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2007年11月

2007年11月30日 (金)

『俳句とあそぶ法』…④季語(2)

『俳句とあそぶ法』の「5 動不動-季語(二)」の章は、次の句を巡る論争から始まる。

鶏頭の十四五本もありぬべし  (子規)

この句については、既に「俳句評価の難しさ(8月24日の項)」や 「有名句の評価…①子規(10月17日の項)」で触れている。
江国さんは、この句をめぐる論争を「有名な水かけ論争」と評している。要するに、論理的に結論が出ない問題だ、ということだろう。

この句については、上記の「有名句の評価」のところでもみたように、現代俳人の間でも評価が揺れているようである。
それは、主として「ありぬべし」という言葉の使い方をどう読み取るか、というところにあった。
江国さんによれば、「十四五本」という鶏頭の本数に関して、「なぜ、四、五本ではいけないのか、二、三十本でもいいではないか」と論争になった。
そして、山口青邨の「この句はその数も面白いし、『ありぬべし』の表現が、一句をひきしめて人に迫ってくる。あまりの単調さもこれで破られている」という評価を紹介している。
おそらくは、江国さんも同意見ということなのだろう。

ただ、「なぜ鶏頭でなければならないか」と、季語の部分が論点になってもいいのではないか、と問う。
「雛菊の十四五本もありぬべし」「曼珠沙華十四五本もありぬべし」「水仙の十四五本もありぬべし」と挙げていけば、春夏秋冬すべてに合う。
つまり、季語の必然性がない、ということであり、それを「動く句」とする見解があることを紹介している。
志摩芳次郎という人は、「はぜ舟の十四五艘はありぬべし」「花見客十四五人は居りぬべし」と置き換えられる、と批判しているという。

次いで、これも「有名句の評価…④虚子(10月20日の項)」でも触れた次の句を取り上げる。

流れ行く大根の葉の早さかな  (虚子)

江国さんは、「私のもっとも好む句」だとしている。
写生のお手本とされている句であり、上記の「有名句の評価」においては、現代俳人たちもこぞって絶賛している。まあ、名句中の名句ということだろう。
確かに、風景のポイントを掬い取った名句といわれればその通りだと思うが、皆が皆賞賛するものには反発したい、という生来の天の邪鬼が頭をもたげてくる気がする。
江国さんは、この句の良さがわからなければ、十回十五回とわかるまで読み返せ、と説いているが、そして繰り返して鑑賞しているうちに、良さがわかることが多いことは認めるものの、「高屋窓秋(11月15日の項)」の「映画のわずか数秒間にも劣る描写俳句」という評の方が私の感性には適合している。

季語の“動・不動”という物差しに照らせば、「大根の葉」は先ず動かないが、名句であって、季語が動く句はいくらでもある、と江国さんは説く。
例として、

しぐるるや僧も嗜む実母散  (茅舎)

の「僧も嗜む実母散」は、「根岸の里の侘び住まい」と同じように、どんな上五にも合うだろう、とする。
この実母散については、「1 俳句をどうぞ」の章では、次の句を紹介している。

風邪ひいて母の匂ひの実母散  (万木)

万木とは、かつての自民党党人派代議士の代表格として、あるいは新幹線の岐阜羽島駅の強引な誘致などで有名な故大野伴睦の俳号である。
句と人物像が乖離しているように思うが、そういう意外性も俳句の面白さの一つなのだろう。

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2007年11月29日 (木)

『俳句とあそぶ法』…③季語

俳句とあそぶ法』では、「季語」に、「4 よくぞ日本に」「5 動不動」「6 禁忌は禁忌」と3章を費やしている。それだけ、俳句における「季語」の位置づけを重視しているということだろう。
季題と季語の関係について、季題は、この題で詠めと宗匠に命じられた段階の言葉で、それが一句の中に使われたとき季語になる、という使い分けがあることを紹介しつつ、江国さんは、いまのところ同義に用いられている、としている。

江国さんは、季題(季語)というものは、四季がはっきりしている日本の風土に育まれたおのずからなる知恵の集積である、とする。
季題(季語)の一語一語は、日本だけに存在するような繊細で微妙な季節感を示している。
日本だけのもの、ということは、例えばBAIU(梅雨)という言葉が、翻訳が不可能で国際気象用語になっているという、などということである。
降りみ降らずみ(降ったり降らなかったり)」という表現なども、日本語に固有のものだろう。
と上げていけば、キリがない。

日本という国は、まさに季語の宝庫であって、豊かで陰影に富んだ季節感を味わえる国である。
『徒然草』の十九段で、吉田兼好も、「折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ」として、四季の移ろいの興趣を詳しく綴っている。
あるいは『枕草子』で、清少納言は、「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびき……。夏は夜……。秋は夕暮れ……。冬は……」と、冒頭から四季論を展開している。

季語を集めたものが、「歳時記」や「季寄せ」である。
Amazon.co.jpで検索すると、「歳時記」で2,395件、「季寄せ」で68件がヒットした。
「歳時記」の方は一般名詞的に、例えば「子育て歳時記」のような用例があるので、「俳句歳時記」に絞り込んで検索してみても797件ある。
いかにたくさんの「歳時記」「季寄せ」が刊行されているかが窺われよう。

季語は、暦と密接に関連している。
暦については、「三嶋暦と南部絵暦(11月12日の項)」で簡単に触れたが、明治の新政府になって、太陰暦(旧暦)から太陽暦(新暦)に切り替わった。
このことが、季語に関しても微妙な影響を及ぼしている。
例えば、「春」という言葉は、次のように使い分けられている。
・二十四節季に基づく節切りでは、立春から立夏の前日まで
・旧暦による月切りでは、一月・二月・三月
・新暦による月切りでは、三月・四月・五月
・年度では、四月・五月・六月
・天文学では、春分から夏至まで
・南半球では、半年ズレ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5

ある季語がどの季節に属するか、簡単なようで意外に難しい。
「きっこのブログ」に「検定」の問題が載っているので、関心のある人は挑戦されたし。
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2007/11/post_2286_1.html
残念ながら私は不合格だった。

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2007年11月28日 (水)

『俳句とあそぶ法』…②定型

俳句とあそぶ法』に、「3 定型のいのち」という章がある。
江国さんは、「なぜ五七五でなければいけないのか」という不満を含んだ疑問は、「くだらない」と一刀両断する。
それは、「野球はなぜ三四三(三振と四球と三アウト)でなければならないか」と疑問を持つのと同じように、である。
五七五という音節で成り立つフレーズには、日本語特有の快いリズムが備わっていて、だれの耳にもしっくりくることは、一目瞭然である、としている。

「五七五がなぜ快いか」については、「日本史の謎としての短詩形文学(11月17日の項)」でも一端に触れたが、本当のところは良く分からないというべきかも知れない。
しかし、標語のたぐいにも五七五は多用されている。
例えば、「とび出すな車は急に止まれない」「ちょっと待てその一口が豚にする」「まさかよりもしものための火の用心」など、五七五で作られており、リズム感が記憶に残る作用もしていることが分かる。
江国さんによれば、日本国憲法にすら、五七五は用いられている。
日本国憲法第二三条  学問の自由はこれを保障する。

江国さんは、あくまで俳句を「遊び」の対象として捉え、俳句改革とか、革新とか、前衛などの観点から、定型を踏み外した破調を論じるのは、断じて「遊び人」のすることではない、とする。
はじめからルールがそう定められているのだから、それを守るのが遊びの本分である、ということである。
そしてルールの適用は厳しいほどいい、という。
俳句の季題に「雀海中に入って蛤となる」などというものがあるらしい。これだけで十八文字になってしまう。
しかし、この季題でも句は作れるのだ、と実例を示す。

子は雀身は蛤のうきわかれ  (漱石)

蛤に雀の斑あり哀れかな  (鬼城)   斑(フ)

もちろん、種田山頭火や尾崎放哉などに、破調ではあるが名句とされているものがある。

分け入れば水音  (山頭火)

咳をしても一人  (放哉)

しかし、これを俳句と呼ぶべきだろうか、と江国さんは問う。
私も、一行詩として認めるにしても、俳句と呼びたくないという江国さんの気持ちに賛同したい。
このような新傾向俳句の元祖は、子規没後、虚子と袂を分かった河東碧梧桐である。
碧梧桐には、次のような破調の句がある。

菊がだるいと言つた堪へられないと言つた  (碧梧桐)

虚子の花鳥諷詠論や客観写生論の範囲では、自ずから限界があると思う。
碧梧桐を源流とする新興俳句の試みは大いに評価したいと思うが、それも内容如何ではないだろうか。
江国さんの言うように、碧梧桐などの俳句のプロフェッショナルが、さまざまな試みを行うのはある意味で当然であろう。
しかし、「遊び」の範疇で考えるならば、やはり五七五はルールなのだ、と考えた方が分かり易いのではなかろうか。

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2007年11月27日 (火)

『俳句とあそぶ法』…①江国滋さん

江国滋さんに『俳句とあそぶ法』朝日新聞社(8402)(朝日文庫版(8701))という著書がある。
われわれの「選句遊び」(「選句遊び」(8月22日の項)、「選句遊び余談」(10月15日)の項)は、言ってみれば「俳句であそぶ法」で、俳句を遊びの材料にしているわけであるが、江国さんの著書は、作句の心構え全般について説いた本格的な俳句解説書である。
「遊ぶ」は「play」であり、ルールを守ることが重要である。

江国さんは、「遊びだからこそ、まじめに取り組む必要がある。きちんとルールを守って厳格に遊んでこその遊びであって、すこしでも箍(タガ)がゆるんだら、たちまち遊びの興趣がそがれること、麻雀でも同じである」としている。
そのルールを豊富な説得力に富む実例を織り交ぜなから解説したのが、『俳句とあそぶ法』である。
この書は、俳句ブームの火付け役になった、とされている。

