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2007年11月 8日 (木)

『密告』…③平畑静塔

「京大俳句」の第1次の被検挙者の1人である平畑静塔(冨次郎)(1905(明治38)~1997(平成9)年)は、和歌山県の出身で、京都の旧制第三高等学校に進学した。
子規亡き後に主導権を争った河東碧梧洞と高浜虚子、山口誓子や日野草城らも三高で、その伝統が、「京大俳句」を生み出す土壌となったのだろう。
静塔は、京大医学部に進み、精神科の助手を務めるかたわら、リベラリズム志向の「京大俳句」の編集兼発行人となった。

静塔は、1937(昭和12)年に、兵庫県立精神病院の医局長として赴任した。
学生運動の経験もなく、もちろん共産主義者でもなかった。ただ、知識人の1人として、天皇政治と軍国主義への疑問は持っていたし、滝川事件に示されるような自由主義の学風が京大にあったのを幸せに思った、という感性も身に付けていた。
もし、兵庫県立精神病院で俳句弾圧事件に遭わずに平穏な人生を過ごしていれば、いずれ院長になっただろうし、高等官一等というような公務員として最上級の立場になったものと思われる。

1931(昭和6)年に関東軍が満州事変を起こし、日本は国際社会から孤立していく。
1937(昭和12)年7月7日には、北京郊外廬溝橋付近で中国軍と交戦するに至り、政府の不拡大方針にもかかわらず、戦線は、上海、南京と拡大していった。
政府・軍部は、開戦当初日本軍が一方的に勝利するだろうと考えていた。しかし、中国側の抵抗は激しかった。
昭和12年12月、南京が陥落するが、戦争は終結せず、国家総動員体制に移行する。俳人たちの応召も増えていった。

「京大俳句」も創刊5周年記念の昭和13年2月号で「支那事変俳句」を特集し、5月号で「戦争俳句論」を特集し、8月号で「戦争俳句」を特集した。
8月号で、静塔は、「戦争俳句の作り方要諦」を書いて、戦争俳句を、敵地俳句(戦闘・後方)と国内俳句(圏内・圏外)に分類した。
戦争俳句は、昭和14年にピークを迎えるが、秋以降は、戦争体験者そのものが急増し、戦火を想像して作る戦争俳句は激減した。

平畑静塔は、「京大俳句」の他の俳人たちに比べれば、思想取締りに関しては警戒心があったというべきだろう。
小野蕪子が主宰誌『鶏頭陣』の選句後記に書いていた「内務省当局の俳壇に対する思想的警戒は相当に神経をとがらせています」という言葉に反応し、「京大俳句」の昭和11年11月号に、「主幹(蕪子)は帝都の某官営文化事業にたずさはる人であれば、この言は相当たしかな筋からの聞き書きとしていいだろう」と書いた。
しかし、内務省からの動きがないままに、いつの間にかその警戒心も薄れていた。
京都府警の巡査部長が平畑静塔宅を訪れたのは、小野蕪子の言葉を忘れかけてしまった頃であった。

静塔の患者の中に、憲兵の拷問を受けて精神に異常を来たした人がいた。憲兵に取調べを受けるよりは、特高警察の方がマシだと判断し、治安維持法違反を容認したのだという。
そして、警部は、「各派プロレタリア俳句の展望」という文章を書かせたという。秋元不死男の手記と同様のものであろう。
その文章をもとに、逮捕すべき人間を特定するように迫られたらしいが、それは断固拒否した。

静塔は、検挙の半年後の昭和15年8月21日に起訴された。15人の「京大俳句」関係の被検挙者のうち、起訴は静塔、波止影夫、仁智栄坊の3人で、9人は起訴猶予、3人は嫌疑不十分で釈放された。
起訴処分になって、県立病院は依願免職となった。また、提出済みの博士論文が教授会で審査されなくなり、地銀支店長だった父親からは勘当された。
昭和19年10月応召し、南京の陸軍病院に派遣された。
戦後、博士論文が改めて審査され、学位を得て関西医科大学の精神科教授の職に就いた。
しかし、一度貼られた「アカ」のレッテルがついてまわる。転職を余儀なくされるなど苦労した末に、関西から遠く離れた宇都宮の精神病院に終生の職の座を得て、俳人として生涯を全うした。

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