稲尾和久さんを悼む/追悼(3)
「鉄腕稲尾」が亡くなった。
私たちの世代の多くの人が、ひとつの時代が終わったような気がしているのではないだろうか。
「(西鉄)ライオンズは遠くなりにけり」である。
まだ70歳だった。
私などは、もっと上の世代の人のように感じていたが、それは稲尾さんがプロ野球で活躍し始めた頃、まだ小学生だったためだろう。
小学生からプロ野球選手を見れば、遙かに上の人のように感じるのが自然な感覚だと思う。
長寿化が進む社会の中で、特に頑健なイメージの強い稲尾さんにしたら、70歳はやはり「若すぎる」ような気がする。
伝説の人だった。
1937(昭和12)年に大分県に生まれる。別府緑ヶ丘高校に入った頃は捕手だったという。
1956(昭和31)年に西鉄ライオンズに入団するが、無名に近い存在だった。
オープン戦で、三原監督が投手を使い果たし、敗戦処理に起用したところ、好投したことから信頼を得た。
入団1年目に21勝6敗。防御率1.06で最優秀防御率。新人王に選ばれ、西鉄ライオンズの日本シリーズ制覇にも貢献した。
2年目(1957)年は、35勝6敗、防御率1.37。最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得。日本シリーズ連覇。
3年目(1958)年は、33勝10敗、防御率1.42。連続最多勝・最優秀防御率。日本シリーズ3連覇。
次の1959年にも30勝を上げ、防御率1.65。3年連続して30勝以上を上げたピッチャーは、空前にして絶後である。
1961年には、実に42勝を上げている。この年も、防御率は1.69だった。
近年の最多勝が10勝台の半ばがほとんどであり、最優秀防御率も2.0を下回ることが稀であるることを考えれば、驚異的な数値というしかないだろう。
しかも、投手の分業化が進んでいる現在と異なり、先発のエースは完投するのが当たり前のように思われていた。
まさに「鉄腕」であり、往時の子供たち(われわれ)にとっては憧れのヒーローだった。
語りぐさは、数知れない。
例えば、プロ2年目の1957年は、7月18日の大映戦から10月10日の毎日戦まで、実に負け知らずの20連勝を上げた。
また、1958年の日本シリーズは、巨人が相手だった。稲尾さんは、5日前から原因不明の高熱に冒されていて、開幕前夜に平熱に戻るものの、第1戦は4回3失点で敗戦投手。
巨人3連勝で、西鉄は土俵際に追い詰められる。
第4戦は、稲尾を先発に立て、被安打10で4点を失うが、勝利を得る。第5戦は、延長戦にもつれこみ、10回裏に自らサヨナラホームランを放って勝利投手に。
連投を続けるうちに次第に調子を取り戻し、第6戦、第7戦も好投して結局シリーズ4勝を上げる。
世の人は、「神様、仏様、稲尾様」と呼んで賞賛した。
稲尾さんのピッチングは、コントロールの良さと連投をこなせるタフさが特徴だった。
そして、真骨頂は、頭脳的な投球術にあったと言われている。
「逆算のピッチング」といわれるもので、何球目に討ち取るかを考えて、それから逆算して配球を決めたのだという。
投球の戦略的なマネジメントと言い換えることもできるだろう。
1956~58年の3連覇時は、魔術師とか知将と呼ばれた三原脩さんが監督だった。
しかし、選手の強烈な個性が際立っていたことを否定する人はいないだろう。
稲尾さんの活躍はもちろんのことであるが、大下弘、中西太、豊田泰光、仰木彬、高倉照幸、関口清治といった野武士軍団と呼ばれた強者たちが揃っていた。
黄金時代の西鉄のことを、具体的な選手名を上げて懐かしがる同世代人は少なくない。
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