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2007年12月 4日 (火)

『俳句とあそぶ法』…⑤季語(3)

『俳句とあそぶ法』の「4 禁忌は禁忌-季語(三)」は、季語に関する禁忌として、次の2つに触れている。
「無季」と「季重なり」である。
禁忌というだけに、江国さんは「『無季俳句』というものを、一つのジャンルと考えたり、主義とする態度を、私は排斥する」という。

江国さんが挙げている無季俳句の事例は以下のようなものである。

車輪にふれた人間だ何処だまつくらだ  (北朗)
まひる、舟へでんしんがきた赤いじてんしゃからおります  (詩外楼)
ころりと寝ころべば空  (山頭火)
怒にかつとして夢であつたか  (井泉水)

これらは、無季がどうこうという以前の問題なのではなかろうか。
新しさを衒っただけで、詩趣というものが感じられないだろう。
私は、俳句は詩の一形態だと考えるから、詩趣のないものは、いずれにしろ評価できない。

例えば、「俳句の箱庭へ」というサイトには、「無季俳句」を集成したページがある。何句か引用してみよう。

しんしんと肺碧きまで海の旅  (篠原鳳作)
夢の世に葱をつくりて寂しさよ  (永田耕衣)
一握の砂を蒼海へはなむけす  (吉岡禅寺洞)
戦争が廊下の奥に立ってゐた  (渡辺白泉)

私は、これらの句については、無季であっても立派な俳句だと考える。つまり、詩趣を感じることができるのではないか。

「季重なり」は、「無季」よりももっとやっかいだろう。
「季重なり」とは1つの句には、2つ以上の季語を入れてはいけない、というルールに触れることである。
しかし、有名句にも「季重なり」はある。次の句などは代表的だろう。

目には青葉山ほとゝぎす初がつお  (素堂)

あるいは、次のような句もある。

うめ一輪一りんほどのあたゝかさ  (嵐雪)
小春日や石を噛みゐる赤とんぼ  (鬼城)
枯菊の根にさまざまの落葉かな  (虚子)

まあ、虚子にすら「季重なり」の句があるのだから、それほど気にすることはないようにも思うが、江国さんは、アマチュアがまねするものではない、と説く。
それにしても、新興俳句派が「枯菊」などの言葉を使えば、特高警察の標的になったかも知れない。
名手と評されている久保田万太郎には、とりわけ「季重なり」の句が多いという。

長火鉢抽斗かたく春の雪  (万太郎)
秋風にふくみてあまき葡萄かな  (同)
きぬかつぎむきつつ春のうれひかな  (同)

なめらかな口調でありかつさりげなく、「うまい!」と思わざるを得ない。

また、有名な飯田龍太の次の句も、立派な「季重なり」だろう。

一月の川一月の谷の中  (龍太)

以下、「俳句の雑学」と題するサイトから。
1969(昭和44)年の「俳句」2月号に掲載された「明るい谷間」と題する30句の冒頭に置かれた句である。
中村苑子さんは、「輝くような作品が光を競い合ったなかでも、特に抽んでて格が高く、句柄が悠然としたたたずまいをみせている」と絶賛している。
一月の川とは、龍太の家の裏を流れる狐川のことだという。
「幼児から馴染んだ川に対して、自分の力量を超えた何かが宿しえた」とは龍太の自解である。

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