江国さんは、大学卒業後、新潮社に入社し編集部員として勤務した後、文筆業に転じ、随筆・紀行・評論などの分野で活躍した。
執筆活動のかたわら、小沢昭一さんや永六輔さんらと共に、「東京やなぎ句会」を作り、句作に親しんだ。
滋酔郎の俳号を使っていた。
お酒が好きで、毎晩酔っぱらっているので、本名の下にいちばん身近な一字をつけ、「滋酔」としてみたがなんとなくすわりが悪いと感じ、「郎」の字を加えたと自解している。

仏文学者の辰野隆さんが「隆酔郎」と名乗っており、じじいになったら「郎」を「老」に変える、と言っていたのにあやかろうという気持ちもあったと書いている。
しかし、「郎」を「老」に変える境界線をどこに設定するか、その日を自覚するのが容易ではなさそうである、と予想している。
結局は、その日が来る前に病魔に襲われ、亡くなられてしまったのだが。

食道ガンの告知を受けたのは、1997(平成9)年2月6日だった。それから闘病生活に入るが、8月10日に帰らぬ人になった。
その闘病生活の記録を『おい癌め酌みかはさうぜ秋の風』新潮社(9712)として刊行している。
タイトルの句は、8月8日に誰もいない病室で原稿用紙の裏側に書き付けた辞世の句で、「敗北宣言」という「前書き」が付いている。
『俳句とあそぶ法』にも「8 前書きの効用」と題する章があり、「一句の前にごく短い文言を添えて、句意を補ったり背景を説明したりするするのが『前書き』である」と解説している。
辞世の句の「前書き」は、見事な事例ではあるが、余りにも悲しすぎる事例である。

また同書には「12 もっけの病気-病中吟」と題する章もある。
「俳句史に残る名句が、どれだけ病床から生まれているか」とし、「いっそのこと、病気にでもなって、入院でもして、手術の一つでも受けたら、あッとおどろく病床名句があとからあとから雲のごとくわいてくるかもしれない」と書いている。
そして、以下のような文を綴る。

闘病生活が、人間を思慮深くさせたり、繊細にさせたり、ひとまわり成長させたりするということは、よくいわれるところだが、激痛や苦しみにのたうちまわるおのれの姿を直視する勇気と、それを客観的にえがく俳人たちの粘着性には、ほとほと敬服する。

『おい癌め……』には、約半年で500句が遺されている。
「激痛や苦しみにのたうちまわるおのれの姿を直視する勇気と、それを客観的にえがく俳人たちの粘着性」という評言は、まさに江国さんにこそ当てはまるのではなかろうか。、

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2007年11月26日 (月)

『知的生産の技術』…④WIKI

私はメーカーの技術者を体験した後、考えるところがあってリサーチャーに転じた。
リサーチャーというのは、シンクタンクの研究員のことで、与えられた(もしくは自主的に設定した)課題について調べ上げ、それを報告書として取りまとめることを業務とするものである。
だから、モノの技術者から情報の技術者への転職ということができる。
モノの技術者の場合には、テクニカル・スキルの深化が求められたのだが、情報の技術者の場合は、テクニカル・スキルをどう考えたらいいのだろうか? 
自分たちに必要なスキルは何なのかを議論したあげく、「思考技術」という言葉に行き着いた。
つまり、情報の技術者の場合、テクニカル・スキル≒コンセプチュアル・スキルということになる。

しかし、情報の技術というのは、仕様(スペック)を規定するのが難しく、品質の評価基準も必ずしも明確ではない(品質の客観的評価については、ある程度の共通理解が成立するとは思うが)。
ということは、往々にして、作業にキリがない、ということになりがちである。
納品前などに徹夜になってしまうことは、当たり前のような雰囲気だった。

先日、久しぶりに時間の制約のない(つまり状況によっては徹夜も辞さない)ミーティングに参加する機会があった。
大学で研究されてきた技術的なシーズを、事業として生かす方策を考えるための、何社かが寄り集まったアドホックな組織である。
そこでの共同作業を、方向性が明確になるまで煮詰めてみよう、という趣旨だった。
その時に、某教授の議論の整理の仕方に、「知的生産の技術」の現在の姿を見た思いがしたのだった。

それは、議論をしながら、パソコンで議論の内容を粗整理し、それをプロジェクタで投射しながら、さらに議論を重ねていく、というものである。
会議の参加者は、それぞれの考えを発表するのであるが、投射している整理案に加除修正を加え、リファインしながら、議論を収束させていく。
参加している企業は、業種・業態も規模もさまざまで、それぞれ得意分野が異なっている。

昔から、「3人寄れば文殊の知恵」ということが言われてきた。
特別頭の良い者でなくても、3人集まって相談すれば良い知恵が浮かんでくる、というような意味である。
ネット上の、利用者参加型の百科事典「WIKIPEDIA」などは、まさに「3人寄れば……」の実践ではないかと思う。
「WIKIPEDIA」は「WIKI」+「Encycropedia」の造語であるが、「WIKI」は、ハワイ語の「Wikiwiki」が語源で、「速い」「急ぐ」「形式張らない」といった意味があるらしい。
あるいは、「What I Know Is(私の知っていること)」の略だとも言われる。

大勢の人が係わる作業では、責任の所在が不明確になるような気もするが、どうやら大勢の目に晒されることが、客観的な評価を担保しているらしい。
悪貨が良貨に駆逐されるというネット上の法則が働くわけである。
企画などの作業で行われるブレーンストーミングでは、他人の意見にどんどん付け加えていくことが奨励されている。
新しいアイデアというのは、既存のアイデアの新しい組合せである場合が多い。
その新しい組合せは、もともと思考パターンの異なる他人の方が確率が高いということであろう。
また、事業計画を検討している場合、そのつもりではなくても、都合のいい仮定を設けていたりすることに陥る危険性がある。
「WIKI」は、独善的な仮定に陥る危険性を軽減するのにも有効だろう。

思考は、何も材料がないところでは展開しにくい。
材料になるものはさまざまであるが、視覚的な刺激の比重が圧倒的に高いといわれている。
図や文字で表現してみることによって、自分が「何を分かっていないか」を知ることができる。
「自分が知らないということを知る」ことが、さらなる探究への牽引力になる。
作文の効用はそういうところにもあるのではなかろうか。
プロジェクタで投射することは、思考の材料を共有しようということである。
「WIKI」あるいはオープン化は、これからの「知的生産の技術」のキー・ファクターだと思う。

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2007年11月25日 (日)

『知的生産の技術』…③日本語

前記の短い引用からも分かるように、梅棹さんの文章は「ひらがな」が多いのが特徴である。
平易な文章を心掛けているということもあるのだろうが、「かなタイプライター」という道具を使っていたことが大きな要因になっていると思われる。
梅棹さんが『知的生産の技術』に紹介されているさまざまな技術にトライアルしていた頃、英語等で論文等を発表する必要のある人たちは、(ブラインドタッチか否かは別として)自分でタイピングをしていた。
しかし、日本語のタイプライターは、表裏反転した漢字を一字一字選び出して文章を作成するようになっており、漢字の配列を覚える必要があって、素人が簡単に入力できるようなものではなかった。
邦文タイピストは、特殊な技能の専門職種として位置づけられ、養成のための専門機関が各地にあった。

インターネットの普及によって、言葉の世界では、英語がグローバル・スタンダードの位置を占めるようになっている。
しかし、知的生産という面から考えると、日本語はまことに素晴らしい特性を持っているといえるだろう。
情報の表示形態にはさまざまなものがあるが、知的生産ということに関して言えば、中心になるのは文字である。
文字には、言葉の音を記号として定着させる表音文字と、言葉の意味や概念を記号として定着させる表意文字とがある。かな、カナ、alphabetなどは前者であり、漢字は後者である。
それぞれ情報伝達上の長所と短所があるが、両者をうまく併用していることにおいて、現代の日本語以上の言語は存在しないといっていいのではなかろうか。
漢字、かな、カナ、alphabetだけでなく、場合によってはハングル文字やアラビア文字などのすべての文字を混在させて使用することができるのである。

それにより、全世界の情報を対象に、あらゆるジャンルの用語を利用することができる。
表音文字だけの社会(たとえばアメリカ)や表意文字だけの社会(たとえば中国)ではそういうわけにはいかない。
特に注目すべきは,漢字の機能だと思う。
英語では、1字で意味が完結している単語は「I」ぐらいしかないないが、漢字は、1字で特定の概念を表示することができる。
同音意義語も、愛、哀、藍、間、相、会い、合い、遭いなどの使い分けができるので、表現の豊富さが担保される。
また、2字、3字、4字と組み合わせることにより、より複雑で高度の概念を表示することが可能である。

例えば、「情」と「報」というそれぞれ意味を持つ語を組み合わせて「情報」という新しい概念を作り、それに動きの方向性を示す「化」をつけて「情報化」、さらに程度を示す「度」を付けて「情報化度」などを造語していける。
必要ならば、さらにこれに「指標」や「比較」などを組み合わせ、「情報化度指標」や「情報化度比較」などとすることも可能である。
「現」と「代」、「組」と「織」、「格」と「差」、「感」と「覚」など、これまた際限がない。

敗戦後に国語改革の動きがあった時に、志賀直哉などが「国語廃止論」を唱えたことがあった。志賀は、雑誌「改造」の1946(昭和21)年4月号に掲載された『國語問題』という小文で、次のように言っている。

そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。六十年前に森有禮が考へた事を今こそ實現してはどんなものであらう。不徹底な改革よりもこれは間違ひのない事である。

後に、志賀は、(日本語の乱れが進む中で)この提言が単なる一時の思いつきではなく、確信であったことを吐露している。
「小説の神様」とも言われた人の判断だし、私が云々すべきことではないのかも知れない。
しかし、かな漢字変換が常態になり、かなと漢字の混在する文章を自由に作成でき、漢字の持つ優れた特性を有効に活用できるようになって現時点で考えれば、「何を考えていたのやら!?」という気がするのは事実である。

