« 『密告』…①小野蕪子 | トップページ | 私の『夏草冬涛』 »

2007年11月 4日 (日)

『密告』…②仁智栄坊

「京大俳句」の第1次の被検挙者の中に、仁智栄坊という変わった名前の俳人がいる。
私は、果たしてどう読むのだろうと思っていたのだが、『密告 昭和俳句弾圧事件』に種明かしがあった。
仁智栄坊とは、ロシア語のニーチェボーをもじった俳号だという。
帝政時代、ロシア農民は地主や官憲から虐げられても、「ニーチェボー」と舌打ちして我慢した。「気にするな、勝手にしやがれ」という感じに近く、英語なら「ネバーマイン」、中国語なら「没法子(メイファーズ)」ということになる。

『密告』の著者、小堺昭三さんにインタビューを受けた仁智栄坊さん(1910(明治43)年生まれで、当時67歳というから、1977(昭和52)年頃のこと)は、「私を俳句弾圧事件の受難者あるいはヒーローとみる見方は誤解で、自分で思うようにやった結果、という気持ちしかない」と最初に断っている。
そして、「甘かったなあ……」と語り始める。
特高警察に象徴される国家権力に対する認識が「甘かった」ということである。
彼ら(俳句弾圧事件の被害者)とて、当時の国家権力の恐ろしさは認識していた。
しかし、事実は、彼らの想定を超える形で進んでいったのだった。

1928(昭和3)年の3月15日、翌昭和4年の4月16日、日本共産党員が大量に検挙され、同党は潰滅的打撃をこうむった。
昭和3年に改悪された治安維持法は、死刑、無期を含む極刑が追加された。内務省が全府県警察部に特別高等課(特高)を設置したのも同年である。
治安維持法の改悪に対して、「山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから……」の名演説を残した山本宣治も、昭和4年に、右翼テロリストの凶刃に倒れる。

そんな時代背景の中で、「花鳥諷詠」などと言っているのは、現実から目を背けるものではないのか?
当然のことながら、さしものホトトギス王国も揺さぶられ、新興俳句が次第に力を強めていく。

水枕ガバリと寒い海がある      (西東三鬼)
蝶落ちて大音響の結氷期      (富沢赤黄男)
絶顛へケーブル賭博者をのせたり (平畑静塔)
血に痴れてヤコブの如く闘へり   (神崎縷々)
白き掌にコルト凛々として黒し    (日野草城)

これらの句群をどう評価すべきか? 
ホトトギス派のように眉を顰めるか、新しい俳句の可能性を切りひらくものとして高評価するか? 
率直に言って、私には良く分からない。
中村草田男、石田波郷、加藤楸邨らは、ホトトギス王国に背を向け、新興俳句運動に多大の理解を示しながら、伝統の有季定型を崩さない立場を取った。
彼らは、「新感覚の人間探究派」と呼ばれるようになるが、今の時点では、その辺りが最もシンパシーを感じる立場のような気がする。

1933(昭和8)年には、小林多喜二が拷問によって虐殺され、滝川事件で知識階級も大きな打撃を受けた。
個人的なテロの対象になったという意味では、「60年安保」の挫折感など比較できないような状況だっただろう。
言い換えれば、いわゆる左傾者は一掃されたも同然だった。
新興俳句のメンバーが、「たかが十七文字くらい……、しかも内容はあくまで社会派であり、ヒューマニズムの発露だ。それをまさか危険思想と捉えられることはあるまい……」と考えたとしても止むを得ないだろう。

仁智栄坊宅に、京都府警の特高刑事がやってきたのは、1940(昭和15)年2月14日午前5時だった。
仁智さんは、大阪外語学校露語科を卒業し、大阪逓信局でソ連領から発信される無線を傍受して、その内容を日報として提出していた。
仁智さんの書斎には、仕事の関係上当然のことではあるが、ロシア語の原書や辞典をはじめ、プラウダなどの新聞雑誌の類がたくさんあった。もちろん、それらは刑事に押収されるところとなった。
それらを根拠史料として、仁智さんに辞表を書かせ、拷問をほのめかしながら、「手記」を強要した。
内務省警保局保安課が厳秘資料としていた「特高月報」には、「京大俳句」の第1次検挙グループに関して、以下のような記述が見られる。

プロレタリアートの実践運動をインテリゲンチャの知性を活用して側面より指導啓蒙すべく企図し、巧みに合法を偽装して人民戦線的イデオロギーに基づく広汎なる活動をなしつつあるものなり。

仁智栄坊:本名は、北尾一水(カズミ)。1910(明治43)年~1993(平成5)年。

|

« 『密告』…①小野蕪子 | トップページ | 私の『夏草冬涛』 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/395349/8482589

この記事へのトラックバック一覧です: 『密告』…②仁智栄坊:

« 『密告』…①小野蕪子 | トップページ | 私の『夏草冬涛』 »