« 無季容認論と社会性 | トップページ | 『密告』…①小野蕪子 »

2007年11月 2日 (金)

『さかしまに』

新興俳句弾圧事件を素材にした小説に、五木寛之さんの『さかしまに』(齋藤慎爾編『俳句殺人事件―巻頭句の女 』光文社文庫(0104)所収)がある。「オール讀物」の75年5,6月号に連載された作品である。
「私」は、商社の社員に商業ロシア語会話を教えたり、ソ連の出版物の記事や論文をダイジェストする仕事で生計を立てている。
「私」がつき合っている佐伯瑶子は、1943年生まれで、劇団の看板女優であり、NHKの連続ドラマに出演したりしている。

ある日、瑶子は「わが父を語る」というようなテーマで取材を受けた。
瑶子の両親は、瑶子が1歳のとき離婚し、父は各地を転々としたあと、朝鮮戦争が始まった1950年前後に九州の病院で死んだ。
だから、瑶子には父親の具体的な記憶がない。
父の名前を聞いて、取材をしていた老記者は驚いたような様子を見せる。

瑶子の父は、昭和の初期から10年代にかけて活躍した俳人であるが、最近の研究家たちは余り取り上げることがない。
当時の俳壇では<カササギ>に拠るグループが、内部にさまざまな対立をはらみながらも巨峰として存在していた。その伝統的な創作態度にあきららぬ若いエネルギーが、新しい俳句運動をまきおこした。
<カササギ>の伝統的な創作姿勢は、花鳥諷詠・季題尊重・客観写生と説明されていて、<ホトトギス>のことを指していることは、俳句史に関心を持つ人たちには明らかである。
また、<カササギ>内部の四天王と呼ばれた俊秀たちが俳句の近代芸術化を試みた、とされているのは、「4S」の秋桜子・青畝・素十・誓子のことである。

四天王の一人、春楊子(=秋櫻子)が<カササギ>を脱退した1931年が新生俳句運動(=新興俳句運動)のプロローグだ、というのも、史実を反映した背景設定である。
瑶子の父は、<カササギ>の雑詠欄に選ばれるような実力を持った俳人だったが、春楊子に先立って<カササギ>から離れて孤立の道を歩む。
新生俳句の俳人たちは、その創作姿勢や作風に大いに敬意と好感を抱いていた。

そして、俳人弾圧事件が起きる。
瑶子の父は、金沢市の中学で教鞭をとっていたが、昭和14年夏、突然に警察に連行され、京都の堀川署に留置される。
2週間後に釈放され、地方俳誌に自己批判の文章を発表し、これからは国策にそった国民俳人として生きていく決意を述べる。
一種の転向声明である。
留置の2週間に何があったのか?

釈放された後、瑶子の父はしばしば京都を訪れて特高と会談していた。
その会談の内容は、京都府の公安担当の係官を集めて、俳句解釈の講義を行うことだった。
<新生俳句>にはさまざまな考え方があったが、当局の目からすると、それらは何となく危険な匂いのする主張だった。
しかし、個別の作品について、反国家性や非国民性を明確にすることは、難しい作業だった。転向俳人の瑶子の父は、<新生俳句>の作品を解剖し、危険思想を摘出する作業の手伝いをした、という噂が流れた。

真相は?
<新生俳句弾圧事件>は、思想犯の追及に辣腕をふるっていた青年警部と、黒野寒流子という俳人の共同戦線によるものだった。
青年警部と寒流子は、東大時代に同窓の友人だった、という設定である。自分の主宰誌を創刊したばかりの寒流子は、<新生俳句>の掃討によって、俳壇の中での自分の地位の確立を図ろうとした。
警部は、大本教の不敬事件にかかわり、思想問題追及を武器に出世をしようと考えた。
瑶子の父は、寒流子をカモフラージュするために仕立てられた「いけにえ」だった。
しかし、瑶子の父は、反戦・厭戦の意志を、一種の暗号として残していたのだった。

|

« 無季容認論と社会性 | トップページ | 『密告』…①小野蕪子 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/395349/8247780

この記事へのトラックバック一覧です: 『さかしまに』:

« 無季容認論と社会性 | トップページ | 『密告』…①小野蕪子 »