梅棹さんが利用していた「かなタイプライター」は、英文タイプと同じように、特別な職業的訓練なしに使うことができるように開発されたものだった。
しかし、キーの配列の構成などの問題から、「ひらかな」と「カタカナ」を混在させることすら、なかなか実現が難しいといった状況だった。
マイクロエレクトロニクスの発展により、ワードプロセッサーが開発され、かな漢字変換が行われるようになって、日本語の文章の作成方法は劇的に変化した。
商品としての日本語ワードプロセッサーが登場したのは、1979年2月のことで、価格は630万円、東芝製だった。
今では、パソコンにワープロソフトが標準的にバンドリングされ、凝ったレイアウトや多様なフォントが素人でも使えるようになっている。まさに今昔の感である。
今や「邦文タイプライター」などは、骨董として「お宝」というべきかも知れない。

私はメーカーの技術者を体験した後、考えるところがあってリサーチャーに転じた。
リサーチャーというのは、シンクタンクの研究員のことで、与えられた(もしくは自主的に設定した)課題について調べ上げ、それを報告書として取りまとめることを業務とするものである。
だから、モノの技術者から情報の技術者への転職ということができる。
モノの技術者の場合には、テクニカル・スキルの深化が求められたのだが、情報の技術者の場合は、テクニカル・スキルをどう考えたらいいのだろうか? 
自分たちに必要なスキルは何なのかを議論したあげく、「思考技術」という言葉に行き着いた。
つまり、情報の技術者の場合、テクニカル・スキル≒コンセプチュアル・スキルということになる。

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2007年11月24日 (土)

『知的生産の技術』…②反響

一般に、技術というものは、没個性的なものだと考えられる。
決められた手順や方法に従えば、誰でも一定のアウトプットを得ることができるように工夫されたものである。
一方、研究活動や調査・企画あるいは芸術的な制作活動などに代表される精神的な活動、言い換えれば、脳の働きが関与するような活動は、個体依存的で、普遍性が小さいと考えられる。
個性的・個人的な営みは、普遍性が小さいということだから、公開しても意味が小さいのではないか、と考えられていた。

しかし、梅棹さんは、「精神の奥の院でおこなわれていることだって、多くの人が同じようなことをしているのではないか」と考えた。
それなら、「そういう話題を公開の場にひっぱりだして、おたがいに情報を交換するようにすれば、進歩もいちじるしいであろう」。
いま風にいうならば、「オープン化」ということに相当するのではないかと思う。

『図書』連載中から反響は大きかったらしい。そして、新書版が刊行されると、たちまちベストセラーの一角を占めるに至った。
現在でも版を重ねており、岩波新書の中でも有数のロングセラーだろう。
その影響は、たんに「たくさん売れた」という量的なことに留まらなかった。
梅棹さんの本に触発された人たちが、早くも翌年の1970年に、相互の研鑽を図る場として、「知的生産の技術研究会」を組織している。
同会は、現在はNPO法人化して活発な活動を続けている。
つまり、質的にも深い影響をもたらしたのだった。

影響力の大きさを示すエピソードとして、次のような話が伝えられている。
知的生産の技術』に紹介されているツールに、B6版のカードがある。いわゆる「京大型カード」と称されているものである。
梅棹さんは、カードを書く習慣つけるために、次のようにアジった。
「おもいきってカードを一万枚くらい発注するのである。一万枚のカードを目のまえにつみあげたら、もうあとへひくわけにはゆくまい。覚悟もきまるし、闘志もわくというものだ。」
この箇所を読んで(それを真に受けて)、作家の井上ひさしさんや評論家の山根一真さんなどは、直ちに一万枚を購入するために、文具店に走ったらしい。

中牧弘充さん(国立民族学博物館教授)『梅棹忠夫著作集・第11巻「知の技術」』での解説(『知の技術のアヴァンギャルド』)で、「梅棹式カード教」を自称する読者がいた、というエピソードを披瀝している。
しかし、計算してみれば、1日に30枚のカードを使ったとしても、一万枚のカードは1年分に相当する。
実際問題として、毎日30枚のカードを作成するというのは大変な労力である。

私は、この本が出版された年に社会人になった。
世は高度成長の最盛期であり、私の関係していた分野でも、イノベーションが著しかった。
新社会人となった私は、いかにしてイノベーションの競争で優位に立てるのか、同僚たちと議論を重ね、創造性開発手法などを学んだ。
その頃、創造性開発の一手法として、梅棹さんと京都大学の探検仲間だった川喜多二郎さんの考案された「KJ法」という手法が注目を集めていた。
「KJ法」は、発想法であり、概念や質的データの整理手法でもある方法論である。
KJは川喜多さんのイニシアルに由来するが、先ずは小さなカード(紙切れ)に思いついたことをどんどん記入していくことから始まる。
「KJ=紙切れジャンジャン」法などとも言われていた。

自分の担当分野において、イノベーションにささやかでも貢献をすることができれば幸いと考えていた新社会人にとっては、梅棹さんの本は、タイトルからしても、自分たちの求めているものにジャストフィットしているように思えた。
実にプラグマティックに、知的生産のツボを開示しているように感じ、私も早速B6版のカードを購入することにした。
しかし、さすがに一万枚を一度に購入するような蛮勇も資力もなかったので、とりあえず300枚程度を購入してみたのだった。
結果的にはそれすら使い切ることはなかったのであるが。

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2007年11月23日 (金)

『知的生産の技術』…①梅棹忠夫さん

ソフトテクノロジーやコンセプチュアル・スキルのほぼ同義語として、「知的生産の技術」という言葉が使われている。
工業が中心の時代には、生産技術といえば、モノ(材料)を加工したり、組み合わせたりして、より価値の高いモノを、いかに合理的に製造するかという方法を指していた。
情報が中心の時代になれば、情報を加工したり、組み合わせて、より価値の高い情報を、合理的に製造するための方法が求められることになるだろう。
今では当たり前のことのように思えるが、モノの生産技術に関心が集中していた時代に、視点を変えて考えることはなかなかできない。
「コロンブスの卵」である。

情報が社会の中心的な位置を占めている時代が到来していることを、文明史的な観点から、世界に先駆けて示したのが梅棹忠夫さんだった。
1963年に『情報産業論』と題する記念碑的な評論を発表している(「『放送朝日』6301号」、『梅棹忠夫著作集・第14巻「情報と文明』(9108)等に所収)。
「情報産業」という新しい概念の誕生である。
梅棹さんは、人類の超長期的な文明の発展史を次のように整理する。
文明の初期には、まず農業の時代があり、そこでは食糧の生産が産業の主流をしめた。
やがて工業の時代がおとずれ、物質とエネルギーの生産が産業の主流をしめるようになった。
つぎに産業の主流をしめるようになるのが,情報産業である。

そのことを、生命の発達・進化の過程との卓抜な比喩で示してみせた。
「農業の時代=消化器官系の機能充足の時代=内肺葉産業の時代」であり、それが「工業の時代=筋肉を中心とする諸器官の機能拡充の時代=中肺葉産業の時代」に移り、さらに「情報産業の時代=脳神経系もしくは感覚器官の機能拡充の時代=外肺葉産業の時代」に移行するという図式である。
『情報産業論』では、情報の価格決定に関する「お布施の原理」なども有名である。
情報的な商品には原価計算は成立しない。
例えば、お布施の額を決定する要因は、坊さんの格と檀家の格である。
それは一方的ではなく、双方の格の交点においてきまり、ある程度客観的に決定できる。
情報の本質(コストをかけないで生産や複製ができる)を見通した斬新な論議である。
しかし、当時においては斬新すぎて、その価値を認めたのはごく限られた層だけであり、「全体としてはほとんど無視されました」と、梅棹さん自身が語っている。

「知的生産の技術」という言葉も梅棹さんによって世に広められたものである。
梅棹さんは、万博の跡地に建築された千里の国立民族学博物館の創設に尽力され、初代館長として活躍されたことで知られているが、もともとは生態学を専攻し、後に民族学や比較文明論に移られた。
一貫してフィールドワークを中心としており、地球上のさまざまな地域に出かけていった。
結果として、梅棹さんは、有数の探検家になった。
さまざまな地域で行った調査・研究活動を行い、それを整理してアウトプットとして取りまとめる。
そのためにはメモをとり、文章を書き、資料を検索し、ファイルやフォルダーに区分けすることが必要だった。

その一連の過程を、「知的生産」として捉え、それに対して「技術」という視点からアプローチした。
それまで、調査や研究という仕事と、技術という概念は結びついていなかった。
調査や研究の「結果」を洗練された形で発表することへの関心はあったが、その「過程」、言い換えれば舞台裏を公表することはされていなかった。
梅棹さんは、自分の体験をベースに、岩波書店の広報誌『図書』に、「知的生産の技術について」と題する連載記事を載せた。
それに加筆修正を加えたものが、1969年7月に、『知的生産の技術 』として岩波新書版で刊行された。

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2007年11月22日 (木)

コンセプチュアル・スキル

私も、かつてリサーチ業界に身を置いたことや、経営スタッフとして会社の戦略立案に携わっていたことがあり、ソフト・テクノロジーについてはそれなりの関心を払ってきた。
しかし、そもそも、ソフト・テクノロジーについては、伝承の前提となる全体像や体系についての認識が、十分な一般性を持つ形では確立されていなかったのではないか、という気がする。

ビジネス・スキルということで言えば、ソフトテクノロジーに類似した言葉として、昔からコンセプチュアル・スキルということが言われてきた。
2 R・L・カッツというハーバード大学教授がずいぶん前に提唱したもので、知識や情報などを体系的に組み合わせ、複雑な事象を概念化することにより、物事の本質を把握する能力のことである。
カッツは、管理者(マネジャー)に必要なスキルを管理階層に対応させて、図のように示した。
つまり、上位のマネジメント階層になるほど、コンセプチュアル・スキルの必要性・重要性が増すということである。

