んで、火で焼く。
熱を受けて、甲骨に出た裂け目は、「兆」といい、巫術を行う人は、裂け目の裂け方を分析2_8し、占いの結果を出し、それに占いが当たるかどうかもいっしょに刻む。
もし占いが当たったら、この甲骨は政府当局の文献として保存された。

今まで、考古学の専門家は、あわせて甲骨16万枚あまりを発見したという。
甲骨に刻まれている文字は、計4000字余り
あって、その中の1000字あまりが学者たちによって解読された。
この
1000文字から、人々は商の政治、経済、文化などの情況を知ることができる。
甲骨文字は系統的な文字で、商の後の漢字の発展の基礎となった。
この後、漢字は、銅銘文(金文)、小篆、隷書、楷書などの変化を通して、字体が規範化・安定化し、現在まで人々に使用されてきた。

楷書が誕生して、「横、縦、撇、点、捺、挑、折」という基本の筆画が定められ、字体の安定化が進むと共に、書き方の規範化も進んで、各文字の筆画数と筆順も定められた。
漢字は、約10000字あり、そのうち通常よく使われるのは、3000字ぐらいであるという。
この
3000字あまりの漢字が、数え切れないほどの単語を構成し、さらにさまざまなセンテンスを構成できる。
漢字の誕生と普及は、中国のみならず東アジアを中心に、世界の文化の発展に大きな影響を与えた。

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2007年12月20日 (木)

職務発明対価私見

宿命的な資源小国という背景をもとに、技術立国はわが国の国是ともいうべき位置を占めている。
その中で、知財戦略が、国としても企業としても大きな意味を持つことは否定できないだろう。
職務発明の相当対価の判断の問題はその1つの焦点と思われる。

ここで問題としなければならないのは、発明と事業化との間に存在している径庭についてである。
個人的な体験としても、事業化の難しさは一再ならず体験している。
実に魅力的なシーズであっても、事業化するまでには多くのバリアを乗り越えなければならず、そのすべてをクリヤすることは容易ではない。
開発フェーズよりも事業化フェーズの方が何倍も難しいというのが実感である。

ソニー創業者の井深大さんも次のように言っている。

開発に成功するまでに1のエネルギーが必要だとすれば、商品の試作に10倍、商品化に100倍、最終的に利益出るまでに1000倍はかかる。

また、青色LEDに関して、日亜化学の事業化リーダーだった小山稔さんは、『青の奇跡―日亜化学はいかにして世界一になったか』白日社(0305)で、 「自分の貢献度は発明者中村に匹敵するものではない」としながら、以下のように語っている。
「洩れてれて困るノウハウは生産現場の方に蓄積されていた」
「中村は現場での、さまざまな細部における真の進歩に気がついていない」
「研究開発に注がれたエネルギーの100倍、いや1000倍に相当するパワーが費やされて、今日に至った」
32_2
事業化の成功までのフェーズを、次のように3段階に分けて考えてみよう。
井深さんと小山さんは、「発明」と「会社の成功」との間のエネルギーやパワーの比率を1000倍と表現しているわけである。
1000倍というのは一種の比喩表現であるとしても、発明を大きく育てるのに、発明の倍のエネルギー・パワーを要し、さらにそれを会社の成功とさせるのに倍のエネルギー・パワーを要するとすれば、発明フェーズの貢献度は、1/8程度ということになる。
発明フェーズにおける中村修二氏の貢献度を50%とすれば、事業化のプロセス総体として中村氏の貢献度は1/16程度ということになり、配分総額を西村さんの推計による169億円とすれば、中村氏の受けるべき相当対価は10億円程度ということになる。

私は、企業内技術者が職務として行った発明に対しては、どれほど大きな経済効果をもたらした発明であったとしても、その程度の金額で十分ではないかと思う。
研究者のインセンティブは、もちろん金銭のみではない。
中村氏は、個人的には発明の果実として、カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授としての立場を得てもいるわけである。
そして、どうせ有効数字1桁程度の計算しかできず、しかもそのパラメーターの設定にも主観が入り込むことが避けられないとしたら、おおよその目安になる計算をした上で、ある程度社会的に容認される金額を設定するしかないように思う。

知財戦略の論議で気になることは、大学の果たすべき役割についてである。
知財戦略の重要な要素として、大学における特許重視が謳われ、主だった大学には、TLOが設置されている。
TLOとは、Technology Licensing Organization(技術移転機関)の略称で、大学の研究者の研究成果を特許化し、それを民間企業等へ技術移転(Technology Licensing)する法人である。
産と学の「仲介役」の役割を果たす組織で、技術移転により新規事業を創出し、それにより得られた収益の一部を新たな研究資金として大学に還元することで、大学の研究の更なる活性化をもたらすという「知的創造サイクル」の原動力として産学連携の中核をなす組織として位置づけられている。

私は、産学協同が可能な分野は、大いに共同すればいいと思うし、大学での研究成果を産業界で生かすことも積極的に推進すればいいと思う。
しかし、大学の本来の存在理由は、実用研究にあるわけではないだろう。
大学は研究と教育の場であって、結果として産業への活用が行われるという立場で考えるべきではないのだろうか。
大学の評価を、直接的に産業に役立つかどうかという視点だけで行うことは問題である。
近視眼的に産業との結びつきを追うことは、より大きな成果を逃す結果になるのではないかと考える。

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2007年12月19日 (水)

西村肇さんの考え方

青色LEDの「404号特許」をめぐる裁判で、一審の判決と控訴審の和解勧告との間に大きなギャップがあったことは、特許の経済的価値判断の難しさを示すものといえる。
控訴側と被控訴側の双方が和解に応じたため、相当対価の司法判断は確定しなかったわけであるが、組織内における貢献度評価の問題は、職務発明の問題に限らず、成果主義的評価全般の問題である。
例えば、野球などの団体スポーツにおける個々の選手の貢献度をどう評価すべきなのであろうか?
投手と野手、あるいは守備と攻撃など、異なる立場での成績を、金銭という一元的な評価に還元する客観的な方法はありえるのだろうか?

日本の企業は、多くの場合、ゲマインシャフト(共同体的人間関係)として運営されてきた。いわゆる日本的経営である。
成果主義を標榜する多くの試みが失敗しているのは、ゲマインシャフトの論理で動いている現実に、ゲゼルシャフト(ルールと契約関係による人間関係)の建前を持ち込もうとしたことにあるのではないか、と思う。
私自身は、ゲマインシャフトを抜け切れない人間であるが、おそらくは、日本の企業もゲゼルシャフト的運営に移行していかざるを得ないのだろう。

組織における貢献度評価の問題に関して、論理的なアプローチを試みた稀有の例が、西村肇さんの『人の値段 考え方と計算』講談社(0410)である。
西村肇さんの略歴とプロフィールは以下の通りである

1933年  東京生まれ、満州育ち
1957年  東京大学機械工学科卒業
1966年  東京大学工学部化学工学科助教授
1980年  東京大学工学部教授
1993年  東京大学名誉教授
        研究工房シンセシス設立、主宰
http://www.nhk.or.jp/bsdebate/0502/guest.html

西村さんは、貢献度評価の方法論を次のように示す。
2_2
つまり、あらかじめ貢献度として評価すべき要素を洗い出し、その重み付けを行っておく。
その上で、組織の中の個人が果たした役割を定量化する。

青色LEDの場合、要素は、青色LEDの開発に係わる発明群が、実際の事業化に関してどのような重みを持っているか、である。
日亜化学の場合、この裁判の辞典で、関連する特許は800件以上出願され、202件が登録されていた。
中村修二氏の業績評価に否定的なテーミス編集部編『青色発光ダイオード―日亜化学と若い技術者たちが創った』テーミス(0403)では、「404号特許」の価値を、単純に1/800もしくは1/212としているが、それでは重み付けをしたことにはならない。
西村肇さんは、出願あるいは登録されている特許の中でも、基本特許は限定されているとし、「404号特許」の他に3件を抽出し、「404号特許」と他の3件が50%ずつの重みを持つとした。
その上で、「404号特許」に関しては中村氏が独力で開発し(貢献度100%)、他の3件については中村氏の貢献度は、4/8もしくは5/8と見積もった。
上記とすれば、中村氏の全体としての貢献度は以下のようになる。
<1/2+4/8×1/2=12/16=75%>or<1/2+5/8×1/2=13/16=81%>

詳細な計算の紹介は省くが、西村さんは、青色LEDの事業化によって日亜化学の得た利益の275億円から自己資本コスト46億円と研究開発投資危険負担コスト60億円を差し引いて、配分すべき利益の総額を169億円と算出した。
これを、発明者、事業化リーダー、オーナー経営者で配分すべきであるとし、その比率を2:1:1として、中村氏の受け取るべき対価を以下のように算出した。
169×2/4×0.8≒70(億円)

可能な限り精緻な議論をしたところで、随所で大胆な仮定を置かざるを得ないわけである。
西村さんは、もともと有効数字1桁の議論だと言っているのだから、問題は、70億円を是とみるか、60億円以下とすべきと考えるか、80億円以上とすべきと考えるか、ということになる。
金額の是非はともかくとして、貢献度評価の問題に関して、定量的なアプローチを公表した西村さんの試みは評価すべきであろう。

