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2007年11月18日 (日)

本質移転論と写生

伊藤整に『本質移転論』と題した評論がある。
自ら「私の芸術本質論である」とするもので、「移転」という考えは、「写生」とか「写実」に似ている(が異なるものだ)と言っているので、「写生」について考える際にも参考になるだろう。
伊藤整は、芸術とはあるものの中に作家の見出した生命の働きを、他のもの(又は秩序)の中へ移転させることによって、定着させる操作だ、という。
芸術本質論であるから、演劇にも、音楽にも、散文にも、詩にも適用されるものでなければならず、それ等の働きの重要な部分を最もよく説明するものでなければならない。

作者、または見る人あるいは考える人の把握した本質は、どこにも留まることができない。
文字になったり、音響になったり、数字になったり、色になったりする時にのみ実在し得る。
言葉や色や数字の方には、論理的な構造と快感的な構造とがあって、論理的な構造の中に対象が残留する時は、科学の系統の仕事となり、快感的な構造の中に残留する時は、芸の系統の仕事となる。
快感的な構造というのは、主として模様として意識される反復、またはリズムにある。音数律の反復、頭韻や脚韻の反復、テーマやモチーフの反復などである。
移転によって意味または生命が、反復的な形式の中に定着するときにわれわれが覚える満足が芸の満足である。

例えば、ある役者がハムレットを演ずる場合を考えてみる。
演技というのは、役者が戯曲におけるハムレットの中に移転することである。
役者とハムレットは異質な二つのものであって、それぞれに別の秩序がある。
それが熟練によって、二つの中に共通の性質が見出されて、それが相似形のように重なり合う。
その時、観客は、甲の性質が乙にもあることを見出す。二つの秩序を通過し得たものを、観客は生命の実質として受け取る。

一般に、音楽とか詩のように、より純粋な芸術と考えられている種類の芸の特色は、認識した物象を、物象へ移転するのではなく、音階とか韻律のような物的な秩序へ移入することで行われる。
散文や演劇では、具体的なものへの認識を移転させ重複させるが、詩においては韻律の中へ認識を移転させ、音楽においては音階の中に移転させる。
音階や韻律はそれ自体の中に反復の快感を直接持っているから、その感動はじかに快感として伝わってくる。
散文等においては、この種の快感の直接性はない。

しかし、散文芸術においても、こういう韻律的なものはある。
作家は自分の生活からさまざまな認識を得ている。その生活の過程の中で得たテーマを、小説の中に移転させる。
描く対象の必然性と、生活から得た認識の展開との重複が必然になる。
作者が認識を得てきた源泉の事実と別個に小説の構成を設定することが虚構またはフィクションである。
フィクションを設定することは、不安定な認識を、秩序の中に移転することによって芸を結晶させることであり、詩の韻律や音楽の音階に似た働きと似ている。

芸術的感銘は、移転によってもたらされる反復の快感である。
作品が主人公の生き方とか個性とかに貫かれているということは、言葉の使い方、連想の仕方、事件の進展などが、その人らしさで一貫しているということである。
それは、音楽や絵でいうとテーマの反復であり、作家の認識の型が彼の表現にある傾向を与えることを指している。
小説の場合、ある説話の進行にとっても真実であり、作者の認識においても真実だというとき、元来異質のものであるその両者の条件を同時に満足させると、「真」なる生命が描き出されたということで人を感動させる。
それに韻文の美や文体の美が加わると、「真」なるものと「快感」との合一性によって、日常の現実の中に一般人が把握できない高い喜びを与えることになる。

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