テクニカル・スキルというのは、例えば物理、化学、電気、力学、会計、ITなどのように、専門領域に係わるスキルである。
テクニカル・スキルは、業務遂行にとって必須のスキルであるから、誰かが持っていることが必要である。
しかし、テクニカル・スキルに秀でているだけでは、マネジメントはできない。
ヒューマン・スキルは、人間関係を円滑に保つためのスキルである。
仕事は市場という場で、顧客や競合との関係の中で組織によって遂行される。常に対人的な環境にいるわけであるから、人間関係を上手に保つことはマネジメントの要諦でもある。

なぜ、マネジメント階層が上位になるほど、コンセプチュアル・スキルが要請されるのであろうか。
私なりに解釈すれば、マネジメントには、構造の維持という側面と、構造の変革という側面とがあるが、上位のマネジメント階層になるほど、変革に比重を置くことが必要となる。
変革というのは、未知なる事象に向かっていくことだから、必然的に不定型の問題に直面せざるを得ない。
不定型の問題を解決していくためには、コンセプチュアル・スキルが重要だ、ということであろう。
もし、そういうことであるとすれば、変化が常態となっている現在、コンセプチュアル・スキルは、上位のマネジメント階層に属する者だけでなく、広く企業人一般に要求されるスキルということになる。

社会人が大学院に再入学するケースが増えているという。
いわゆるMBAのコースが代表的なものであろうが、そこで目指されているのはまさにコンセプチュアル・スキルであろう。
私がリサーチ業界にいた頃には、コンセプチュアル・スキルに関連した適切なテキストが見あたらなかった。
コンセプチュアル・スキルとは、言い換えれば思考の進め方の技術であるから、先輩や同僚と「思考技術研究会」なる勉強会でスキルの鍛錬を目指した。
現在では、齋藤嘉則さんの『問題解決プロフェッショナル「思考と技術」 』ダイヤモンド社(9701)、『問題発見プロフェッショナル―「構想力と分析力」 』ダイヤモンド社(0112)などの好著が出版されていて、コンセプチュアル・スキルを学ぶための環境が整備されてきた。

しかし、コンセプチュアル・スキルが、テキストを読破するだけで習得できるものではないことも明らかである。
概念を表現するためには、言葉や記号などが必要であり、それを表示するための媒体が必要である。
コンセプチュアル・スキルに上達するための方法論として身近で有効なのことは、おそらく文章を作成すること(作文)であろう。しかもそれを他人に評価して貰うことが重要である。
人類学のノーベル賞といわれるトーマス・ハックスリー賞の受賞者で、『アフリカ紀行』講談社文庫(8410)などの著者である伊谷純一郎さんは、名文家としても知られているが、若い頃今西錦司さんに、論文が真っ赤になるほど添削されたという文章を読んだ記憶がある。

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2007年11月21日 (水)

『わざの伝承』

「2007年問題」の本質は、個体としてのヒトが獲得したスキル(暗黙知)を、他の個体にどう伝承していくべきか、というところにある。
この問題に関して、電通で永年マーケティングの仕事に携わってきた柴田亮介さんが、『わざの伝承―ビジネス技術 』日外アソシエーツ(0705)で取り組んでいる。

団塊世代の大量退職によるスキルの断絶という問題に関しては、ものづくりの分野や、コンピュータ・サービス業界では、比較的早い段階で問題の発生が予見され、それなりの対応が図られてきた。
しかし、マーケティングもその典型であるが、企画や戦略立案などの、いわばソフト・テクノロジーの分野においては、スキルの伝承が余り問題意識に上がってきていないように思われる。
柴田さんは、団塊より前の世代に属しているが、後輩たちに自分の獲得したスキルをどう伝えたらいいか、という問題意識を持っていた。

ソフト・テクノロジーのスキルの伝承はどうすれば可能なのか。
柴田さんの勤務先であった電通では、一人前になるまでマンツーマンでOJTを行うという伝統があるという。
つまりは、先輩のやり方を、見よう見まねで覚えていくということである。
企画や戦略立案などの業務は、不定型の問題を対象とするところに本質があって、現時点では、道具や装置などが貢献できる要素は限定的である。
言い換えれば、ソフト・テクノロジーは属人性の強いスキルであって、直接ヒトに学ぶことが最良の方法論ということなのだろう。

現在の社会で、クリエイティブという言葉が日常的に使われているのは、広告制作の場である。
コピーライティングやデザインワークなどを指しているが、クリエイティブという言葉の意味しているのは、道具や装置などに代替されない、ヒトの脳内での作業が中心であるということである。
そして、企画や戦略立案などの作業もまた、現時点では、脳内過程が中心とならざるを得ない。
クリエイティブは右脳に比重があり、企画や戦略立案は左脳に比重があるのかも知れないが、おそらくは右脳と左脳の交響こそが、脳内過程の真髄というものであろう。

脳内過程の作業は、「知的生産」と言い換えることもできるだろう。
梅棹忠夫さんが『知的生産の技術 』岩波新書(6907)で一世を風靡してから、既に40年近くが過ぎている。
もちろん、この間のパソコンの発展やインターネットの普及などによって、「知的生産の技術」と呼ばれるものの内容も大きく変容してきている。
しかし、それらはあくまで「道具」の問題である。
本質は、ヒトの脳内過程にある。現に、戦略立案ロボットなどは聞いたことがない。

属人的なスキルといえば、能や歌舞伎などの古典芸能の世界が典型的である。
柴田さんが着目したのは、このような世界における「わざ」の伝承の方法論であった。
能の奥義を伝えるものとして知られている世阿弥の『風姿花伝』に着目する辺りは、さすがに電通マンに相応しい目配りという気がする。
能や歌舞伎あるいは落語などの世界では、師匠の「わざ」を真似ることが基本的な上達の方法である。
属人的なスキルは、繰り返しによって身体に覚えさせることが重要である。

私は高校時代に部活動として、ある武道をやっていた。
そこで先ず最初に教えられたのは「型」を覚えることであり、繰り返し「型」を練習することによって、それを身体感覚として習得することが課題であった。
最初は意識しながら動作を行うのであるが、次第にそれが無意識化してくる。
今にして思えば、まさに「守・破・離」という上達の論理(10月22日の項)そのものを実践していたのである。
脳内過程が中心のソフト・テクノロジーと身体の運動とでは、分野が異なるにもかかわらず、どうやら両者の上達の方法には多くの共通性があるようである。

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2007年11月20日 (火)

2007年問題

「2007年問題」という言葉がある。
誕生したのは2003年で、CSK代表取締役の有賀貞一さんと「日経コンピュータ」誌の副編集長の谷島宣之さんが雑談していた際だと言われている。
2007年からはじまる団塊の世代の定年退職に伴って、コンピュータ・サービス業界でさまざまな問題が発生してくるのではないか、という問題意識だった。

団塊の世代というのは、1947~49年生まれの世代で、いわゆるベビーブーマーである。
堺屋太一さんが1976年に、『団塊の世代 』文春文庫(0504)というタイトルの小説を発表し、世に広まった。
「団塊」というのは、もともとは、鉱物学で一塊の単位で採られる鉱物を指す言葉らしい。
団塊の世代は、そのボリュームによって、社会にさまざまな問題を投げかけてきた。
前面に出たのは、70年代末の「学生の反乱」の際であろうか。
大学における「知」のあり方を根底から問おうとした(かのように見えた)全共闘運動は、団塊の世代がまさに学生だった時代の出来事である。
しかし、社会人になってからは、一転して企業人として邁進した人が多かったらしい。

団塊世代の定年退職が、コンピュータ・サービス業界でいち早く意識されたのは、わが国の情報化の歴史と関連している。
日本の大手企業におけるコンピュータ導入が本格化したのは、1960年代後半からであり、その第一線で基幹システムの構築を担ったのが団塊の世代だった。
団塊世代がリタイヤすることにより、保守が困難化し、スキルの継承に問題が起きるのではないか、と心配されている。
団塊世代は既存システムを熟知しており、彼らがいなくなると、改修や再構築の工数が増える。
また、往々にして、ドキュメントのメンテナンスが不十分であったりもする。

マニュアルやドキュメントが整備されていれば、それでいい、ということでもないところが悩ましい問題である。
いわゆる「暗黙知」と呼ばれるものの存在である。
世の中には、定式化できない「知」というものがある。
技能五輪で競われる「技能」も暗黙知の世界であろう。
プログラム化の限界を超えたところにある人間的なワザ。それこそが、ヒトとコンピュータを隔てるものではないのだろうか。

「2007年問題」が社会的に認識されるようになって、さまざまな制度的な対応が図られるようになった。
企業における定年の延長はその典型であろう。
個別企業にとっても、まだまだ戦力として活用可能な人材が多いことを考えれば、なんらかの場を用意する方が得策である。
団塊の世代のもたらすさまざまな問題は、少子高齢化に象徴される人口構造の問題の一端であるし、退職と再雇用という就業形態の変化は、労働力の流動化の一面であろう。
つまりは、新しい社会が到来しつつある、ということだ。
「2007年問題」とは、ピーター・ドラッカーのいう「ネクスト・ソサエティ」への転換を示すものといえるだろう。

「WEB2.0」という言葉が使われているが、「ネクスト・ソサエティ」というのは、いわば産業社会の「2.0」へのバージョンアップということではなかろうか。
ドラッカーは、「ネクスト・ソサエティ」は、経済が社会を決めるのではなく、社会が経済を決める新しい時代なのだ、という。
経済が社会を決める時代をモダンといえば、社会が経済を決める時代は、ポストモダンである。
しかし、ポストモダンというだけでは積極的な規定にならない。
ポストモダンの時代をどうデザインするのか。
現代(モダン)の時代に生きている私たちも、真剣に考えなければならないテーマなのではないだろうか。

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2007年11月19日 (月)

技能五輪国際大会

第39回技能五輪国際大会が、沼津市で開催されている。11月14日に開会式、15日~18日に競技を行い、21日に閉会式が予定されている。
日本での開催は、1985年の大阪大会以来で22年ぶりということになる。
静岡市で、同時に第7回国際アビリンピック(障害者技能競技大会)が開催され、静岡県では、両者を総称して、「2007年ユニバーサル技能五輪国際大会」と名付けている。
大会メッセージは、「Thanks for the Skills」である。