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2007年12月18日 (火)

控訴審の判断

青色LEDに関する「404号特許」をめぐる中村修二氏と日亜化学の争いにおいて、東京地裁は、2004年1月30日、「404号特許」の相当対価を604億円と算定し、中村氏が請求していた200億円を支払うよう判決を下した。
これに対し、日亜化学は、判決を不服として即日控訴した。
東京高裁は、2004年12月24日、この訴訟に対して和解勧告を行った。

東京高裁は、和解に際して、「和解についての考え」を示した。
その中で、「被控訴人(中村氏)のすべての職務発明に関し、特許を受ける権利の譲渡の相当対価について、和解による全面的な解決を図ることが、当事者双方にとって極めて重要な意義のあることであると考える」とした。
東京高裁のコメントは、中村氏側が、「404号特許」の次に、他の特許についても訴えるとしていたことに対し、将来の紛争も含めた全面的な和解をするための勧告をするのだ、ということを示したものである。
つまり、中村氏と日亜化学との訴訟を完全に終結させることを意図したものであり、その限りでは、産業の健全な発展の見地からして好ましい判断だといえる。
しかし、その和解勧告の内容は果たして妥当なものなのだろうか。

東京高裁は、青色LEDなどの発明には、「404号特許」以外に、いくつかの重要なあるいは有力な特許が存在することを認め、他の特許を評価しなかった一審の判断と大きく異なる判断を示した。
それらの詳細は余りに技術的になるので割愛するとして、これらの特許も含め、中村氏が発明者として名前を残す全特許に関してまとめて相当対価を計算した。
その結果は、全特許に対して、相当対価は6億857万8801円と算出した。
ここでも、円単位の計算をするところが、厳密なようではあるが、事実上意味のないことはいうまでもない。

計算上の変数は、実施料率と貢献度である。
東京高裁の和解勧告では、実施料率を1994~1996年は10%、1997~2002年は7%とした。
一審では1994~2010年にわたり20%としていたのと大きく異なる判断である。
また、全特許に対する中村氏の貢献度は、1994~2002年の間で5%と判断した。
一審では、日亜化学の得た利益に対する中村氏の貢献度は、50%を下回らないとされていたのだから、1/10の評価ということになる。
この評価基準を基に「404号特許」だけの相当対価を算出すると、最大で1010万円というのが、日亜化学側の弁護士の意見であった。
とすると、
1010:6040000≒1:6000
ということになり、一審と控訴審で、「404号特許」の価値は6000倍の開きがあると判断されたことになる。

日亜化学は、一審での結果を踏まえ、裁判官に分かり易い説明を心掛けたという。
また、一審については、法律の専門家、当該分野の研究者・メーカー等から、特許の効力の判断に異論が提出されていた。
また、日亜化学の他の研究者や技術者の貢献も指摘されていた。
和解案は、一審の評価を6000分の1に減じたとみることもできるし、金額でみれば、604億円が6億円になったのだから、100分の1に減額された、とみることもできる。
しかし、裁判開始前は、中村氏には2万円しか支払われていなかったといわれており、その点を勘案すれば、結果的に損害遅延金を含め、8億円超になるまでになったのだから、4万倍の評価を得たいうこともいえる。
いずれにしろ、青色LEDのように大きな経済効果をもたらした職務発明をどう評価すべきか、難しい課題であることは間違いない。

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2007年12月17日 (月)

東京地裁の判断

中村修二-日亜化学の青色LEDの職務発明対価をめぐる裁判において、一審の東京地裁と控訴審の東京高裁の判断は大きく分かれた。
東京地裁は、先ず青色LEDの1997年~2010年までの売上総額を推計し、これを1兆2086億127万円とした。
これに、売上高利益率をかければ、日亜化学の得るであろう利益が算出される。
例えば、利益率40%ならば、1兆2086億円×0.4≒4800億円になる。
しかし、東京地裁はこのような方法によらず、以下のように利益を計算した。

日亜化学が特許を独占せずに、実施料20%で他社に実施権を認めた場合、日亜化学の得る利益は、
1兆2986億127万円×0.2×0.5=1208億6012万円
0.5を乗じているのは、予見できる将来の販売量のうち、実施権を他社に認めた場合、半分が他社に移るという考え方である。

この論理に対し、システム工学の専門家で、東京大学名誉教授の西村肇さんは、『人の値段 考え方と計算』講談社(0410)で、理系の立場から辛辣な批判を行っている。
批判の第一点は、有効数字に対する感覚である。
工学においては、用いる数値は多くの場合測定値であって、測定方法・手段によって規定される精度がある。
つまり、測定誤差を含んでいることが前提であり、意味を持つ桁数を有効数字と呼んでいる。
例えば、3cm程度の長さのモノの長さを測る場合、物差しで測るかノギスで測るかレーザーで測るかによって、1mmの誤差で測れるのか、0.1mmの誤差で測れるのか、0.01mmの誤差で測れるのかが変わってくる。

つまり、利益率40%とか、実施料20%というのは、有効数字1桁(もしくは、0が意味のある数値の場合は2桁)であって、それを用いて算出する数値の有効数字も、その桁数に限定されてくる。
売上高の数字が、1兆2086億127万円と、万円の数値に意味があると考えて、有効数字9桁の数値として算出したとしても、1桁の有効数字の数値をかけ算してしまえば、結果として算出した数値も1桁しか意味がない。
つまり、20%なり40%の数値をかけ算した時点で、万円の単位ではなく、1000億円の単位しか意味がなくなるのである。
判決文は、このような点への配慮を全く欠いたものとなっている。

批判の第二点は、予測期間についてである。
ハイテク製品の価格の下落率は、パソコン等の<性能/価格>の推移などで、日常的に感じさせられているところである。
半導体の世界には、有名な「ムーアの法則」と呼ばれる経験則がある。
インテルの創業者の1人であるゴードン・ムーアが、1965年に提唱したもので、「半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増する」というものである。
「ムーアの法則」がいつまでも続くことは論理的にあり得ないが、現時点でも、集積密度という意味では不適合でも、性能として捉えれば生きている、と言われている。
このような世界で、5年先の価格や利益率を予測することは、無謀に近い。

ともあれ、東京地裁は以上のような考え方によって、日亜化学が青色LEDによって得られる利益を1208億6012万円と推計した。
そして、この発明については、中村修二氏が、独力で、独自の発想に基づいて、行ったものであるから、その貢献度は少なくとも50%を下回らず、相当対価の額は以下の通りであるとした。
1208億6012万円×0.5=604億3006万円

そして、中村氏が訴訟で請求している額が200億円であるから、200億円を支払え、と判決した。
貢献度についても、裁判所自ら有効数字1桁という判断をしながら、相当対価を万円の単位で算出しているのは、まあ法律家の無知ということになろうが、結果として、中村氏の請求額を大きく上回る相当対価が算出されているので、その部分の論議は結果的に水面下に潜ってしまうということになった。
それはともかくとして、相当対価が600億円超ということは、従来の論議を大きく超えるものであり、特に研究開発投資のリスクを負う企業経営者に衝撃を与えた。

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2007年12月16日 (日)

相当対価の算定法

特許法35条は、「職務発明」について、従業者等が、使用者等に特許を受ける権利もしくは特許権を承継させたり、専用実施権を設定する場合には、相当の対価の支払いを受ける権利を有する、としている。
問題は、相当の対価をどう算定するか、であるが、法は、その対価は、使用者等が受ける利益の額や使用者等が貢献した程度を考慮して定めなければならない、と規定しているだけで、具体的な算定方法方法を示しているわけではない。
そこで、相当対価をどう算定するか、さまざまな議論が生まれる。

中村修二氏と日亜化学の間で争われた「青色LED」に関する「404号特許」の相当対価はいくらと判断すべきであろうか?
1つの考え方が、新日本監査法人から示された。
監査法人とは、監査証明業務を組織的に行うことを目的として、公認会計士法の定めるところにより、公認会計士が共同して設立した法人である。
上場している会社の会計は、監査法人の監査を受けることが義務付けられており、IHIの有価証券報告書訂正事案などに象徴されるように、監査法人の役割はますます重要なものになっている。
社会的公正の観点から、第三者的立場から価値判断を示すことが期待されており、特許の財産的価値の評価についても、鑑定を求められたわけである。

特許法35の相当の対価に関する規定を式で表現すれば、以下のようになる。
相当の対価=(使用者等が受ける利益)×(発明者の貢献度)
発明者の貢献度=1-(使用者等の貢献度)
発明者は従業者である中村修二氏のことであり、使用者等は日亜化学という企業ということになる。
使用者等が受ける利益はどう算定すべきであろうか。

ある商品から企業が得る利益は、以下のように表現できる。
利益=当該商品の売上額×当該商品の利益率
これを対象とする期間について、計算すれば得られる利益が算定できる。
対象とする期間とは、特許については、該当する特許の有効期間ということになる。

ところで、日亜化学は非公開企業(株式を上場していない)であって、その財務データは企業秘密に属する。
したがって、青色LEDの売上高や利益率などのデータは、日亜化学の外部の人間には入手できない。
この裁判で、中村修二氏側が鑑定を依頼したのが監査法人トーマツ、日亜化学側が鑑定を依頼したのが新日本監査法人であった。
共に、四大監査法人に含まれる大手監査法人であるが、その鑑定の方法にはかなりの差異があった。

