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2007年11月 1日 (木)

無季容認論と社会性

俳句といえば、「五・七・五」の定型に「季語」を折り込んで作る、と教えられた。
しかし、新興俳句運動は、虚子の花鳥諷詠の客観写生に反発して新しい素材を求めようとしたから、季語不要論に傾くことになりがちであった。
「京大俳句」で無季俳句を積極的に進めたのは、吉岡禅寺洞であった。
禅寺洞は、「俳句は季感、季題が第一義ではなく、十七字が基で、生活を詠う必要がある。季は絶対ではない」と主張した(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影 』思文閣出版(0507))。

禅寺洞に師事した篠原鳳作は、次のような新鮮な作品を発表した。

しんしんと肺碧きまで海のたび

「京大俳句」の中でも、当初は無季俳句に対する態度はまちまちだったが、次第に無季を容認する会員が増えていった。
水原秋櫻子の主宰する「馬酔木」が有季定型を固守していたが、無季に批判的な山口誓子は、昭和10年に「京大俳句」の顧問を退いて、「馬酔木」に参加した。
誓子は、「『俳句を詩に』ではなく『俳句に詩を』」と主張し、「季と十七音の伝統を輝かす以外に俳句の正当な発展はない」という立場をとった。

誓子が顧問を辞すと、「京大俳句」では、無季容認論がさらに強まっていった。
山口誓子は、新興俳句運動の潮流を、「季」に対する態度によって次のように腑分けしている(田島和生『新興俳人の群像 』)
1.歴史派
「季」に意味がある以上、「季」を守れ。「馬酔木」など。
2.無季容認派
無季でも有季でもよし。「句と評論」(松原地蔵尊主宰)など。
3.超季感派
「季」を捨てよ。「天の川」(禅寺洞主宰)、「旗艦」(日野草城主宰)など
4.その他
一定の主張はない。「京大俳句」、「土上」(嶋田青峰主宰)、「火星」(岡本圭岳主宰)など。

1931(昭和6)年に満州事変が起き、翌年満州国の建国が宣せられるが、国際世論は満州国を承認しなかった。
日本は、昭和8年に国際聯盟を脱退するが、それと連動して、「滝川事件」に見られるように、共産主義者だけでなく、信仰や表現の自由に対する取り締まりが厳しくなっていった。
昭和10年12月8日には、第二次大本事件が起き、治安維持法が宗教団体にも適用されるようになる。
出口王仁三郎他の教団幹部が検挙されると共に、綾部・亀岡の教団施設が跡形も無く破壊され、関連施設は競売に付された。激しい拷問によって16人が死亡するという徹底した弾圧だった。

昭和11年2月26日、皇道派の青年将校が兵を率いて武力決起した「二・二六」事件が起き、社会不安がさらに高まった。
こうした時代背景の下で、俳句界でも社会性に対する関心が深まり、「生活に根ざした俳句」として、「土上」の古家榧子によってリアリズム俳句が唱えられた。
これに、東京三(戦後秋元不死男)らが賛同してリアリズム俳句が広がっていった。
「京大俳句」では、井上白文地、三谷昭らが、時代の不安感を捉え、軍国主義を暗に批判するような作品を発表するようになる。

アカデミの学の青ざめゆく世なり(井上白文地)

戒厳司令!! 黄濁の空に雪歇みぬ(三谷昭)  (歇(ヤ)みぬ)

三谷昭は、「京大俳句」の昭和11年9月号に「燈火管制」の題で反戦のニュアンスを強めた俳句を発表した。

支那夫人空襲仰ぐ瞳の愁ひ
反戦の意志は言ふまじ犬と遊ぶ
ひとらたゞ燈管の灯を消すならひ

さらに12月号には、波止影夫が「菊と時代」と題して天皇制(皇軍)を暗に風刺した作品を発表した。

菊さかり将軍『赤』の子に泣けり
失業に國歌がさぶい菊の頃
少年の描けり黄金の色の菊

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