この大会は、1950年にスペインの職業青年団が、隣国ポルトガルとの間で技能を競ったことに起源がある。
その後、逐年参加国・出場選手が増加し、技能労働者の祭典として発展してきた。
大会の憲章では、目的を、参加各国における職業訓練の振興と青年技能者の国際交流・親善を図ることにある、としている。
大会は、国際職業訓練機構によって運営され、加盟各国からの公式代表および技術代表により、組織委員会が構成されている。
日本からは、中央職業能力開発協会が同機構のメンバーになっており、国際大会に選手団を派遣している。

大会は、現在は隔年(奇数年)に開催され、参加資格は開催年に22歳以下であることとされている。
日本は、1962年の第11回大会から参加し、毎回優秀な成績を収めている。
日本での開催は、1970年の第19回大会(東京・千葉)、1985年の第28回大会(大阪)に次ぐものである。
大会期間中には競技のほかに、職業訓練・技能開発に関するフォーラム、セミナーや視察観光小旅行(エクスカーション)が行われる。
選手・大会役員等を含めると約2,800人が参加するというから、沼津では久しぶりのビッグイベントということになる。
オリンピックでお馴染みの選手村が、今回の大会で初めて、御殿場市の時の栖に設置された。

ところで、技能五輪で競われる「技能」とは何だろうか。
技能に関連するものとして、わが国では、「技術論論争」と呼ばれる歴史の長い論争がある。
私も、もともと技術者の端くれだったから、「技術論論争」の一端に触れたことはあるが、行われてきた論争が日々の実践との関係にぴったりくる感覚がなく、さほど深入りするに至らなかった。
したがって、私の技術観は、自分の体験の範囲のものでしかないが、技術について、おおよそ以下のように考えている。

原始的な段階の技術は、個体としてのヒトから分離できないものだったであろう。器用さとか、運動神経などと呼ばれるものに依存していたと考えられる。
個体としてのヒトの能力にはいずれにしろ限界があるから、それを越えようとして、道具や装置などが考案された。
つまり、技術が外在化・物質化されることになった。
そうすると、外在化・物質化されたもの自体を進歩発展させようという努力が働いてくる。
次第に複雑な機構を備えるようになり、生産性が向上していく。動力を備えることによって、生産性は劇的に向上し、産業革命と呼ばれる社会変革が起きる。
さらに、IT技術の進展により、装置に一定の知能が付与され、現在は、多品種少量生産に対応した、きめ細かで柔軟な生産体系が構築されている。

その一方で、依然として個体としてのヒトに残らざるを得ない技術も存在している。
技能五輪で競われるのはそのような技術が中心である。
ITによる制御が高度化しても、例えば、研磨やレンガ積みなどにおいて、ロボットは熟練した人間が保有する微細な感覚には及ばない。
それは、料理というようなことを考えてみれば当たり前のことであることが分かる。
調理の結果は人間の味覚によって評価せざるを得ず、どんなに高度なプログラムを組み込んだロボットといえども、プロセスにおいて味見をしながらさじ加減をフィードバックする調理人に適わない。
ものを作るという局面においては、常に同じようなことが起きているのだと思う。
つまり、技能というのは、とても人間的な営みなのではなかろうか。

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2007年11月18日 (日)

本質移転論と写生

伊藤整に『本質移転論』と題した評論がある。
自ら「私の芸術本質論である」とするもので、「移転」という考えは、「写生」とか「写実」に似ている(が異なるものだ)と言っているので、「写生」について考える際にも参考になるだろう。
伊藤整は、芸術とはあるものの中に作家の見出した生命の働きを、他のもの(又は秩序)の中へ移転させることによって、定着させる操作だ、という。
芸術本質論であるから、演劇にも、音楽にも、散文にも、詩にも適用されるものでなければならず、それ等の働きの重要な部分を最もよく説明するものでなければならない。

作者、または見る人あるいは考える人の把握した本質は、どこにも留まることができない。
文字になったり、音響になったり、数字になったり、色になったりする時にのみ実在し得る。
言葉や色や数字の方には、論理的な構造と快感的な構造とがあって、論理的な構造の中に対象が残留する時は、科学の系統の仕事となり、快感的な構造の中に残留する時は、芸の系統の仕事となる。
快感的な構造というのは、主として模様として意識される反復、またはリズムにある。音数律の反復、頭韻や脚韻の反復、テーマやモチーフの反復などである。
移転によって意味または生命が、反復的な形式の中に定着するときにわれわれが覚える満足が芸の満足である。

例えば、ある役者がハムレットを演ずる場合を考えてみる。
演技というのは、役者が戯曲におけるハムレットの中に移転することである。
役者とハムレットは異質な二つのものであって、それぞれに別の秩序がある。
それが熟練によって、二つの中に共通の性質が見出されて、それが相似形のように重なり合う。
その時、観客は、甲の性質が乙にもあることを見出す。二つの秩序を通過し得たものを、観客は生命の実質として受け取る。

一般に、音楽とか詩のように、より純粋な芸術と考えられている種類の芸の特色は、認識した物象を、物象へ移転するのではなく、音階とか韻律のような物的な秩序へ移入することで行われる。
散文や演劇では、具体的なものへの認識を移転させ重複させるが、詩においては韻律の中へ認識を移転させ、音楽においては音階の中に移転させる。
音階や韻律はそれ自体の中に反復の快感を直接持っているから、その感動はじかに快感として伝わってくる。
散文等においては、この種の快感の直接性はない。

しかし、散文芸術においても、こういう韻律的なものはある。
作家は自分の生活からさまざまな認識を得ている。その生活の過程の中で得たテーマを、小説の中に移転させる。
描く対象の必然性と、生活から得た認識の展開との重複が必然になる。
作者が認識を得てきた源泉の事実と別個に小説の構成を設定することが虚構またはフィクションである。
フィクションを設定することは、不安定な認識を、秩序の中に移転することによって芸を結晶させることであり、詩の韻律や音楽の音階に似た働きと似ている。

芸術的感銘は、移転によってもたらされる反復の快感である。
作品が主人公の生き方とか個性とかに貫かれているということは、言葉の使い方、連想の仕方、事件の進展などが、その人らしさで一貫しているということである。
それは、音楽や絵でいうとテーマの反復であり、作家の認識の型が彼の表現にある傾向を与えることを指している。
小説の場合、ある説話の進行にとっても真実であり、作者の認識においても真実だというとき、元来異質のものであるその両者の条件を同時に満足させると、「真」なる生命が描き出されたということで人を感動させる。
それに韻文の美や文体の美が加わると、「真」なるものと「快感」との合一性によって、日常の現実の中に一般人が把握できない高い喜びを与えることになる。

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2007年11月17日 (土)

日本史の謎としての短詩形文学

松本清張他『日本史七つの謎』講談社文庫(9603)は、邪馬台国の時代から高度成長の時代までの日本の歴史を、七つのテーマに絞って通観しようというものである。
七つのテーマは、時間軸の一定の部分に対して、歴史に関心と造詣の深い文芸家などが、歴史学などの専門学者2人に質問をぶつけ、それに関連分野の専門学者が答えるという鼎談によって議論が進む。
しかし、七つのテーマの中で、「ニ、短詩形文学はなぜ日本文学の中心なのか」だけは例外的な構成である。

鼎談は、丸谷才一、大岡信、山崎正和という3人の文芸家によって行われ、専門学者が参加していない。
丸谷さんが小説、大岡さんが詩、山崎さんが劇というように、主たる活動の分野は異なり、3人とも大学で教鞭をとるという履歴はあるが、文芸家というジャンルで括っていいだろう。
いずれも、博学にして多識、古今東西の人間の営みに通じた人たちである。

その3人が、「日本史の謎」としての短詩形文学について語っている。
短詩とは、短歌、俳句、川柳などであるが、現代日本が他の諸国と比べて非常に特徴的なことは、国民の多くが短詩を作ることである。
山崎さんは、日本文化における短詩の占める位置を示すものとして、「新聞・雑誌などの大衆的なメディアの投稿欄の隆盛」と「新年の歌会始め」の2つを挙げる。
確かに、一国の元首が、国民から詩を募集するということを公的な行事にしている国は他にないように思える。

丸谷さんは、短詩形文学の国民への浸透の深さと広さを指摘する。
例えば、現在でも正月に「百人一首」で遊ぶ家庭は少なくないのではないだろうか。あるいは、家でやらなくても、「百人一首」を覚えさせている小学校は結構あるらしい。
私は、意味など後から理解できるもので、とりあえず覚えてしまうえばいいと(今では)考える者であるから、小学校で「百人一首」を教材として扱うことには大いに賛成である。
百人一首は、丸谷さんの言うように、古典鑑賞とスポーツが一体化している稀有な遊びである。
また、斉藤茂吉や高浜虚子が、日本の文学者の中で際立って尊敬されているのも、短歌や俳句を作る人が多いことの反映である。
あるいは、俵万智ほど、大衆的に注目された日本文学者は、戦後例をみないだろう。

短詩形文学は、万葉の昔から日本文学の中心だった。
万葉以前は、歌は文字に書かれないから、様々な形式が許されていたが、『日本書紀』や『古事記』を編纂するときに、農民の間で歌われていた歌が拾われた。
それがやがて、五七、五七、五七という形式に整っていく。五七に収束していくについて、大岡さんは、中国詩の影響があった、と指摘している。

古代において、短詩形文学を革新したのが、柿本人麻呂だった。
人麻呂は、同時代の五七七の旋頭歌とか短歌形式の歌をいろいろ集めて「柿本人麻呂歌集」を作った。
歌われる時代から、文字で書かれる時代への大転換を、人麻呂はひとりで成し遂げたのだった。
人麻呂は短歌の名人で、長歌の後ろに短歌を付けて、短歌によって長歌の内容を抒情的に統一する形式を完成した。
以後、『古今集』に始まる平安朝短歌から一千年以上の間、短歌が日本文学の世界を支配してきた。
鎌倉時代になると、連歌が生まれ、社交の道具として大衆が楽しむ遊び・芸術となり、江戸時代になると俳諧の発句が独立した。