トーマツは、日亜側から協力を得られないため、予測部分に重点を置かざるを得なかった。
結果として、トーマツは、2003年~2010年までに売上高等の予測部分に注力したわけである。
もちろん、相当の対価の算定の対象期間には将来のことも含まれるのであり、将来部分を計算対象にすることは当然である。
しかし、青色LEDもそうであるが、ハイテク製品についての将来予測は、ほとんど不可能といってもいいくらいの不確実性を帯びている。

新日本監査法人は、査定の対象を過去の部分だけに限定して算出した。
日亜化学からの協力も得られるので、利益計算等もかなり厳密に行うことができる。
新日本監査法人の鑑定結果は以下の通りであった。

  当期利益累計額          233億円
-製品販売前研究開発コスト     53億円
-研究開発用資産未償却残高    73億円
-自己資本コスト           123億円
      計              -15億円

この計算の意味することは何か?
中村修二氏は、「404号特許」の発明によって、会社(日亜化学)に、15億円の損失を生じさせた、ということである。
しかし、日亜化学の発展ぶり等を勘案すれば、この鑑定結果はオカシイのではないか、と思うのが常識というものだろう。

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2007年12月15日 (土)

「404号特許」

職務発明という一種の業務上の成果をめぐって、中村修二氏と日亜化学の間で争われた裁判の論点は、次の2点に集約できるだろう。
1.発明によりもたらされた利益の算定
2.利益に対する中村修二氏の貢献度評価
われわれの仕事はほとんどの場合、組織によって行われるものであるから、この論点は、さまざまな場合に起きてくるものである。
例えば、プロ野球選手の年俸改定交渉などは、典型的なケースということになる。

職務発明とは、組織に属する人間(特許法でいう「従業者等」)による発明で、以下の範囲のものを指す。
Photo_2
つまり、職務の範囲に入り、かつ使用者等の業務の範囲に入る発明である。
職務の範囲に入らず、使用者等の業務の範囲に入らない従業者等の発明は自由発明であって、権利はその従業者等の個人に帰属する。
問題は、使用者等の業務の範囲であって、従業者等の職務の範囲に入らない発明、業務発明の場合であり、権利の帰属については、説が分かれている。

雇用契約上の原則からいえば、労働の成果は、職務の成果は、企業等の使用者に帰属すると考えられる。
特許法35条が、職務発明に対して、発明者に対価を支払うべきだと規定しているのは、技術立国を目指す国の方針を反映したものであって、この原則からすれば、例外的な考え方ともいえる。
多くの企業が、従来、わずかの報奨金を以て発明者に報いてきたのは、雇用契約という側面からいえば当然であったともいえる。
青色LEDの場合は、それによって企業(日亜化学)が得た利益が膨大なものであったが、原則的な考え方からすれば、それは企業に属するものであって、特許法35条という特殊な規定がなければ、技術者個人が対価を得るのが当然だとは考えられない。

ところで、中村修二氏と日亜化学との間で問題になった発明は、「404号特許」と呼ばれるものであった。
特許として認められた発明は、個別に特許番号が付されて識別される。中村修二氏を発明者とし(特許公報では単名であることに注意)、日亜化学を特許権者とする「半導体結晶膜の成長方法」という名称の特許番号は、第2028404号であって、その末尾の「404」に由来する。
それは、不活性ガスにより原料ガスの流れを制御するというもので、青色LEDの製造にとって基本特許の1つである。
2_4しかし、青色LEDの製造は、「404号特許」だけによって行われるものではなく、数多くの特許やノウハウの集合があって可能となったものである。

貢献度評価の重要な論点が、発明により得られた利益を算定する場合、当該特許(この場合は「404号特許」)の果たしたウェイトをどう評価するか、ということである。
東京地裁の一審判決では、「404号特許」のみが論点になり、この特許が全成果を規定すると判断された。
これに対し、控訴審では、青色LEDに係わる全特許・全ノウハウが勘案された。
つまり、「404号特許」の果たしている役割の評価の差異が、特許の財産的価値の大きな違いの要因となった。

事業化に際しては、今までの隘路を打開するキーとなるアイデア・考案が存在する。
青色LEDの場合はどうだったのか?
日亜化学側は、「404号特許」は実際には使用されていない、と主張した。
実際の製造工程は企業秘密に属するものであるから、推測の域を出ないが、やはり「404号特許」は基本特許であって、実際に使用されているか否かは別としても、その貢献を認めるべきであると考える。
問題は、基本特許性を「404号特許」だけに限定していいかどうかである。

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2007年12月14日 (金)

漢字の情報伝達力

「今年の漢字」として漢字一文字が選ばれるのは、その一文字に意味があるからである。
昨日書いたように、2007年の「今年の漢字」には「偽」が選ばれたが、辞書を引くまでもなく余りイメージのいい言葉ではない。
森貫首の談話として、「このような字が選ばれることは恥ずかしく、悲憤にたえない。己の利ばかり望むのではなく、分を知り、自分の心を律する気持ちを取り戻してほしい」という言葉が紹介されている。
先ずは自戒することにしよう。

パソコンの仮名漢字変換で「ギ」を変換すると、次のような漢字が出てくる。
偽・疑・義・魏・儀・議・気・技・擬・着・戯・宜・伎・誼・妓・欺・犠・蟻・祇・祁……
これらの漢字は、それぞれ異なる意味を担っている。だからこそ、漢字一文字を選ぶ「今年の漢字」というイベントが成立しもする。
この漢字の持つ表意性は、コミュニケーション上きわめて優位である。

例えば、今朝の新聞の一面の見出しを見てみよう。
・原告が和解案拒否
・薬害肝炎訴訟
・大阪高裁
・救済者を線引き
といった言葉が表示されている。
これらの見出しの文字を見るだけで、おおよその記事の内容が推測できる。

これが
・げんこくがわかいあんきょひ
・やくがいかんえんそしょう
・おおさかこうさい
・きゅうさいしゃをせんびき
と書かれてたら、その意味を理解するのに要する努力は何倍にもなってしまう。

仮名だけで書いてあると、どこが意味の区切りか分かり難い。
「げんこくがわわかいあんきょひ」という文字列でも、先ず「げんこくが」か「げんこくがわ」かが直ぐには分からない。「わかい」は「和解」なのか「若い」なのか、「あんきょひ」の部分の「あんきょ」は「安居」とか「暗渠」と解する可能性もある。
梅棹忠夫さんは、かなタイプライターを使うときには、分かち書きを徹底することにより、このような意味の不明瞭性を減らそうとした。
「げんこく が わかいあん きょひ」と書けば、ずいぶん理解しやすくなる。しかし、「原告が和解案拒否」の明瞭性に比べれば、まだ読みにくいことは間違いない。

せっかく漢字にこのように優れた機能があるにもかかわらず、それを制限しようという規制がある。
漢字を学習するのが難しいから、使う漢字を制限しようということで、1946(昭和21)年11月16日の内閣告示により、1850の「当用漢字」が示された。
「当用漢字」は、様々な漢字の内、使用頻度の高いものを中心に、公文書やメディアなどで用いるべき漢字の範囲とされた。
当時はGHQが統治者だったから、漢字を難しい非合理的なものと考えたとしても仕方がなかったのかも知れない。
しかし、表音文字と表意文字は異なる機能を有するのであり、漢字の持つ役割を過小評価したことは間違いないだろう。

「当用漢字」とは、「日常の使用にあてる」という意味である。
1981年、より緩やかな「目安」として「常用漢字」が内閣から告示され、当用漢字は廃止された。
常用漢字(古くは当用漢字)によって、使用する漢字が制限されたことから、この制限に抵触する漢字は、かなで表記される習慣ができた。
漢字の熟語の一部をかな書きする「交ぜ書き」と称するものである。
例えば、「皮膚」の「膚」、「破綻」の「綻」、「失踪」の「踪」、「隠蔽」の「蔽」などが常用漢字表にないため、「皮ふ」「破たん」「失そう」「隠ぺい」などと表記される。
しかし、詠みにくいばかりでなく、何のことだから意味を取りにくいことは明らかである。

個人差があることは当然であるが、漢字の学習が難しいのは事実だと思う。
小学校の低学年の頃、宿題の漢字の書き取りを、偏だけ先に書いてしまい、次に旁だけ書いたりした記憶がある。
また、「薔薇」だとか「憂鬱」だとか「蟋蟀」などという字を書け、と言われても、先ず書けない。
しかし、例えば、「薔薇」という字を書けなくても、読める人は多いだろう。「憂鬱」という字は、何となく意味が伝わってくる。
「蟋蟀」(キリギリス)は、私も読めない字であるが、キリギリスをかな漢字変換すれば、容易に出てくるし、初めて見たとしても、まあ虫の類であることは分かる。

学生時代に親しんだ高橋和己などは、難解な漢字を使うことが好きな作家だった。
若手では、平野啓一郎が難解な漢字を良く使っている。
彼らはプロだから、そこに主張を込めているのだと思うが、日常生活の文書で難解な漢字を用いるのは、余りいい趣味とは言えないだろう。
しかし、「交ぜ書き」はもっと悪趣味のように思うがどうだろうか。

