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2007年11月 9日 (金)

『密告』…④三谷昭

「京大俳句」グループに対する第2次検挙は、第1次から3ヵ月後の1940(昭和15)年5月3日だった。
被検挙者は、東京在住の三谷昭、石橋辰之助、渡辺白泉、杉村聖林子、大阪の和田辺水楼、淡路島にいた堀内薫の6人だった。
三谷昭、石橋辰之助、東京三らは、新しく「天香」という俳句雑誌を4月に創刊したばかりで、自分たちが検挙の対象になるなどとは考えてもみなかったらしい。

特高に没収されて「幻の最終号」となった昭和15年2月号の「京大俳句」の巻末に、「天香」の広告が載っている。
「天香」創刊のいきさつは次のようであった(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影 』思文閣出版(0507))。
昭和14年の夏ごろ、東京で新興俳句系の総合雑誌出版の機運が盛り上がり、大地主の当主だった石橋辰之助の義兄が、援助を申し出た。

スポンサーを得て、「天香」はハイカラな装丁の雑誌として創刊された。
俳句新興運動の現段階で為さねばならない仕事として、「真に優れた新人の発見紹介」「排他的結社主義の批判」「一般芸術界との交流深化」を挙げ、超結社の新興俳句系文芸誌を旗印にした。
創刊号は売れ行き好調で、2号もすぐに売り尽くすという状況だった。「天香」は順風満帆のスタートを思わせた。
しかし、創刊号発売の1ヵ月前には、既に「京大俳句」の第1次検挙が起きていたのだった。
「特高月報」には、第2次検挙に関して、以下のように記述されている。

本年二月検挙に着手したる京大俳句会関係治安維持法違反事件は、其の後京都府当局に於て鋭意調査中なるが、彼等は新興俳句の名の下に俳句のもつ合法性を巧みに擬装し、反戦反ファッショ運動を通じて共産主義思想の普及に狂奔しつつありたる事実明瞭となりたるを以て、更に本月三日関係者中の意識分子と認められる三谷昭外五名を警視庁、大阪府、兵庫県各当局の協力を得て検挙

三谷昭ら6人は、いずれも京都堀川署に連行され、留置される。
取調べが始まったのは約3週間後で、調書は、「俳句のリアリズム論を、1927(昭和2)年7月にモスクワのコミンテルン常任執行委員会会議で決定した『日本に関するテーゼ』の中の、『日本の共産主義文芸の基盤はプロレタリア・リアリズムによるべし』というプロレタリア・リアリズム」に結びつけようとするものであった(田島和生:上掲書)。

インタビューに応じた昭は、「平畑静塔、仁智栄坊、波止影夫らが京都府警に検挙されたらしいことは噂に聞いていたが、どういう理由で逮捕されたのかさっぱり分からなかった」と語っている。
昭は、赤坂区役所の区史編纂の仕事をしていたが、京都堀川署に移送されて区史編纂の仕事を失った。
調書以外に、作品の自解も迫られた。

ビールあげよ市民に燃える遠い戦火

昭が、「戦争で心を高ぶらせて乾杯をしている光景を詠んだのだ」と解説しても通用しない。
結局、「戦争に行くのは厭だ、と思っても口に出しては言えない。そうした厭な気持ちやわだかまる鬱憤を晴らしたくて、ビヤホールに集まって酔わずにはいられなくなっているところを詠んだ」というような解説をせざるを得なくなる。

「京大俳句」事件の昭和15年は、皇紀2600年が喧伝された年だった。
萬世一系の天皇制が2600年続いていることを奉祝する行事が多数行われた。
「金鵄かがやく日本の……」という「奉祝国民歌・紀元二千六百年」が歌われ、神武天皇をまつる橿原神宮には、正月三が日で125万人が参拝した。
天皇は現人神であり、そうした行事に参加することが、庶民の楽しみだったのだ。

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