短詩形が日本文学の中心だったわけであるが、丸谷さんは、短いものが日本人は得意で、逆に長編小説は苦手なのだ、という。
これに対し、山崎さんは、抒情詩というものは、本来短いのだという。
エミール・シュタイガーというドイツの文芸学者は、人間の生きる姿勢を、抒情的、叙事的、劇的の3つに分けた。
抒情的とは世界を過去の思い出として感受する態度、叙事的とは現在の展望で、現在は広がりのある時間だが、過去は自分の内部に凝縮していて、広がりがない。
われわれの心に瞬間的に浮かんでくる過去の匂いのようなもの、ある瞬間の感情が抒情だする。
山崎さんによれば、日本の短詩形文学は、抒情詩の典型的な成功例である。

次に、3人は、七五調について論じている。
山崎さんは、日本語というのは、2シラブル(音節)にまとまる傾向がある、という。「ガラス戸」ならば、「ガラス・戸」ではなくて、「ガラ・ス戸」でり、「不知火」ならば、「しらぬ・ひ」ではなくて、「しら・ぬひ」となる。
2音は、重ねると先へ滑っていく。2音を2回繰り返して1音で止めると5音になり、3回繰り返して1音で止めると7音になる。
日本の短詩形は、音の長さをもってリズムにしていることから生まれた。
大岡さんは、詩は口で唱えるものだから、一息で言えるかどうかが重要で、その加減として、五七五七七あるいは五七五が成立するという。

近代以前の短歌は、勅撰和歌集などのお手本があって、それに少しずつ自分の個性を入れていくという作り方だった。
それを覆したのが正岡子規で、自分が今日感じた喜びや悲しみを歌うには、伝統的な様式から脱却することが必要であると主張した。
子規は、それを「写生」と呼んだのだった。

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2007年11月16日 (金)

渡辺白泉

新興俳句の俳人たちの中で、高屋窓秋と共に気になる存在は、渡辺(渡邊)白泉である。
白泉の句については、既に有名句の評価の際(10月19日の項)に触れた。
私が白泉に関心を持ったのは、もちろん句自体の魅力ということもあるが、その履歴にも惹かれるものがあったからだ。
川名大『現代俳句・上』筑摩文庫(0105)の記載から、白泉の略歴を抜粋すれば以下の通りである。

昭和10年前後に「句と評論」で頭角を現し、昭和14年に「京大俳句」に参加、15年には「天香」の創刊に参画した。
白泉は、想像力を駆使した言葉のリアリティに文学としてのリアリティがあると認識し、社会や国家に対する批判精神を失わず、独特のイロニイの方法によって表現した。
昭和15年「京大俳句」弾圧事件に連座して検挙された。
戦後は俳壇と深く関わることなく、底に生の悲しみを湛えた、心に滲みる珠玉の数々を稿本にひっそりと遺して逝った。

白泉は、敗戦後岡山県で教職に就くが、1951(昭和26)年から静岡県の教員に転ずる。
そして、沼津市立高校の石内直太郎校長の名前を耳にし、面会を求める。
旧制沼津中学の教頭だった石内直太郎は、戦後の焼け野原を前に「これからの日本を作っていくのは戦前のようなエリート教育ではなく名も無き雑草たちである」と唱え、「一匹の迷える子羊を救え」を教育理念に掲げ新たな教育機関、沼津市立高校の設立に尽力した。
白泉は、石内に会って、その人間的魅力に惹かれる。
石内に会ったときの印象を、白泉は次のように語っている(『石内学校への入学』(「鷹峯20周年記念号」所収)。

「ぼくは別に、校長なんどというものではないですよ。みんながそう呼んでくれるだけのことで、ぼくは、ひそかに、学校掃除人という名前で自分を呼んでいるんです。この学校は、きたないですからね。」
わたくしの心には、涙が流れていた。このような校長には今まで出会ったことはなかったが、こういう人間にも、会ったことはないのである。こうした校長のもとで教育される生徒たちは、どんなに幸福であろうかという想念が、わたくしを捉えて放さなかった。即座に、この学校の教師になろうという決心が定まった。

白泉は、昭和27年4月より沼津市立高校で教鞭をとる。就任と共に、社会科研究部の開設を呼びかけたり、影絵芝居を公演したりするかたわら、「沼津高等学校論叢」に、『俳句の音韻』『続・俳句の音韻』という論文を発表する。
また、学外の活動として、沼津市立駿河図書館の「香陵俳句研究会」で会員の指導を行ったり、合同句集「香陵」に『芭蕉と現代俳句』という一文を寄せている。

昭和44年、白泉は、在職中に「渡辺白泉自筆句集稿本」を執筆し、書き終えた2週間後に急逝した。その稿本は、沼津市立高校の白泉の机の中から発見されている。
つまり、死ぬまで沼津市立高校の教員をしていたということであり、私が沼津市内の別の高校に通っていた頃には、現職の教師だったことになる。
もちろん、高校時代の私は、俳句に全く関心も興味もなく、白泉の名前も知らず、市内の高校にそういう先生がいるという噂も聞いたことがなかった。

中村裕『やつあたり俳句入門 』文春新書(0309)は、白泉を、「新興俳句の生んだ最大の作家」と最上級の賛辞を呈し、次のように評している。

渡邊白泉は不幸な作家で、昭和十年代、新興俳句の旗手としてそれを背負って立つほどの活躍をみせていたものの、弾圧事件で検挙の憂き目にあうだけでなく、まとめられる寸前だった句集もそのあおりで出せずじまい。戦後は、俳壇との距離を置いたことや保守化傾向を煽った山本健吉などの不当な扱いによって、一部に知られるだけで、ほとんど忘れられた状態。まったく理不尽な話で、三橋敏雄の手によって『渡邊白泉全句集』(沖積舎)が昭和五十九年に刊行されて以降の、白泉を知らない俳人はモグリと言われるほどの声望の高まりは、当然といえば当然、遅きに失したというぐらいだ。逆にいえば戦後俳句は白泉を忘れ去ることを必要としたということである。

私には、句のレベルについての評価は分からないが、以下のような白泉の句が不思議な魅力を湛えていることは確かだと思う。

街燈は夜霧にぬれるためにある
ふつつかな魚のまちがひそらを泳ぎ
銃後といふ不思議な町を丘で見た
包帯を巻かれ巨大な兵となる
戦争が廊下の奥に立つてゐた

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2007年11月15日 (木)

高屋窓秋

新興俳句の理論はともかくとして、実作ということになると、どうも可能性の範囲を出ていなかったのではないか、という気がする。
弾圧事件が起きず、その可能性がさらに追求されていたら、どのような作品が生み出されていたのだろうか。
新興俳句のさまざまな試みの中で、最も印象的な作品を残しているのは高屋窓秋ではないかと思う。

ちるさくら海あをければ海へちる

句の評価基準はさまざまであろうが、究極的には「詩趣」をどう評価するか、というところに行き着くのではないだろうか(10月24日の項)。
この句こそ、詩趣というにふさわしいだろう。
あるいは、

頭の中で白い夏野になってゐる

窓秋の代表作とされている句である。
この句では、「で」が、「が」や「は」でないところがポイントである(中村裕『やつあたり俳句入門 』文春新書(0309))。「で」とすることによって、作者の固有性を離れた普遍性を意味していることになる。
川名大さんは、この句は次の3つの点から吟味する必要がある、としている(「名句・秀句・問題句の謎」『俳句の謎―知っ得 近代から現代まで 』学燈社(0707))。
1.俳句史ないし俳句表現史における意義
2.句のイメージや内面世界についての感受の問題
3.「頭」をどう音読するか

初出は、「馬酔木」昭和7年1月号で、当時の俳壇は、虚子の唱える「花鳥諷詠」「客観写生」に沿った視覚的に自然の風景をなぞるものが主流だった。
この句の画期性は、「花鳥諷詠」「客観写生」と隔絶して、心象風景、意識の抽象美を斬新な口語体に載せて表現した点にある(川名:上掲文)。

「白い夏野」のイメージや作者の内面意識をどう受け止めるかは読者の感性に委ねられている。
大きくは二説に分かれる。「人間心理の内面と外界とが、愁わしい倦怠感を誘いつつ、不思議に溶け合う」(高柳重信)という方向と、「『白』を詠む」(石田波郷)という方向である。

中村裕の上掲書に、夏石番矢さんの次のような解説が引用してある。
「夏の野原には、濃緑の草木、赤や黄色などの花々、そして上空には、ぎらぎら照る太陽、白雲、青空が広がっている。このようにさまざまな強烈な三原色からなる光が、人間の『頭の中』で溶け合って、白一色となる」。
なるほど、というしかない。
ここまで来れば、解釈は立派な創作活動と言うべきだろう。鑑賞のレベルの違い、といったことを考えさせられる。

窓秋は、自ら「ぼくの言葉は、視覚への定着から、つねに離れよう離れようとする。できれば、それに徹したい、とさえ思っている。絵画などが、到底及ばないように」と言っている。
そして、虚子の「流れ行く大根の葉の早さかな」を、「映画のわずか数秒間にも劣る描写俳句」と評している。
窓秋がめざしたのは「絵にも描けない世界」なのだ、ということになる(中村:上掲書)。
客観写生の対極とも言えようか。

「頭」を「ヅ」と読むか、「アタマ」と読むかについても議論があるという。「ヅ」と音読することで、意味離れしていい、とする説があるというが、窓秋自身が「アタマ」としていたというし、奇を衒わずに素直に「アタマ」と読めばいいのではないのだろうか。

窓秋は、「馬酔木」の会員だったが、昭和10年に、主宰の水原秋櫻子が宮内庁より典医を拝命したことで、自分が「馬酔木」にいることで秋櫻子に迷惑がかかると考え、「馬酔木」を去る。そういう時代だったのだ。
後に、西東三鬼に誘われて「京大俳句」に加わり、反戦的な句を発表していたが、昭和13年以来、満州電信電話株式会社放送総局に勤めていて、弾圧事件の難を逃れた(田島和生『新興俳人の群像-「京大俳句」の光と影 』思文閣出版(0507))。