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2007年12月13日 (木)

今年の漢字

「今年の漢字」という年末行事がある。
財団法人日本漢字能力検定協会が、その年をイメージする漢字一文字を、全国から公募し、最も応募数の多かった漢字一字を、その年の世相を表す漢字として、毎年12月12日の「漢字の日」に、京都市東山区の清水寺で発表するものである。
選ばれた漢字を「今年の漢字」と呼んでいる。

2007年の「今年の漢字」は「偽」であった。
212日に、清水寺の森清範貫首によって、縦1.5m、横1.3mの大和紙に揮毫され、同寺奥の院の本尊・千手観音菩薩に奉納する儀式が行われた。
さすがに見事な字である。
奉納された「偽」の文字は、同寺の本堂に置かれ、一般に広く公開される。

今年は9万816通の応募があり、16550人(18.22%)が投票した「偽」が「今年の漢字」に選ばれた。
2位の「食」は2444人(2.69%)だから、ダントツの1位ということになる。
しかも、「食」も食品表示において偽装が相次いだことを示しているから、意味的には「偽」と同じである。
また、3位が「嘘」で1921人(2.12%)、4位が「疑」で1848人(2.03%)となっているが、これらもまたほぼ同義語としていいだろう。
5位は「謝」で、これまた1~4位の結果の謝罪から来ていると考えられる。

確かに、昨日話題にしたIHIの有価証券報告書の記載の訂正も、「虚偽記載」の疑いがあるとされているわけだから、「偽」に関連しているし、「偽装国家(9月2日の項)」で触れたように、一昨年の「耐震強度偽装問題」などから、偽装のオンパレードで、「○○偽装」が一種の流行語と化すまでに広がってきたことは事実である。
特に、今年に入ると、「ミートホープ」「白い恋人」「赤福」「船場吉兆」「マクドナルド」など、有名・無名、老舗・新興などの区分なく、食品業界では、偽装関連報道を聞かない日がないくらいだった。

もちろん、ことは産業界だけに留まらない。
政治家の事務所経費の問題、接待漬けの高級官僚、消えた年金など、国民に対する偽装行為は、枚挙に暇がない状態である。
特に、年金問題に関するリーダー的立場の政治家の言葉は、余りにも軽すぎることは否めないだろう。
TVで繰り返し放映されているように、年金記録の照合を年度末までに終える、と明瞭に演説していたことは間違いない。
それに関して、「選挙期間中の言葉であり」「そういう意味で言ったのではないのであって、そう受け止めた国民が悪い」というような開き直り方をしている。
一国のリーダーであるべき総理大臣、厚労大臣、官房長官などの政治家が、こぞって、である。
国民をナメているとしか言いようがないだろう。

偽装の原点?(9月6日の項)」で触れたように、わが国最初の正史である『日本書紀』ですら、重要なことを隠蔽している気配がある。
そして、モノゴトに本音と建前があり、表と裏があることは、まあ承知していることではある。
ある意味で、偽装の行為があること自体は当たり前のこととも言えよう。
しかし、それはあくまで裏側での話であって、秘すべきものではなかろうか。
公然としかもシラッとした顔付きで話されては、身も蓋もないと思わざるを得ないだろう。

個人的には、同じ「ギ」でも、今年は「技」の年であったと考えたい。
2007年問題(11月20日の項)」はまさに「技」の断絶を問題にするものであったし、「『わざの伝承』(11月21日の項)」はそれに対する取り組みをどう考えるか、の模索である。
また、「職務発明の対価(12月10日の項)」は、技術立国の根幹に係わるテーマだ。
そして、技術立国力を競う「技能五輪国際大会(11月19日の項)」が、沼津市を会場として、22ぶりに日本で開催された。
2007年は、「技」を再考すべき年だったのだ。

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2007年12月12日 (水)

IHI株が監理ポストに

東京証券取引所が、株式会社IHI(アイエイチアイ=旧社名:石川島播磨重工業)の株式を、監理ポストに割り当てた、と12日付の各紙が報じている。
IHIは、2007年3月期の営業損益を、約300億円下方修正する見込みだと11日に発表した。
14日に決算訂正を正式発表する予定で、月内をメドに07年3月期の通期と半期の有価証券報告書を訂正するという。

IHIは、9月末に、08年3月期の営業損益見通しを、400億円の黒字から170億円の赤字に下方修正した。
この際、さらに追加損失が、今期と前期の合計で、最大280億円発生する公算があると発表していた。
このうち、180億円を前期に計上し、今期の下方修正幅(570億円)のうち、約120億円は、前期に繰り上げて計上するのが適切と判断したことにより、約300億円の修正額のうち、約90億円が06年9月中間期に計上される。

同社は、今年の1、2月に、公募増資と第三者割当増資で、640億円近くを調達している。
Photo_4同社の株価の推移は図の通りであり、現在の株価は、上記の資金調達時の約半値とみていい。
また、営業赤字だったタイミングで市場から資金を調達したことになり、市場の信頼を大きく損なうことが避けられない。

東証が監理ポストに割り当てたのは、IHIの有価証券報告書の訂正を受け、上場廃止基準の「虚偽記載」に該当する可能性があると判断したためである。
東証は、11月1日に取引ルールを改正し、監理ポストに割り当てたが上場廃止に至らない銘柄のうち、内部管理体制などに問題があると判断した銘柄を、「特設注意市場」として通常銘柄と区別することにしている。
したがって、IHIの株式は、東証の審査の結果によって、以下のいずれかになる。
①通常銘柄として上場維持
②特設注意市場で投資家に注意を喚起
③整理ポストを経て上場廃止

IHIの前身の旧石川島重工業は、江戸幕府によって、隅田川河口の石川島(東京都中央区佃)に創業された。
1876(明治9)年に民間へ払い下げられた。翌年には日本初の蒸気船「通運丸」を建造し、1960(昭和35)年に旧播磨造船所と合併した。1966年には、世界初の20万トン級タンカー「出光丸」を就航させている。
1968年には旧呉造船所を合併し、文字通り日本を代表する造船会社となった。
その後、日産自動車から宇宙航空事業・防衛事業を譲受し、新潟鐵工所から原動機事業・運搬機事業を譲受するなどをして、総合的な重工業会社として発展してきた名門企業である。
今回の訂正を必要とさせた判断ミスが故意なのか過失なのか、現時点では分からないが、「偽装国家(9月2日の項)」の一端を担ってしまったと見なされてもやむを得ないのではなかろうか。

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2007年12月11日 (火)

青色LEDの場合

職務発明の対価の問題で大きな話題になったのは、青色発光ダイオードの発明に関してである。
発明者の中村修二氏と日亜化学の間で争われていた案件に関し、2004年1月、東京地裁が、発明対価の一部として200億円を支払え、という判決を出した。
この巨額の判決は、各方面に大きな衝撃を与えた。
それは従来の常識的と思われた金額を遙かに越えた額だった。
控訴審では、和解金額が6億円に減額され、遅延損害金を含めて8億4000万円を支払うことで和解が成立した。

2_29 道路標識などにどんどん採用されているように、青色発光ダイオードの発明は大きな社会的意義と経済効果をもたらすものであった。
人間が光として見ることができる可視光は、赤・緑・青の三原色から構成されている。
これらの組み合わせで、どのような色でも表示できる。
赤と緑の発光ダイオードは既に商品化されていたが、青色発光ダイオードの商品化が難しかった。
中村修二氏らの日亜化学の研究グループが、この青色発光ダイオードの商品化に成功したことにより、図に示すように、三原色の混合比率を変えることにより、さまざまな色彩を表現することが可能となった。

その発明に対して、相応の対価が支払われるべきであることは当然である。
2_30しかし、相応の対価をどう算定するのか、考え方に幅が出てくることは避けられない。
発明者からすれば、発明者のオリジナリティがあればこその発明である。
貢献度を評価するにしても、そのオリジナリティを評価しなければ意味がない、と考えるであろう。

一方、会社からすれば、成功するかどうか分からない研究のリスクを負っているのは会社側である。
社員は、職務の遂行に関しては、別途定められた報酬を得ているのであって、社員によって行われた発明に対して、今後の職務の励みになるような報奨金は出すにしても、それはご褒美の一種であって、自ずから金額は制約されたものであるべきであろう。
ところで、特許法35条の規定は、人事の処遇に関するものではなく、金銭に係わる規定である。
日本的な企業風土の中では金銭的な請求は表に出しにくいのが実態であるが、発明者は対価の支払いを受ける権利があるとされているのであり、それは金銭で支払われるものである。

しかし、実際にその対価を算定しようとすると、大手監査法人などの専門家の間でも、大きな差異が生じる。
特許の財産的価値は、当該特許を利用できる期間において、当該特許を使った商品を販売して得られるであろう利益と、当該特許を他社等に利用させたりすることによって得られる利益の和である。
2_31しかし、ある商品の販売において、当該特許の貢献度をどう評価するか。
考え方としては、当該特許のある場合とない場合の差ということになろうが、それは架空の計算をすることと同じだろう。

研究者と企業の貢献度の評価も難しい。
研究者の貢献度は、アイデアや着想に係わるものであり、企業の貢献とは、研究設備や組織体制に係わるものであって、次元が違うからである。
したがって、厳密な査定などはもともと不可能なのであって、大胆に割り切るしかない。

