当麻寺…④秋櫻子(2)
仁平勝さんは、前掲『俳句のモダン』において、1930(昭和5)年に刊行された秋櫻子の第一句集『葛飾』の序文で、秋櫻子自身が、「多くの人々から万葉調と呼ばるゝに至つた」とする句風について、次の句を抽出して論じている。
葛飾や水漬きながらも早稲の秋
梨咲くと葛飾の野はとの曇りどこが万葉調なのかというと、先の句では、すなわち「水漬き」という言葉があるからだ。「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍」という大伴家持の歌がすぐ浮かぶが、こんな言葉はそれこそ万葉集の時代にしか使われていないのではないか。そうした古語をつかうことが、この句のオリジナリティということになる。
後の句では、やはり「との曇り」が万葉集に出てくる言葉で、……
しかし、それは秋櫻子のオリジナリティではあっても、「主観」の表現であるのかどうか、と仁平さんは問う。
作者の知識ではあっても、作者の心とはいえないだろう、と。
秋櫻子は、1925(大正14年)頃から、俳句表現における革新を試みはじめた。
それは、俳句に「調べ」を導入しようとすることによって行われた。
秋櫻子は、「朝の光」という歌誌に参加するなど、俳句のみならず短歌にも傾倒していた。
「朝の光」の指導者だった窪田空穂が「調べ」という言葉をよく口にしていた。
言葉のひびきや音の連なりであり、秋櫻子は、そこに俳句表現の新しい可能性を感じ、俳句革新の方法論として導入しようと試みた。
どうしたら「調べ」を俳句に導入できるか?
朋友の山口誓子らと共に、『万葉集』等について研究し、万葉作品中の古語やリズムを俳句へ用いた。
つまりは、秋櫻子における「万葉調」である。
秋櫻子の『当麻寺の記憶』によれば、二度目に当麻寺に行ったのは、昭和13年4月末のことで、牡丹の盛りを見ることが目的だった。
自宅の病院を経営していたが、典医の仕事や昭和医専の仕事で、一番忙しい時代だった。
夜行で出かけて夜行で帰るにも、無理をして日程をやりくりしなければならなかった。
その日は好天気で、二上山がくっきりと聳え、上空には片雲も浮かんでいない。
当麻寺の駅は非常に混雑していて、駅から寺まで人の行列だった。
牡丹咲き塔頭に光りあふれたり
塔頭の庭に咲く牡丹の花は満開で、光が塔頭の庭にあふれるばかりだった。
庭は築地垣に囲まれているが、垣は低く、寺苑を通る人は花を見ることができる。
牡丹咲く炎に低き築地あり
牡丹の上に寺の甍がなだれて見える。
牡丹も堂も立派だった。
牡丹燃え甍のなだれ眼にせまる
奈良は、秋櫻子にとって、作句の素材の場であると同時に、表現の方法を鍛える場でもあったといえよう。
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