月かげの海にさしいりなほ碧く
山鳩よみればまはりに雪がふる
月光をふめばとほくに土こたふ

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2007年11月14日 (水)

稲尾和久さんを悼む/追悼(3)

「鉄腕稲尾」が亡くなった。
私たちの世代の多くの人が、ひとつの時代が終わったような気がしているのではないだろうか。
「(西鉄)ライオンズは遠くなりにけり」である。
まだ70歳だった。
私などは、もっと上の世代の人のように感じていたが、それは稲尾さんがプロ野球で活躍し始めた頃、まだ小学生だったためだろう。
小学生からプロ野球選手を見れば、遙かに上の人のように感じるのが自然な感覚だと思う。
長寿化が進む社会の中で、特に頑健なイメージの強い稲尾さんにしたら、70歳はやはり「若すぎる」ような気がする。

伝説の人だった。
1937(昭和12)年に大分県に生まれる。別府緑ヶ丘高校に入った頃は捕手だったという。
1956(昭和31)年に西鉄ライオンズに入団するが、無名に近い存在だった。
オープン戦で、三原監督が投手を使い果たし、敗戦処理に起用したところ、好投したことから信頼を得た。
入団1年目に21勝6敗。防御率1.06で最優秀防御率。新人王に選ばれ、西鉄ライオンズの日本シリーズ制覇にも貢献した。
2年目(1957)年は、35勝6敗、防御率1.37。最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得。日本シリーズ連覇。
3年目(1958)年は、33勝10敗、防御率1.42。連続最多勝・最優秀防御率。日本シリーズ3連覇。
次の1959年にも30勝を上げ、防御率1.65。3年連続して30勝以上を上げたピッチャーは、空前にして絶後である。
1961年には、実に42勝を上げている。この年も、防御率は1.69だった。

近年の最多勝が10勝台の半ばがほとんどであり、最優秀防御率も2.0を下回ることが稀であるることを考えれば、驚異的な数値というしかないだろう。
しかも、投手の分業化が進んでいる現在と異なり、先発のエースは完投するのが当たり前のように思われていた。
まさに「鉄腕」であり、往時の子供たち(われわれ)にとっては憧れのヒーローだった。
語りぐさは、数知れない。

例えば、プロ2年目の1957年は、7月18日の大映戦から10月10日の毎日戦まで、実に負け知らずの20連勝を上げた。
また、1958年の日本シリーズは、巨人が相手だった。稲尾さんは、5日前から原因不明の高熱に冒されていて、開幕前夜に平熱に戻るものの、第1戦は4回3失点で敗戦投手。
巨人3連勝で、西鉄は土俵際に追い詰められる。
第4戦は、稲尾を先発に立て、被安打10で4点を失うが、勝利を得る。第5戦は、延長戦にもつれこみ、10回裏に自らサヨナラホームランを放って勝利投手に。
連投を続けるうちに次第に調子を取り戻し、第6戦、第7戦も好投して結局シリーズ4勝を上げる。
世の人は、「神様、仏様、稲尾様」と呼んで賞賛した。

稲尾さんのピッチングは、コントロールの良さと連投をこなせるタフさが特徴だった。
そして、真骨頂は、頭脳的な投球術にあったと言われている。
「逆算のピッチング」といわれるもので、何球目に討ち取るかを考えて、それから逆算して配球を決めたのだという。
投球の戦略的なマネジメントと言い換えることもできるだろう。

1956~58年の3連覇時は、魔術師とか知将と呼ばれた三原脩さんが監督だった。
しかし、選手の強烈な個性が際立っていたことを否定する人はいないだろう。
稲尾さんの活躍はもちろんのことであるが、大下弘、中西太、豊田泰光、仰木彬、高倉照幸、関口清治といった野武士軍団と呼ばれた強者たちが揃っていた。
黄金時代の西鉄のことを、具体的な選手名を上げて懐かしがる同世代人は少なくない。

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2007年11月13日 (火)

『群蝶の空』

新興俳句弾圧事件を背景に設定した小説に、三咲光郎『群蝶の空』文藝春秋(0106)がある。
平成13年度・第8回松本清張賞受賞作品で、社会派サスペンスであり恋愛小説である。
舞台は、昭和14年の大阪。女流俳人神坂久江(ひさ女)は、26歳ですらりとした姿態と聡明で意志的な顔立ちの美人である。
久江の夫、神坂良満はまだ40歳であるが、海運業界大手の大蔵商船の専務の地位にある。
大蔵商船の保険契約の拡大を狙っているのが泉南保険で、担当の社員が沖宮忠雄である。

神坂良満は、晩鐘の俳号を持つ俳人である。政財界で俳句をたしなむ者が多く、俳誌や句会が社交の場になっていた。
良満は、東京帝国大学在学中から俳句の世界で頭角を現し、高濱虚子にかわいがられ、保守派の中堅として活動している。
久江がまだ少女のころ、最初に俳句の手ほどきを受けたのが良満だった。
久江は下宿人だった美術学校に通う青年に求愛され、彼がある美術展で入賞したのを機に結婚するが、やがて大阪の平凡な美術教師の生活に飽き足らなくなる。
大阪で良満と再開した久江は、良満に作句をすすめられ、「ホトトギス」に投稿したり、財界の有力者や文化人と華やかな交流をひろげると共に、美術教師の夫を捨てて、良満のもとに出奔する。

久江は、世代的に近い新興俳句派に関心を持っているが、それは師でもある夫の良満の許す世界ではない。
保険の営業のために大蔵商船に出向いた忠雄と上司の今川に、良満は、「京大俳句」のバックナンバーの1冊を示した。
見ると、西東三鬼の次のような句に朱線が引かれていた。

機関銃花ヨリ赤ク闇に咲く
機関銃機関銃ヲ撃チ闇黙ル

戦地に行かずに想像で作る戦火想望句は、無季の題材として新興俳句派の中で流行っていた。
感想を良満から聞かれた今川は、「想像力は豊かだと思いますが……」と無難な返事をするが、良満は激しい批判を口にした。
「軽薄ですよ」「作家の精神のありようが不真面目です。句の対象に向き合う姿勢が真摯ではない」
良満は、守旧派の中堅として、新興俳句派と対立していたのだ。秋櫻子が、「自然の真と文芸上の真」を発表して虚子批判をしたとき、自分の主宰誌「高嶺」に、「『文芸上の真』の誤謬を排す」という一文を発表して、秋櫻子を攻撃したほどだった。

俳人ひさ女は、大阪の日野草城が主宰する「旗艦」を夫に隠れて愛読していた。
草城は、保険会社に勤めるかたわら、大阪における新興俳句派を牽引していた。ひさ女は、草城の次のような繊細な句や都市勤労者の生活句に惹かれていた。

春の夜や檸檬に触るる鼻の先
手を止めて春を惜しめりタイピスト

草城は、新興俳句の道を選んだことによって虚子の怒りを買い、「ホトトギス」を除籍された。
ひさ女は、新興俳句に惹かれはするが、守旧派の良満がそれを許すはずがなく、ひさ女が新興俳句に走ることはありえなかったが、新興俳句派の俳人たちとも交流していた。

ひさ女と忠雄は、「京大俳句」の同人の1人に誘われて、京都の八瀬遊園への吟行に参加し、2人はケーブルカーで比叡山に上る。
山の上で、忠雄はひさ女から「好きな俳人は誰か」と聞かれる。忠雄は山口誓子の名前を挙げるが、ひさ女は、誓子の家に特高の刑事が来て、近況や俳句の交友関係についてしつこく訊いていったことを話す。

夏の河赤き鉄鎖のはし浸る

忠雄も知っている誓子の句に対し、刑事は「赤き」は共産主義を暗示し、河の流れるようにこの国に共産主義が浸透していくことを謳っているのではないか、と言ったという。
国家の統制は、個人の趣味の世界にまで及んでいるのか、と忠雄は暗然とした思いにとらわれる。

そんなことをきっかけに、忠雄とひさ女は恋に陥る。
2人の関係に気づいた良満は、「京大俳句」の摘発を陰で手引きし、妻と男を窮地に追いつめる。
2人は……。
松本清張賞受賞作品とはいえ、推理小説とは言い難い作品で、それ故に選考委員の佐野洋は採らなかったらしい。しかし、これ以上の内容の紹介は避けるのがマナーだろう。

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2007年11月12日 (月)

三嶋暦と南部絵暦

仲秋の名月の観月会イベント(9月24日の項)を楽しんだ「三嶋暦師の館」で、講演会と和綴じ暦制作の実習講座があった。
和綴じ暦の制作は、天保15年の三嶋暦を和綴じ製本するもので、保存会の方々に、印刷済みの用紙、こより、穴開け用の道具、木槌、紙用ボンドなどワンセットで用意しておいていただいた。
講師の方の説明を聞きながら、紙を揃え、穴を開け、こよりを通して綴じるのであるが、簡単なようで結構難しい。

講演会の講師は、「暦の会」の会長で、女子美大名誉教授の岡田芳郎さんである。
歴史を知るためには、いわゆる旧暦の知識が不可欠であるが、太陽暦に慣れてしまっている現代人にとっては、なかなか難しいことが多い。
干支などは比較的馴染みがあるが、陰陽五行説になるとほとんどの人が知らないだろう。
五行説は、自然界の成り立ちを木(もく)、火(か)、土(ど)、金(こん)、水(すい)の5つの要素で説明するものである。
私もそういう考え方があることは知っていた。例えばユニークな古代史家の小林惠子さんの説などは、五行説が縦横無尽ともいうべき形で活用されており、現代人の感覚だとほとんどオカルト的のように感じられる。
あるいは、暦の五行を表示している部分を現代人の感覚で曜日だと思うと、日曜日と月曜日が無い、などということになりかねない。