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2007年12月10日 (月)

職務発明の対価

日本語ワープロの開発は、「知的生産の技術」の歴史を大きく書き換えたものだった。
「『知的生産の技術』…③日本語(11月25日の項)」に書いたように、はじめて東芝製の日本語ワードプロセッサーが商品として登場したのは、1979年2月だった。
その開発に携わっていた元東芝社員が、東芝に対して発明対価として約2億6000万円を求める訴訟を東京地裁に起こしていることが、12月7日の各紙で報じられている。

提訴しているのは、東芝の元技監で、湘南工科大学教授の天野家氏(59歳)である。
天野氏のグループは、1977(昭和52)年と78年の両年に、日本語ワープロの実用に不可欠だった「同音語選択装置」と「カナ漢字変換装置」を開発した。
日本語は、同音異義語が多く、仮名と漢字が混在していることが特徴である。
それが「知的生産」における日本語の優位性になっているわけであるが、逆にその複雑性が仮名漢字変換は不可能だという通念になっていた。

天野氏らのグループは、入力した仮名を前後関係から判断して漢字と仮名の交ざった文章に変換する「二層型仮名漢字変換」と、意図しない同音語が出てくるのを減らすため、一度使った漢字を優先的に出すようにする「短期学習機能」を発明した。
これらの発明により、仮名を適切な漢字に変換できる確率が飛躍的に高まり、日本語ワープロの実用化に大きな貢献をした。
天野氏らの研究開発は、NHKの「プロジェクトX」でも取り上げられている。

東芝は、この2つの発明に対し、社内規定により特許を受ける権利を継承し、天野氏らの連名で特許を出願した。
この際、東芝は天野氏らに対し、特許譲渡の対価を支払っていず、報奨金として約27万円を支払った。
特許は出願後20年で権利が消滅するが、天野氏は権利が残存している96年、97年の2年分の対価を求めるとしている。
この2年間に東芝が特許から得た利益は約26億円と試算し、天野氏の貢献分を約10%と見積もった、ということである。

天野氏は、「訴訟を通じて、発明から生ずる権利は技術者のものだと訴えたい」とし、「技術立国を支える技術者の待遇向上を図りたい」と語っている。
一方、東芝は、「特許の対価は会社の規定に基づいて適正な額を支払っている」とコメントしている。
特許法35条は、職務発明について、次のように規定している。
職務発明とは、企業等の組織に属する社員等(特許法ではこれを「従業者等」という)が、、現在または過去の職務に属する発明について特許を受けたものをいい、天野氏らの発明も典型的な職務発明である。

職務発明については、企業等(特許法ではこれを「使用者等」という)が、通常実施権を有するが、従業者等は、使用者等に特許を受ける権利もしくは特許権を承継させたり、専用実施権を設定する場合には、相当の対価の支払いを受ける権利を有するものとし、その対価は、使用者等が受ける利益の額や使用者等が貢献した程度を考慮して定めなければならない、としている。
当時の東芝の社内規定は、職務発明については、おそらく利益への貢献度などに関わりなく報奨金によって対応していたのであろう。

とすれば、天野氏らの提訴は、特許法の趣旨からして是認されるもののように思われる。
しかし、いくつかの問題がある。
第一に、その対価を具体的(定量的)にどう評価するかということである。
企業活動は複雑であり、この発明により得られた利益を分離して算出する必要があるが、それがどの程度客観的に行い得るか。
客観的とは、利害が対立する双方が、ある程度納得できるような形で、ということである。

また、職務発明は、会社が環境等を用意した上でなされるものであり、その会社の貢献度をどう評価するか。
さらには、天野氏の処遇は、これらの発明を踏まえて行われていたと考えられ、その部分に間接的であるにせよ、発明の対価的な要素が含まれていたとも考えられる。
しかし、発明の対価の問題は、技術立国の基本であり、さまざまな視点から、大いに論じられることが好ましいと思う。

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2007年12月 9日 (日)

論争と思考技術

思考は、ビジネスの場だけでなく、日常生活においても常に行っていることであるが、成熟社会化の進展によって、ビジネスにおける思考技術の重要性は益々高いものになっている。
高度成長期のように、KKD(勘と経験と度胸)で勝負するというわけにはいかない。
しかし、思考のプロセスは目に見えないものだから、思考技術を学習することは容易ではない。
私は、思考技術(コンセプチュアル・スキル)を学ぶための格好の材料として、論争があるのではないかと考えている。

第一に、論争は、対立する「ものの見方・考え方」がぶつかり合うものであるから、対象としているものの本質を考える上で、参考になることが多いはずである。
第二に、論争は文章の「やりとり」等を通じて行われることが多いから、論争当事者の思考のプロセスを窺い知ることができる。
「第二芸術論」をめぐる論争や「鶏頭論争」を初めとして、俳句を巡る論争も数多く存在しているが、例えば松本健一執筆代表『論争の同世代史』新泉社(1986)には、「アナ-ボル論争」から「吉本-埴谷論争」まで、54の論争が取り上げられている。

「吉本-埴谷論争」の一方の当事者である吉本隆明は、まさに論争者ともいうべき評論家である。
54の論争のうち、実に以下の8つの論争の登場している。
①文学者の戦争責任論争(S21~31年)
②共同体論争(S31年~)
③戦後文学論争(第一次)(S32~38年)
④吉本-岡井論争(S32年)
⑤花田-吉本論争(S33~35年)
⑥「転向」論争(S33~37年)
⑦文学者の「反核」をめぐる論争(S57年)
⑧吉本-埴谷論争(S60年)

論争名に論争当事者の名前が冠せられているのは、上記以外では「山川-福本論争」「野呂-猪俣論争」「太宰-志賀論争」「志賀-神山論争」だけであるから、吉本隆明の論争史における位置づけは際立っているといってよい。
上記の論争の中で、最も論評される機会が多かったのは「花田-吉本論争」であろう。
吉本隆明の相手となった花田清輝は、京都帝国大学文学部に入学し、滝川事件の際は、処分反対派の学生グループの中心として活動した。
大学を中退して、「軍事工業新聞(現在の日刊工業新聞)の記者などを経験し、時流に距離を置いた発言をしていた。
戦後、日本共産党に入党するが、1961年に除名処分を受ける。
日本のアヴァンギャルド芸術論のさきがけで、安部公房や岡本太郎などに影響を与えた。

花田清輝は1909年生まれ、吉本隆明は1924年生まれで15歳の年齢差があり、それが戦争体験に大きな違いをもたらした。
文学者の戦争責任を厳しく追及(上記①の論争)していた吉本隆明を、花田清輝は「戦争中のファシストが、十分な自己批判することなしに、戦後自由主義者に転向したもの」と批判した。
吉本自身が、「戦争中は軍国少年だった」としているのだから、花田の批判は必ずしも的外れとも言えないが、吉本世代が戦争の現実に受動的に向き合わざるを得なかったのに対し、花田世代はもっと主体的に向き合えたのではないか、という吉本の意識が、激烈な花田批判となった。

この論争の意義について、磯田光一は、「戦後文学史上もっとも重要な論争のひとつ」(『吉本隆明論』審美社(1971))と評価しているが、『論争の同世代史』の担当筆者である菊田均は、「意外に無内容なのに驚かざるを得ない」とする。
これに対し、編集者的格の松本健一は、「戦前と戦後を結ぶ最大の論争」として、菊田評価に異を唱えている。
論争の勝敗に関しても意見は分かれる。
小浜逸郎は、「誰が見ても勝敗は明らか」と吉本の一方的勝利と判定するが、好村富士彦は、花田清輝の「負けるが勝ち」という戦略が見事に成功した、とみる。
論争の評価は難しいが、それを自分で考えてみることが、思考技術の練習問題になるのではなかろうか。

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2007年12月 8日 (土)

血脈…②水上勉-窪島誠一郎

江国滋-香織の父娘については、父の才能が娘に伝わることに余り違和感はないと書いた。
しかし、「無言館」館主の窪島誠一郎さんと作家水上勉の場合は事情が異なるだろう。DNAだとか遺伝子というものが実在し、それが実際に人の才能や気質を支配しているのだ、ということを感じざるを得ない。

去年の夏、上田市郊外に建つ「無言館」を訪ねる機会があった。戦没画学生の遺作や遺品を展示している施設だ。
ちょうど、小泉元首相が、8月15日に靖国神社への参拝を強行し、内閣総理大臣と署名した時だったので、戦没ということや戦争責任の問題に関して、敏感にならざるを得ない時期でもあった。
画学生たちの戦没の日付を見ていると、たとえ開戦が不可避であったとしても、もっと早く終結させることはできなかったものか、と思わざるを得なかった。

始めるよりも終わらせる方が難しいのは物事の常とも言えるが、開戦に際して戦争指導者はどのような終戦シナリオを想定していたのだろうか。
余り深く調べたわけではないが、初戦を頑張れば何とかなるだろう、というような客観性に欠ける楽観的な判断が支配的だったように思われる。
戦争指導者が問われるべきは、開戦責任はもちろんのことであるが、敗戦の時期を遅延させて、被害を増大させてしまったことはもっと大きな責任なのではないだろうか。

