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2007年11月16日 (金)

渡辺白泉

新興俳句の俳人たちの中で、高屋窓秋と共に気になる存在は、渡辺(渡邊)白泉である。
白泉の句については、既に有名句の評価の際(10月19日の項)に触れた。
私が白泉に関心を持ったのは、もちろん句自体の魅力ということもあるが、その履歴にも惹かれるものがあったからだ。
川名大『現代俳句・上』筑摩文庫(0105)の記載から、白泉の略歴を抜粋すれば以下の通りである。

昭和10年前後に「句と評論」で頭角を現し、昭和14年に「京大俳句」に参加、15年には「天香」の創刊に参画した。
白泉は、想像力を駆使した言葉のリアリティに文学としてのリアリティがあると認識し、社会や国家に対する批判精神を失わず、独特のイロニイの方法によって表現した。
昭和15年「京大俳句」弾圧事件に連座して検挙された。
戦後は俳壇と深く関わることなく、底に生の悲しみを湛えた、心に滲みる珠玉の数々を稿本にひっそりと遺して逝った。

白泉は、敗戦後岡山県で教職に就くが、1951(昭和26)年から静岡県の教員に転ずる。
そして、沼津市立高校の石内直太郎校長の名前を耳にし、面会を求める。
旧制沼津中学の教頭だった石内直太郎は、戦後の焼け野原を前に「これからの日本を作っていくのは戦前のようなエリート教育ではなく名も無き雑草たちである」と唱え、「一匹の迷える子羊を救え」を教育理念に掲げ新たな教育機関、沼津市立高校の設立に尽力した。
白泉は、石内に会って、その人間的魅力に惹かれる。
石内に会ったときの印象を、白泉は次のように語っている(『石内学校への入学』(「鷹峯20周年記念号」所収)。

「ぼくは別に、校長なんどというものではないですよ。みんながそう呼んでくれるだけのことで、ぼくは、ひそかに、学校掃除人という名前で自分を呼んでいるんです。この学校は、きたないですからね。」
わたくしの心には、涙が流れていた。このような校長には今まで出会ったことはなかったが、こういう人間にも、会ったことはないのである。こうした校長のもとで教育される生徒たちは、どんなに幸福であろうかという想念が、わたくしを捉えて放さなかった。即座に、この学校の教師になろうという決心が定まった。

白泉は、昭和27年4月より沼津市立高校で教鞭をとる。就任と共に、社会科研究部の開設を呼びかけたり、影絵芝居を公演したりするかたわら、「沼津高等学校論叢」に、『俳句の音韻』『続・俳句の音韻』という論文を発表する。
また、学外の活動として、沼津市立駿河図書館の「香陵俳句研究会」で会員の指導を行ったり、合同句集「香陵」に『芭蕉と現代俳句』という一文を寄せている。

昭和44年、白泉は、在職中に「渡辺白泉自筆句集稿本」を執筆し、書き終えた2週間後に急逝した。その稿本は、沼津市立高校の白泉の机の中から発見されている。
つまり、死ぬまで沼津市立高校の教員をしていたということであり、私が沼津市内の別の高校に通っていた頃には、現職の教師だったことになる。
もちろん、高校時代の私は、俳句に全く関心も興味もなく、白泉の名前も知らず、市内の高校にそういう先生がいるという噂も聞いたことがなかった。

中村裕『やつあたり俳句入門 』文春新書(0309)は、白泉を、「新興俳句の生んだ最大の作家」と最上級の賛辞を呈し、次のように評している。

渡邊白泉は不幸な作家で、昭和十年代、新興俳句の旗手としてそれを背負って立つほどの活躍をみせていたものの、弾圧事件で検挙の憂き目にあうだけでなく、まとめられる寸前だった句集もそのあおりで出せずじまい。戦後は、俳壇との距離を置いたことや保守化傾向を煽った山本健吉などの不当な扱いによって、一部に知られるだけで、ほとんど忘れられた状態。まったく理不尽な話で、三橋敏雄の手によって『渡邊白泉全句集』(沖積舎)が昭和五十九年に刊行されて以降の、白泉を知らない俳人はモグリと言われるほどの声望の高まりは、当然といえば当然、遅きに失したというぐらいだ。逆にいえば戦後俳句は白泉を忘れ去ることを必要としたということである。

私には、句のレベルについての評価は分からないが、以下のような白泉の句が不思議な魅力を湛えていることは確かだと思う。

街燈は夜霧にぬれるためにある
ふつつかな魚のまちがひそらを泳ぎ
銃後といふ不思議な町を丘で見た
包帯を巻かれ巨大な兵となる
戦争が廊下の奥に立つてゐた

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