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2007年11月17日 (土)

日本史の謎としての短詩形文学

松本清張他『日本史七つの謎』講談社文庫(9603)は、邪馬台国の時代から高度成長の時代までの日本の歴史を、七つのテーマに絞って通観しようというものである。
七つのテーマは、時間軸の一定の部分に対して、歴史に関心と造詣の深い文芸家などが、歴史学などの専門学者2人に質問をぶつけ、それに関連分野の専門学者が答えるという鼎談によって議論が進む。
しかし、七つのテーマの中で、「ニ、短詩形文学はなぜ日本文学の中心なのか」だけは例外的な構成である。

鼎談は、丸谷才一、大岡信、山崎正和という3人の文芸家によって行われ、専門学者が参加していない。
丸谷さんが小説、大岡さんが詩、山崎さんが劇というように、主たる活動の分野は異なり、3人とも大学で教鞭をとるという履歴はあるが、文芸家というジャンルで括っていいだろう。
いずれも、博学にして多識、古今東西の人間の営みに通じた人たちである。

その3人が、「日本史の謎」としての短詩形文学について語っている。
短詩とは、短歌、俳句、川柳などであるが、現代日本が他の諸国と比べて非常に特徴的なことは、国民の多くが短詩を作ることである。
山崎さんは、日本文化における短詩の占める位置を示すものとして、「新聞・雑誌などの大衆的なメディアの投稿欄の隆盛」と「新年の歌会始め」の2つを挙げる。
確かに、一国の元首が、国民から詩を募集するということを公的な行事にしている国は他にないように思える。

丸谷さんは、短詩形文学の国民への浸透の深さと広さを指摘する。
例えば、現在でも正月に「百人一首」で遊ぶ家庭は少なくないのではないだろうか。あるいは、家でやらなくても、「百人一首」を覚えさせている小学校は結構あるらしい。
私は、意味など後から理解できるもので、とりあえず覚えてしまうえばいいと(今では)考える者であるから、小学校で「百人一首」を教材として扱うことには大いに賛成である。
百人一首は、丸谷さんの言うように、古典鑑賞とスポーツが一体化している稀有な遊びである。
また、斉藤茂吉や高浜虚子が、日本の文学者の中で際立って尊敬されているのも、短歌や俳句を作る人が多いことの反映である。
あるいは、俵万智ほど、大衆的に注目された日本文学者は、戦後例をみないだろう。

短詩形文学は、万葉の昔から日本文学の中心だった。
万葉以前は、歌は文字に書かれないから、様々な形式が許されていたが、『日本書紀』や『古事記』を編纂するときに、農民の間で歌われていた歌が拾われた。
それがやがて、五七、五七、五七という形式に整っていく。五七に収束していくについて、大岡さんは、中国詩の影響があった、と指摘している。

古代において、短詩形文学を革新したのが、柿本人麻呂だった。
人麻呂は、同時代の五七七の旋頭歌とか短歌形式の歌をいろいろ集めて「柿本人麻呂歌集」を作った。
歌われる時代から、文字で書かれる時代への大転換を、人麻呂はひとりで成し遂げたのだった。
人麻呂は短歌の名人で、長歌の後ろに短歌を付けて、短歌によって長歌の内容を抒情的に統一する形式を完成した。
以後、『古今集』に始まる平安朝短歌から一千年以上の間、短歌が日本文学の世界を支配してきた。
鎌倉時代になると、連歌が生まれ、社交の道具として大衆が楽しむ遊び・芸術となり、江戸時代になると俳諧の発句が独立した。

短詩形が日本文学の中心だったわけであるが、丸谷さんは、短いものが日本人は得意で、逆に長編小説は苦手なのだ、という。
これに対し、山崎さんは、抒情詩というものは、本来短いのだという。
エミール・シュタイガーというドイツの文芸学者は、人間の生きる姿勢を、抒情的、叙事的、劇的の3つに分けた。
抒情的とは世界を過去の思い出として感受する態度、叙事的とは現在の展望で、現在は広がりのある時間だが、過去は自分の内部に凝縮していて、広がりがない。
われわれの心に瞬間的に浮かんでくる過去の匂いのようなもの、ある瞬間の感情が抒情だする。
山崎さんによれば、日本の短詩形文学は、抒情詩の典型的な成功例である。

次に、3人は、七五調について論じている。
山崎さんは、日本語というのは、2シラブル(音節)にまとまる傾向がある、という。「ガラス戸」ならば、「ガラス・戸」ではなくて、「ガラ・ス戸」でり、「不知火」ならば、「しらぬ・ひ」ではなくて、「しら・ぬひ」となる。
2音は、重ねると先へ滑っていく。2音を2回繰り返して1音で止めると5音になり、3回繰り返して1音で止めると7音になる。
日本の短詩形は、音の長さをもってリズムにしていることから生まれた。
大岡さんは、詩は口で唱えるものだから、一息で言えるかどうかが重要で、その加減として、五七五七七あるいは五七五が成立するという。

近代以前の短歌は、勅撰和歌集などのお手本があって、それに少しずつ自分の個性を入れていくという作り方だった。
それを覆したのが正岡子規で、自分が今日感じた喜びや悲しみを歌うには、伝統的な様式から脱却することが必要であると主張した。
子規は、それを「写生」と呼んだのだった。

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コメント

 来年は島根県で古事記1300年祭をやるようです。安来節のような短詩形の塊みたいな民謡も、歴史をたどると古事記のスサノオにたどり着くようです。柿之本人麻呂もここで亡くなったという伝説があります偶然の共鳴性といったところなのでしょうか?

投稿: クラシックファン | 2011年12月24日 (土) 21時37分

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