私たちの世代は、直接的には「戦争を知らない」。
しかし、戦争の影響は心身に刻み込まれているともいえる。何よりも、私たちの人生は、「戦後」という時代とほとんどオーバーラップしているのだ。
戦後史の画期は、私たちの人生の節目でもあることが多い。
そして、戦後とは、当然のことながら、戦争があったからこそあった時代だ。
だから、無言館で、戦没画学生の遺品や遺作を目にすると、自ずと文字通り無言になってしまう。

無言館は、窪島誠一郎さんが個人で経営している私設美術館である。
窪島さんが、作家水上勉の実子であることは、雑誌か新聞で読んだことがあったのだが、実際に無言館を訪れるまで、意識の底に眠っていた。
無言館を訪れて、窪島さんの文章の中に水上勉の名前を見たとき、その眠っていた記憶が呼び覚まされた。
帰ってから、窪島さんの書いた本を何冊か読んで、その数奇な、ともいうべき人生について知り、血脈というようなことを考えさせられた。

水上勉と同棲していた女性との間に生まれた子供は、水上家がとても子育てをするような環境になかったために、3歳のときに窪島家に養子として引き取られた。
1942(昭和17)年のことである。
窪島家は、明大前で靴の修理を家業としつつ、明大生などに下宿を提供していたが、1945(昭和20)年の東京大空襲で被災し、家財一式を失ってしまう。
戦後、靴の修理業を続けるが、戦後という時代においても、その生活はとりわけ困窮したものにならざるを得なかった。

窪島少年は、何となく自分の出生に何らかの秘密があるのではないか、と感じるようになるが、皮膚病に罹患した際の血液検査で、医師から父母との関係を仄めかされる。
少年から青年に成長するに従い、窪島さんの疑問は次第に確信に変わって、自分を手放した実父を捜し求める。
35歳になって、それが高名な作家・水上勉であったことを突きとめた。

人の性格や生き方を規定するものは何であろうか?
環境、遺伝、その他諸々の要因が数限りなくあると考えられる。
しかし、極貧ともいうべき環境の中で、窪島さんが、絵画や文学に強い関心を持ち、「キッド・アイラック・ホール」という名称の小劇場を開設したり、美術商を始めた果てに、上田市に夭折画家の作品を集めた「信濃デッサン館」という小さな美術館を開設し、さらに「無言館」を手がけることになる人生の軌跡を知ると、父・水上勉から、「血」を引き継いでいるのだ、ということを思わざるを得ない。

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2007年12月 7日 (金)

血脈…①江国滋-香織

小説家・詩人・歌人・俳人・エッセイストなど、幅広い文芸のジャンルで活躍している江国香織さんは、江国滋さんの長女である。
以下のような多彩な受賞暦を持っており、今では、かの吉本隆明が吉本ばななや春野宵子の父、と紹介されることがあるように、「江国滋は江国香織の父」と紹介されることの方が多いのかも知れない。

・1987年 『草之丞の話』で、はないちもんめ小さな童話賞大賞。
・1989年 『409ラドクリフ』で第1回フェミナ賞。
・1991年 『こうばしい日々』で第38回産経児童出版文化賞。
・1992年 『こうばしい日々』で第7回坪田譲治文学賞。
・1992年 『きらきらひかる』で第2回紫式部文学賞。
・1999年 『ぼくの小鳥ちゃん』で第21回路傍の石文学賞。
・2001年 『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で第15回山本周五郎賞。
・2004年 『号泣する準備はできていた』で第130回直木賞。
・2007年 『がらくた』で島清恋愛文学賞。

江國 香織とっておき作品集』マガジンハウス(0108)に、江国滋さんの『香織の記録』という育児日誌が載っている。
香織さんの誕生前日から満6歳までの記録であり、父親が小さな娘に注ぐ愛情が素直に伝わってきて微笑ましい。

香織さんは、1964(昭和39)年3月21日に生まれた。
「記録」は、<その前日>、つまり3月20日から記されている。

(ママが)午前十一時ごろ聖母病院(三三七号室)へ入院。
この病院は一切がアメリカ式なのできわめて清潔、その代わり父親はすぐ追い返される。
パパはそのまま仕事に出掛けて、午後七時帰宅。落ち着かない。ウィスキーをちびちび飲みながら病院からの電話を待つ。本を読もうとするのだが、活字を追うだけで頭に入らない。
午前二時、枕元に電話機を置いて床に入る。全然眠れない。ウィスキーをのみながら、とうとう夜を徹す。山之内製薬の精神安定剤「バランス」カプセルを一ヶ飲んで無理矢理寝る。

最初の子供の誕生を待つ父親の期待と心配が、実に率直に記されている。
結局20日には生まれず、21日が<その日>になって、「午前九時十分頃、枕もとの電話がけたたましく鳴る。取る手ももどかしく受話器にとびつく。『聖母病院でございます。けさ八時五十六分、お生まれになりました。……』」ということになる。

新生児室のガラス越しに、白衣の看護婦さんが香織を抱いて見せてくれた。
小さな、色の白い、きれいな赤ちゃんだった。目をつむり、小さな口をきゅっと結び、いかにも利巧そうないい顔をしている。もみじのような可愛い手、ちゃんと指も五本ついている。よかった!

香織さんが生まれた年の年賀状が載っている。
2_2早くも「親バカ」ぶりが伺えるが、まあ、殆んどの父親が似たようなものだろう。
父親は、出産そのものには主体的に係われない。その分だけ、精神的には多く係わろうとしているとも言える。
そして、このような愛情に溢れて育てられれば、父の才能が娘に伝わることにも余り違和感はない。

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2007年12月 6日 (木)

『俳句とあそぶ法』…⑥切れ字

俳句には、切れ字というものがある。
「や」「かな」「けり」などの語で、強調、詠嘆、疑問、完了、余韻、視覚的効果、聴覚的効果などを表現するものである。

霜柱俳句は切字響きけり  (波郷)

と詠まれているように、切れ字は、一句のすがた、かたち、調子などを整える上で大きな役割を果たす。
藤原正彦さんの『国家の品格 』新潮新書(0511)がベストセラーになって以来、『ハケンの品格』などというTVドラマがヒットするなど、何かと「品格」が問われることが多い。
切れ字は、「俳句の品格」を決める重要なファクターである。

切れ字も季語と同じように、一句の中に2つあってはならない、という禁忌がある。
『俳句とあそぶ法』の「7 切れ字は宝」は、この禁忌に関して解説した章である。
しかし、禁忌を破っていても、名句といわれる句はある。

降る雪や明治は遠くなりにけり  (草田男)

人口に膾炙した句であって、江国さんも「昭和の絶唱ともいうべき傑作」と評している。
この句が作られたのは、1931(昭和6)年であったが、既に平成も19年であるから、私たちの世代は、昭和も遠くなってしまったという感懐を抱かざるを得ない。
映画の「ALWAYS 三丁目の夕日」がヒットし、続編も好調のようであるが、まさに昭和にノスタルジーを感じる人が多数いるということだろう。

この禁忌破りの名句の作者である中村草田男自身、次のように解説している。

「や」か「かな」かの切字が添っているの、それぞれの強いリズムによってその部分が、一句に含まれた詩の世界の気分、情趣の中心点、統一点になるわけです。一句に中心点、統一点が一個だけあることは結構ですが、もし二個あるとどうなるでしょう。--その一句は、二つの部分に分裂し、割れてしまって、一句としての気分、情趣はかえてまとまりのないバラバラなものになってしまわざるを得ません。

しかし、「降る雪や……」の句が、草田男のこの解説を裏切っている。
降る雪や、の「や」で感じさせる余情と、遠くなりにけり、の「けり」がもたらす詠嘆の気分が、相乗的な効果をもたらしている。
まさに「品格」の高い句ということができる。

江国さんは、名句と禁忌の関係について、次の2通りの考え方を示す。
(1)鉄則に違背しているという事実は事実として、名句であることに変わりはない。
(2)名句であるという事実は事実として、鉄則に違背していることに変わりはない。
アマチュアの「遊び」はルールに厳密でなければならない、というのが江国さんの基本的なスタンスだから、(2)であるべきだ、ということになる。
だから、「や・かな」とか「や・けり」を併用した句ができてしまったら、無理をしても(句の持ち味をそこなってでも)どちらか一方の切れ字を変えることを自らに義務づけている、としている。
まあ、ルールとして考えるならば、それくらい徹底した方が分かり易い。

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2007年12月 5日 (水)

有季定型インフラ論

「有季定型」という俳句の基本的性格をどう考えたらいいのだろうか?
それは俳句の俳句たるゆえん、言い換えれば「俳句性」の本質を問うものであって、数多くの論考がなされてきたが、おそらく永遠の問いに属するものであろう。
もちろん、私ごときが何かを言うような問題ではないが、有季定型は俳句のインフラではないか、ということを思いついた。
インフラとは生活を規定する下部構造である。その下部構造を土台として、多様な生活が営まれる。

同じように、有季定型というインフラの上に多様な俳句表現があるのではないのだろうか?
もちろん、インフラが整備されていなくても、生活を営むことができる。
しかし、インフラ次第で生活のあり方は大きく変わる。
インフラが整備されれば、生活の利便性が向上する。
同じように、有季定型を活用することによって、文芸表現の利便性が向上したのではないだろうか?
似たような趣旨のことは多くの人が説いてきたことかも知れない。
しかし、有季定型がインフラだ、という言い方をした人は今までいないと思う。

