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2007年11月11日 (日)

『密告』…⑥藤田初巳

藤田初巳は、「広場」の主催者だった。嶋田青峰と同じ、1941(昭和16)年2月5日に検挙された。
「広場」は、葛飾広場の会、新潟広場の会、神戸広場の会、仙台広場の会……、といった全国組織の俳句集団だった。
会員には労働者が多かった。

初巳は、1905(明治38)年10月、東京の本所に生まれた。法政大学の国文科を卒業後、商業学校で教鞭をとるかたわら、「句と評論」誌を発行していた。
1937(昭和12)年、神田の三省堂に入社し、国語の教科書の編集に係わっていた。
三省堂には、渡辺白泉、阿部筲人がいて、俳句仲間だった。
三省堂は、昭和15年から『俳苑叢刊』というシリーズの俳書を刊行した。1人1巻で、ホトトギス派も新興俳句派も網羅していた。

『俳苑叢刊』を刊行し始めて間もない頃、小野蕪子から出版部長の永井茂弥宛で、「『俳苑叢刊』の刊行は結構だが、藤田初巳、渡辺白泉、阿部筲人の3人は赤い俳人であるから注意すべきである」という旨の手紙が届く。
警告通りに(?)、渡辺白泉は昭和15年5月3日の「京大俳句」の第2次検挙で拘束され、翌年には藤田初巳も検挙されることになった。

初巳も「手記」を書かされた。
『密告』の作者小堺昭三さんは、初巳の書いた「手記」の一部を実見した。「広場」に掲載した作品の解説である。おそらくは、ボツになった手記の下書きらしい。
例えば、

武器商人颱風の夜の地下に啖ふ

戦争ニヨッテ最モ大キナ利潤ヲ占メルモノハ、武器製作業ノ資本家デアリマス。彼等ハ、戦場ニオケル兵士タチノ困苦、銃後ニオケル国民大衆ノ窮乏ヲ犠牲トシナガラ、時運ニ乗ジテヒソカニ利潤ヲ追ヒ私腹ヲ肥スコトヲ忘レマセン。資本主義時代ニオケル戦時下ノ武器商人ノ経済的立場ハツネニコノヤウデアリマシタガ、今回ノ日支事変ニオイテモ、事変初期ニオケル戦時統制経済ノ制度ガ確立実施セラレル以前ニハ、同ジ現象ガ繰リ返サレマシタ。
地上ヲ吹キスサブ颱風(=戦争ニヨル社会的不安)ヲヨソニシテ、華麗ナ地下グリルノ静謐ナ夜ノ椅子ニ肥エタ腰ヲドッシリト卸シ、キラビヤカナナイフトフォークトヲ握ッテ分厚ナ獣肉ヲ魚肉ヲヒソカニ貪リ啖ッテヰル武器商人ノ姿ハ、ソノママ戦争トイフ餌食ヲ貪食シテヰル獣ノ姿デアリマス。第一句ニオイテ作者ハ、憎悪ノ眼ヲ以テコレラ武器資本家ノ姿ヲ描カヲト致シマシタ。

初巳は検挙されてから310日目に、巣鴨の東京拘置所に移された。その間、1度も入浴を許されず、全身が臭くなってしまった。
東京拘置所に移されたのは、昭和16年12月8日、日本海軍が真珠湾を奇襲した日だった。初巳は、代々木署から拘置所へ送られる護送車の窓から、軍艦マーチの流れる街を眺めた。
昭和17年2月6日、東京地方裁判所に連れて行かれた。
3日後の2月9日に、検事から「本日釈放、起訴猶予とする」と告げられた。

シャバに出て1週間目に、シンガポール陥落が報じられた。天皇陛下がご満悦なさっているという報道を、初巳は眉をひそめながら読んだ。
三省堂の職を失ったが、再就職の場はなく、一家の生活は困窮を究めた。

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