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2007年11月28日 (水)

『俳句とあそぶ法』…②定型

俳句とあそぶ法』に、「3 定型のいのち」という章がある。
江国さんは、「なぜ五七五でなければいけないのか」という不満を含んだ疑問は、「くだらない」と一刀両断する。
それは、「野球はなぜ三四三(三振と四球と三アウト)でなければならないか」と疑問を持つのと同じように、である。
五七五という音節で成り立つフレーズには、日本語特有の快いリズムが備わっていて、だれの耳にもしっくりくることは、一目瞭然である、としている。

「五七五がなぜ快いか」については、「日本史の謎としての短詩形文学(11月17日の項)」でも一端に触れたが、本当のところは良く分からないというべきかも知れない。
しかし、標語のたぐいにも五七五は多用されている。
例えば、「とび出すな車は急に止まれない」「ちょっと待てその一口が豚にする」「まさかよりもしものための火の用心」など、五七五で作られており、リズム感が記憶に残る作用もしていることが分かる。
江国さんによれば、日本国憲法にすら、五七五は用いられている。
日本国憲法第二三条  学問の自由はこれを保障する。

江国さんは、あくまで俳句を「遊び」の対象として捉え、俳句改革とか、革新とか、前衛などの観点から、定型を踏み外した破調を論じるのは、断じて「遊び人」のすることではない、とする。
はじめからルールがそう定められているのだから、それを守るのが遊びの本分である、ということである。
そしてルールの適用は厳しいほどいい、という。
俳句の季題に「雀海中に入って蛤となる」などというものがあるらしい。これだけで十八文字になってしまう。
しかし、この季題でも句は作れるのだ、と実例を示す。

子は雀身は蛤のうきわかれ  (漱石)

蛤に雀の斑あり哀れかな  (鬼城)   斑(フ)

もちろん、種田山頭火や尾崎放哉などに、破調ではあるが名句とされているものがある。

分け入れば水音  (山頭火)

咳をしても一人  (放哉)

しかし、これを俳句と呼ぶべきだろうか、と江国さんは問う。
私も、一行詩として認めるにしても、俳句と呼びたくないという江国さんの気持ちに賛同したい。
このような新傾向俳句の元祖は、子規没後、虚子と袂を分かった河東碧梧桐である。
碧梧桐には、次のような破調の句がある。

菊がだるいと言つた堪へられないと言つた  (碧梧桐)

虚子の花鳥諷詠論や客観写生論の範囲では、自ずから限界があると思う。
碧梧桐を源流とする新興俳句の試みは大いに評価したいと思うが、それも内容如何ではないだろうか。
江国さんの言うように、碧梧桐などの俳句のプロフェッショナルが、さまざまな試みを行うのはある意味で当然であろう。
しかし、「遊び」の範疇で考えるならば、やはり五七五はルールなのだ、と考えた方が分かり易いのではなかろうか。

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