国土交通省の河川局長といえば、公共事業の元締めのようなイメージがある。
もちろん、河川に係わる事業は公共性が高いから、古くから為政者の大きな関心事であったことは間違いない。
水を治めるものは、国を治めるという言葉がそれを表現している。
また、世界の四大文明が、いずれも大河川の沿岸で発祥したことからも、河川と人間の営みとの係わりは古くかつ深いことが理解できる。
だから、河川技術者には、文明史への関心を持つ人が多いのではないか、と思う。

1999(平成11)年に河川局長に就任し、2002(平成14)年に退官した竹村公太郎さんもその1人である。
竹村さんは、旧建設省に入省以来一貫してダム・河川行政に携わってきた。
特に、1991(平成3)年に長良川河口堰の担当になってから、市民団体やマスコミに対応することが多く、社会資本整備の意義について、数多くの発言をしてきた。

河川局長時代に「建設オピニオン」という雑誌に連載していた文章を再編集して、『日本文明の謎を解く―21世紀を考えるヒント 』清流出版(0312)という著書にまとめた。
公共事業という社会インフラが、日本文明の形成の中で果たしてきた役割について論じたものである。
これからの時代、人類は、地球温暖化や資源の枯渇や人口の急増など、今まで経験したことのないような難問に向き合わざるを得ない。
そのような時代を、われわれはどのように生き延びればいいのか? また、生き延びるためには、何をしたらいいのか?
その問いかけが、人類の築いてきた文明、とりわけ日本の文明に対する関心となった。

竹村さんの視点は、仕事柄「社会インフラ」に注目するものである。
日本人の生活を土台で支えているのが社会資本であり、社会資本のあり方が文明の生い立ちと現在のありさまを規定していると考えるものである。
近著の『幸運な文明―日本は生き残る 』PHP研究所(0703)の「はじめに」に以下のような文章がある。

人々の文明を支えているのは、実は目に見えない下部構造である。この下部構造は、気象と地形の上に構築されている。日本の気象と地形と見詰めていけば、文明の下部構造が解明でき、さらに、その下部構造に支えられた文明の上部構造に肉薄できる、という思いであった。

この部分を読んで、ハタを膝を打つ思いがした。
「気象」と「地形」が複合して、「風土」が形成される。
日本に固有の風土は、まさに「気象」と「地形」がもたらすものだろう。
この、「気象」と「地形」は、ちょうど俳句における「季語」と定型」に対応するものではないのだろうか?
『俳句とあそぶ法』…③季語(11月29日の項)」で紹介したように、BAIU(梅雨)という言葉は国際気象用語になっているというが、日本の「気象」は、日本に独特のものであり、かつ季節の移り変わりと密接に関係している。
また、地形は、土地の姿・形であって、俳句表現のでいえば五七五という形に相当するのではないか。
有季定型がインフラだと言っても、だから何だ、ということかも知れないが、インフラだとすれば積極的に活用すればいいのではないか、ということになる。

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2007年12月 4日 (火)

『俳句とあそぶ法』…⑤季語(3)

『俳句とあそぶ法』の「4 禁忌は禁忌-季語(三)」は、季語に関する禁忌として、次の2つに触れている。
「無季」と「季重なり」である。
禁忌というだけに、江国さんは「『無季俳句』というものを、一つのジャンルと考えたり、主義とする態度を、私は排斥する」という。

江国さんが挙げている無季俳句の事例は以下のようなものである。

車輪にふれた人間だ何処だまつくらだ  (北朗)
まひる、舟へでんしんがきた赤いじてんしゃからおります  (詩外楼)
ころりと寝ころべば空  (山頭火)
怒にかつとして夢であつたか  (井泉水)

これらは、無季がどうこうという以前の問題なのではなかろうか。
新しさを衒っただけで、詩趣というものが感じられないだろう。
私は、俳句は詩の一形態だと考えるから、詩趣のないものは、いずれにしろ評価できない。

例えば、「俳句の箱庭へ」というサイトには、「無季俳句」を集成したページがある。何句か引用してみよう。

しんしんと肺碧きまで海の旅  (篠原鳳作)
夢の世に葱をつくりて寂しさよ  (永田耕衣)
一握の砂を蒼海へはなむけす  (吉岡禅寺洞)
戦争が廊下の奥に立ってゐた  (渡辺白泉)

私は、これらの句については、無季であっても立派な俳句だと考える。つまり、詩趣を感じることができるのではないか。

「季重なり」は、「無季」よりももっとやっかいだろう。
「季重なり」とは1つの句には、2つ以上の季語を入れてはいけない、というルールに触れることである。
しかし、有名句にも「季重なり」はある。次の句などは代表的だろう。

目には青葉山ほとゝぎす初がつお  (素堂)

あるいは、次のような句もある。

うめ一輪一りんほどのあたゝかさ  (嵐雪)
小春日や石を噛みゐる赤とんぼ  (鬼城)
枯菊の根にさまざまの落葉かな  (虚子)

まあ、虚子にすら「季重なり」の句があるのだから、それほど気にすることはないようにも思うが、江国さんは、アマチュアがまねするものではない、と説く。
それにしても、新興俳句派が「枯菊」などの言葉を使えば、特高警察の標的になったかも知れない。
名手と評されている久保田万太郎には、とりわけ「季重なり」の句が多いという。

長火鉢抽斗かたく春の雪  (万太郎)
秋風にふくみてあまき葡萄かな  (同)
きぬかつぎむきつつ春のうれひかな  (同)

なめらかな口調でありかつさりげなく、「うまい!」と思わざるを得ない。

また、有名な飯田龍太の次の句も、立派な「季重なり」だろう。

一月の川一月の谷の中  (龍太)

以下、「俳句の雑学」と題するサイトから。
1969(昭和44)年の「俳句」2月号に掲載された「明るい谷間」と題する30句の冒頭に置かれた句である。
中村苑子さんは、「輝くような作品が光を競い合ったなかでも、特に抽んでて格が高く、句柄が悠然としたたたずまいをみせている」と絶賛している。
一月の川とは、龍太の家の裏を流れる狐川のことだという。
「幼児から馴染んだ川に対して、自分の力量を超えた何かが宿しえた」とは龍太の自解である。

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2007年12月 3日 (月)

鶏頭論争

江国滋さんが「有名な水かけ論争」と評した「鶏頭論争」は、俳句界における論争の中でも、最も有名なもののようだ。

鶏頭の十四五本もありぬべし  (子規)

既に、「俳句評価の難しさ(8月24日の項)」で触れているが、その中身についてもう少し見てみよう。
意味的には、「鶏頭が十四五本はあるはずだ」という程度のことである。
「ありぬべし」は文法的には、「ありぬ」+「べし」で、「ぬ」は動作や作用の完了を示す助動詞。「べし」は当然、可能、想像などの意味を示す助動詞。「ぬ」+「べし」で、言っていることを確認・強調する用法となる。
「ありぬべし」は、「確かにある」「きっとある」という意味になる。

子規庵の庭には、草好きの子規のためにたくさんの花が植えられ、鶏頭は、明治30年の春に森鴎外が、各種の種を送ってきた中の1つだという。
「十四五本」という数はどうだろうか?
ポイントは「も」にあるのではないか、という説がある。
とすると、「三四本」「六七本」「七八本」「十四五本」となるが、「三四本」だと一目瞭然だし、「七」の「チ」の語感が良くないから、「十四五本」が残る、ということになる。

この句が作られたのは、1900(明治33)年の9月9日の子規庵句会。
子規は、鶏頭の題で次の9句を作った。

堀低き田舎の家や葉鶏頭
葉鶏頭の錦を照す夕日哉
誰か植えしともなき路地の鶏頭や
萩刈りて鶏頭の庭となりにけり
鶏頭の十四五本もありぬべし
鶏頭の花にとまりしばったかな
朝顔の枯れし垣根や葉鶏頭
鶏頭に車引入るるごみや哉
鶏頭や二度の野分に恙なし

「ありぬべし」の句の一座の評価は低く、虚子は最後の一句のみをとった。
虚子選『子規句集』の2306句の中に、鶏頭の語を含む句は以下の7句があるが、虚子はこれらの句より「ありぬべし」は劣位だとした。

鶏頭や賤が伏屋の唐錦      <賤(シズ)、伏屋(フセヤ)>
墓原や小草もなしに鶏頭花
うつくしき色見えそめぬ葉鶏頭
藁茸の法華の寺や鶏頭花
鶏頭の黒きにそゝぐ時雨かな
鶏頭の皆倒れたる野分哉
鶏頭やこたへこたへて幾時雨

志摩芳次郎という人が『俳句をダメにした俳人たち』中央書院(8712)で、「鶏頭の鮮烈な色ほど秋を感じさせるものはないのに、子規のこの句は色彩感覚が欠如している」とし、以下の句より劣る凡句だと評した。

鶏頭や雁の来る時尚あかし  (芭蕉)
ぽつぽつと痩せけいとうも月夜なり  (一茶)
鶏頭に秋の日のいろきまりけり  (久保田万太郎)
鶏頭の一抹の朱わが生に  (桂信子)
鶏頭の夕影並び走るなり  (松本たかし)
人の如く鶏頭立てり二三本  (前田普羅)
鶏頭の澎湃として四十過ぐ  (石田波郷)
鶏頭の穂先とびちる野分かな  (石原八束)

私の感想は?
もちろん、駄句と否定するほどの見識はない、というか、そんなに俳句を知っていない。
しかし、「子規の鶏頭の句がわかるかどうかでその人間の俳句がわかるかどうかを判定できる」と言う人もいるらしいが、絶賛するほどの句とは思えないというのが、正直なところである。
そもそも、「俳句がわかるかどうか」の「リトマス試験紙」みたいな句などあり得ないのではなかろうか。

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2007年12月 2日 (日)

『ベアテの贈りもの』

知人に誘われて、三島市民生涯学習センターで上映された、『ベアテの贈りもの』という映画を観に行った。
主催はみしま女性史サークルとNPO法人静岡県男女共同参画センター交流会議で、三島市の共催である。
「ベアテ」は人名で、フルネームはベアテ・シロタ・ゴードン。戦後、GHQの一員として来日し、日本国憲法草案委員会のただ1人の女性として、憲法草案の作成に携わった。22歳のうら若き娘だった。

私自身はフェミニストのつもりではあるが、どうもフェミニズム関係の言説は苦手で、女性史というのも敬して遠ざかっていた分野だ。
この映画も、誘われなければ行かなかっただろう。しかし、今まで遠ざかっていた世界を垣間見る機会を持てたことは幸いだった。
ベアテさんは、1923年にウィーンに生まれた。
父のレオ・シロタは、リストの再来ともいわれた超絶的な技巧を持ったピアニストである。1929年に山田耕筰に招かれて来日した。
6ヶ月の予定で、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)で教鞭を取ることにしたが、結局17年間を日本で過ごすことになった。
日本滞在が延びた理由は、ナチの台頭と母国での暴虐である。実際に、レオ・シロタの弟(ベアテの叔父)は、アウシュビッツに消えたらしい。

ベアテさん一家も、日本における軍国主義の高まりの中で、ユダヤ系という理由で随分イヤな思いをしたらしい。
そういうことも要因であろうが、ベアテさんは、1939(昭和14)年単身渡米し、サンフランシスコのミルズカレッジに入学した。
卒業後は、タイム誌で調査を担当していたが、東亜・太平洋戦争が終わると、両親との再会を目的に、GHQ民政局の一員となることを志願し、来日した。
ベアテさんは、6ヶ国語に堪能だったこともあって、日本国憲法草案員会にただ1人の女性として加わり、女性の視点から人権委員会で種々の項目を列挙した。

旧民法における女性の法的地位は低かった。
例えば、第788条では「妻は婚姻に因りて夫の家に入る」と規定されており、夫婦同姓制度がとられたが、その背景として、妻は夫の所有物であるとする考え方があった。
「戦後強くなったものは……」と、戦後史における女性の地位向上は目覚しいが、その原点に、ベアテさんという若い女性が居たことは余り知られていないのではなかろうか。
ベアテさんが、日本国憲法草案者の中に居たことは、日本の女性にとって大変な僥倖だったといえよう。

日本国憲法を審議する過程では、男女同権が日本の文化・伝統にそぐわないとして、わが国の国会議員からは強い反対を受けたらしい。
結果として、ベアテさんが提案した多くの条文が削除されてしまったらしいが、以下の2条には、ベアテさんの提案が生きた。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人権、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
第24条 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の効力により維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

映画の製作は、2002年の12月のクリスマスの夜に、元労働省少年青年局長の赤松良子さんと、元ソニー社員の落合良さんが出会ったことにより始まる。
その時のパーティのビンゴの景品に、落合さんが、憲法24条の文言を染めたスカーフを持ってきた。
落合さんとその仲間は、ベアテの映画を作る資金集めに、スカーフを作っていたのだ。
そのパーティに、岩波ホールの総支配人の高野悦子さんがいた。
「ベアテさんの映画を作りたい。でも先立つものが……」という中で、高野さんは、「映画は作ろうと思えばつくれますよ」と言ってのける。
高野さんと赤松さんは、同じ昭和4年生まれで気の合う仲間だった。
「監督は誰にする?」という問いかけに、高野さんは、藤原智子さんの名前を挙げた。

映画は、ベアテさんが、岩手県柴波郡柴波町の野村胡堂記念館を訪ねるシーンから始まる。野村胡堂の生誕地である。
野村胡堂は、銭形平次の作者として知られるが、「あらえびす」のペンネームで、音楽評論の世界でも活躍していた。
「あらえびす」は、胡に相当する言葉だという。
レコード収集家でもあった胡堂のコレクションの中に、レオ・シロタの弾くシュトラビンスキーの「ペトリューシカ」があったのだ。

レオ・シロタは、膨大なレパートリーを誇った。
その演奏様式は、きらきらと輝く音色と、素朴な、ほとんど潔癖とさえ言い得るほどの解釈が特徴的であった、と評価されている。
それを支えていたのは驚異的な超絶技巧である。シロタの技巧を聞いて、かのルービンシュタインが愕然としたというほどだったという。
ベアテさんは、赤ん坊の時から父の弾くシュトラビンスキーを聴いて育った。
映画の中で、3歳のとき、「好きな作曲家は?」と聞かれて「シュトラビンスキー」と答えたという逸話を紹介しながら、「他の作曲家の名前を知らなかったから」とユーモラスな解説をしている。
作品も制作過程も、女性パワー満開の映画である。

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2007年12月 1日 (土)

藤原宮の地鎮具出土

奈良県橿原市の藤原宮の跡で、大極殿南門跡近くの穴から、日本最古の鋳造貨幣といわれる富本銭と水晶 2_2 の入った壺が出土した、と奈良文化財研究所が発表した(11月30日各紙-写真は静岡新聞)。
藤原宮大極殿正門跡の発掘(9月8日の項)」で触れたように、藤原宮は、持統8(694)年の遷都から和銅3(710)年に平城京に遷都するまでの間、持統、文武、元明の3代にわたって使用された宮である。
『日本書紀』には、藤原京(新益京)および藤原宮の地鎮祭について、次のような記述がある(坂本太郎他校注『日本書紀 (5) 』。ワイド版岩波文庫(0311))

(持統5年10月)甲子に、使者を遣して新益京を鎮め祭らしむ。(甲子:27日)
(持統6年5月)丁亥に、浄広肆難波王等を遣わして、藤原の宮地を鎮め祭らしむ。(丁亥:23日)

今回出土した壺は、宮殿中枢部であることから、持統6年の時の地鎮具の可能性が高い。
もちろん宮地の地鎮遺構としては最古の例で、『日本書紀』の記述を裏付けるものであると考えられる。
あるいは、地鎮祭の起源となるものかも知れない、と推定されている。
南門跡(東西39m、南北14m)は、当時の国会議事堂に相当する大極殿の約50m南に位置している。
南門跡の5m西を発掘したところ、門につながる回廊の下から、水や酒を注ぎ入れる壺(平瓶(ヒラカ))が埋められた状態で出土した。大きさは直径20cm、高さ15cmである。
壺を中心に、4つの柱穴(直径20~25cm)があることも確認され、約1m四方を神聖な空間として区画した可能性もあるという。現代の地鎮祭の様子にも通じるものといえるだろう。

2_5X線で壺の内部を調べたところ、注ぎ口に富本銭9枚が詰め込まれ、長さ2~4cmの六角柱状の水晶の原石が 底に9個入っているのが確認された。
当時、広く信仰されていた道教や陰陽道思想では「9」は最も神聖な数字とされ、「長久」の意味があるとされている。
都の繁栄を願って、富本銭と水晶を9つずつ収めた可能性が高い。
富本銭の化学分析によって、アンチモンが検出された。
藤原宮跡から約3.5km南東にある飛鳥池遺跡(明日香村)から出土した富本銭にもアンチモンが含まれていたことから、当時の官営工房と考えられている飛鳥池遺跡で鋳造された富本銭が使われたのではないかと考えられる。

われわれが学校で教えられた頃には、わが国最古の貨幣は「和同開珎」で、「珎」は、「寶」の異体字であり、「ワドウカイホウ」と読む、とされていたと思う。
最近では、「珎」は、「珍」の異体字であり、「ワドウカイチン」と読むとする説が主流だという。
日本書紀 (5) 』の天武12年条には、次のような記述がある。

夏四月の戊午の朔壬申に、詔して曰はく、「今より以後、必ず銅銭を用ゐよ。銀銭を用ゐること莫れ」とのたまふ。乙亥に、詔して曰はく、「銀用ゐること止むること莫れ」とのたまふ。

この天武天皇の時代の銅銭が「和同開珎」ではないか、とする説もあったが、1999(平成11)年1月19日に、明日香村の飛鳥池遺跡で、富本銭が大量に出土し、その鋳造年代が7世紀後半のものであるとされたことから、天武時代の銅銭が富本銭であり、「和同開珎=最古の貨幣」説は否定された。
しかし、富本銭は広い範囲には流通しなかったと考えられ、通貨として流通したかということ自体にも疑問が投げかけられている。

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