また、二十四節季は、1年を24等分するので、1節季が15日相当になり、月表示よりも精細な季節感を表現することができ、季語とも密接に関連している。
二十八宿、すなわち月が地球を一周するあいだに通過する28の星座は、高松塚古墳に描かれていることで有名であるが、太陰暦の知識がないことには、チンプンカンプンである。
太陰暦は、現在でもイスラム諸国で用いられているという。

岡田先生の話は、「三嶋暦と南部絵暦」という演題で、先ず暦の歴史の中での三嶋暦の位置づけを解説していただいた。
三嶋暦は、印刷(木版)の暦としては最も古い物であるが、同時に印刷の仕上がりがきれいで、印刷暦の代名詞になっていたということである。
ベストセラー小説の加藤廣『信長の棺 』日本経済新聞社(0505)には、暦のことが書かれている。
その暦のことに関して岡田先生が講師になった講演会に、著者の加藤廣さんが出席したらしい。実は、岡田先生と加藤さんは同級生だったのであるが、岡田先生は、その時まで同姓同名の別人だと思っていたという。
というようなエピソードを織り交ぜながら、分かり易く解説していただいた。

三嶋暦の次に、東北地方の山間部にある田山村(現八幡平市)や盛岡市に伝わる絵暦について解説していただいた。
その絵暦の実物(天保15年版)が、三嶋暦師の河合家に保存されているという。
どういう経緯で河合家にもたらされたのか不思議な気もするが、専門家間のコミュニケーションは意外に密度が濃かったということであろうか。
絵暦とは、文字の読めない(文盲の)人たちのために作られた暦で、「めくら暦」と呼ばれている。
「めくら」という言葉が差別用語ではないか、ということで放送使用禁止用語になっているらしいが、他の言葉で3_2言い換えるような姑息なことをするよりも、文盲の現実を見据えて、絵文字のような対応をすることの方が親切だし、意味があるのではないかと思う。
絵暦は、絵を描いた木の判を1つ1つ押して印刷して制作するという。

その絵文字がなかなかユニークである。
絵文字といえば、ケータイ・メール等で現代でも活躍しているが、まるでナゾナゾのような面がある。
岡田先生の講演が終わった後で、保存会の西川さんが、個別の絵の読解について解説してくれた。
例えば、芥子の図柄に濁点を付けると(右図)、「ゲシ=夏至」ということになる。
あるいは、禿げ頭の男が描かれていて(左図)、「禿が生じる」というこ6_2とで「ハンゲショウ=半夏生」だという。
岡田先生の補足説明によると、盛岡弁で「禿」の発音は「ハンゲ」に近いそうだ。
なお、天保15(1844)年は、最後の太陰暦(天保暦)が実施された暦史の上で重要な年とのことである。
未知のことばかりのイベントだった。

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2007年11月11日 (日)

『密告』…⑥藤田初巳

藤田初巳は、「広場」の主催者だった。嶋田青峰と同じ、1941(昭和16)年2月5日に検挙された。
「広場」は、葛飾広場の会、新潟広場の会、神戸広場の会、仙台広場の会……、といった全国組織の俳句集団だった。
会員には労働者が多かった。

初巳は、1905(明治38)年10月、東京の本所に生まれた。法政大学の国文科を卒業後、商業学校で教鞭をとるかたわら、「句と評論」誌を発行していた。
1937(昭和12)年、神田の三省堂に入社し、国語の教科書の編集に係わっていた。
三省堂には、渡辺白泉、阿部筲人がいて、俳句仲間だった。
三省堂は、昭和15年から『俳苑叢刊』というシリーズの俳書を刊行した。1人1巻で、ホトトギス派も新興俳句派も網羅していた。

『俳苑叢刊』を刊行し始めて間もない頃、小野蕪子から出版部長の永井茂弥宛で、「『俳苑叢刊』の刊行は結構だが、藤田初巳、渡辺白泉、阿部筲人の3人は赤い俳人であるから注意すべきである」という旨の手紙が届く。
警告通りに(?)、渡辺白泉は昭和15年5月3日の「京大俳句」の第2次検挙で拘束され、翌年には藤田初巳も検挙されることになった。

初巳も「手記」を書かされた。
『密告』の作者小堺昭三さんは、初巳の書いた「手記」の一部を実見した。「広場」に掲載した作品の解説である。おそらくは、ボツになった手記の下書きらしい。
例えば、

武器商人颱風の夜の地下に啖ふ

戦争ニヨッテ最モ大キナ利潤ヲ占メルモノハ、武器製作業ノ資本家デアリマス。彼等ハ、戦場ニオケル兵士タチノ困苦、銃後ニオケル国民大衆ノ窮乏ヲ犠牲トシナガラ、時運ニ乗ジテヒソカニ利潤ヲ追ヒ私腹ヲ肥スコトヲ忘レマセン。資本主義時代ニオケル戦時下ノ武器商人ノ経済的立場ハツネニコノヤウデアリマシタガ、今回ノ日支事変ニオイテモ、事変初期ニオケル戦時統制経済ノ制度ガ確立実施セラレル以前ニハ、同ジ現象ガ繰リ返サレマシタ。
地上ヲ吹キスサブ颱風(=戦争ニヨル社会的不安)ヲヨソニシテ、華麗ナ地下グリルノ静謐ナ夜ノ椅子ニ肥エタ腰ヲドッシリト卸シ、キラビヤカナナイフトフォークトヲ握ッテ分厚ナ獣肉ヲ魚肉ヲヒソカニ貪リ啖ッテヰル武器商人ノ姿ハ、ソノママ戦争トイフ餌食ヲ貪食シテヰル獣ノ姿デアリマス。第一句ニオイテ作者ハ、憎悪ノ眼ヲ以テコレラ武器資本家ノ姿ヲ描カヲト致シマシタ。

初巳は検挙されてから310日目に、巣鴨の東京拘置所に移された。その間、1度も入浴を許されず、全身が臭くなってしまった。
東京拘置所に移されたのは、昭和16年12月8日、日本海軍が真珠湾を奇襲した日だった。初巳は、代々木署から拘置所へ送られる護送車の窓から、軍艦マーチの流れる街を眺めた。
昭和17年2月6日、東京地方裁判所に連れて行かれた。
3日後の2月9日に、検事から「本日釈放、起訴猶予とする」と告げられた。

シャバに出て1週間目に、シンガポール陥落が報じられた。天皇陛下がご満悦なさっているという報道を、初巳は眉をひそめながら読んだ。
三省堂の職を失ったが、再就職の場はなく、一家の生活は困窮を究めた。

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2007年11月10日 (土)

『密告』…⑤嶋田青峰

新興俳句弾圧事件は「京大俳句」だけでなく、1941(昭和16)年2月5日には、「土上」、「広場」、「俳句生活」、「生活派」の関係者の検挙へ拡大した。
「特高月報」は、例えば「土上」グループに関して、以下のように記述している(小堺昭三『密告 昭和俳句弾圧事件』ダイヤモンド社(7901))。

「土上」グループは右者(嶋田青峰こと嶋田賢平)中心となり大正十一年高浜虚子の主宰する有季定型俳句「ほととぎす」派の一グループとして結成されたるものにして機関紙「土上」を発行しつつありしが、昭和八年頃より従来の定型派が花鳥諷詠を事とし、俳句を単に娯楽化し、実生活と遊離し居るに惟らず「ほととぎす」を脱退して無季定型に依る一派を起し、「プロレタリアリアリズム」に依る創作方法を採用し、勤労大衆の生活を詠むことを主眼とし、其の傾向漸次共産主義の立場を採るに至り、反資本主義的、反戦的意識を強調せる俳句を機関紙に掲載発表し以て大衆に対する共産主義意識の啓蒙高揚を図り来たるものなり

嶋田青峰は、1882(明治15)年に、三重県志摩郡的矢村に生まれた。
俳号は、志摩の名山青峰山よりとった。早稲田大学英文科を卒業後、中学の英語教員を勤めた後、1908(明治41)年に国民新聞社に入社し、虚子のもとで文芸欄を担当した。
虚子が退社すると、後任の学芸部長となった。その間、「ホトトギス」の編集を助けていたが、1922(対象11)年に篠原温亭とともに「土上(ドジョウ)」を創刊した。温亭が没した1926(大正15)年以後は、主宰者となった。

青峰は、新興俳句運動に理解を示し、「土上」に拠るグループは、無季定型による「生活俳句」運動を展開した。
新興俳句運動の担い手たちは、比較的若い層が多く、弾圧事件における被検挙者の中で、青峰は57歳という最も高齢者だった。
上記のように、青峰は虚子との関係が深かったから、主宰誌が新興俳句派の拠点となっていることに関し、虚子の門弟たちは、「恩ある虚子に弓を引いた」というような見方をした。
秋櫻子も心配して、「馬酔木」に「天地眼前にくずるるとも無季俳句を容認すべきではありません」と書いて、10歳上の青峰に忠告した。

青峰が検挙されると、虚子の弟子たちの反応は、「秋櫻子の警告を無視し、新興俳句派の若造たちにおだてあげられていい気になっていた天罰だ」などとささやいていたらしい(小堺:上掲書)。
新興俳句弾圧事件では、編集発行人の青峰の他、東京三(のち秋元不死男)、古家榧子が検挙された。
早稲田署に検挙され、肺結核が再発して早朝4時に喀血したのにもかかわらず、昼過ぎまで手当を受けず、帰宅を許されたのは夕刻近くだった。
結局それが原因となって健康を損ない、一度も立ち上がることができないまま、1944(昭和19)年5月31日に亡くなった。
5月31日は、青峰忌として季語になっている。

青峰の長男の洋一は、「家の光」の編集者だった。そのかたわら、「早稲田俳句」を発行し、有季定型を否定する新興俳句を推進していた。
「家の光」は、150万部という日本一の発行部数を誇っていた。俳句欄の選者は青峰が担当していたが、寝たきりになってしまったので、代わりの選者を探す必要があった。
洋一は、秋櫻子に依頼したが断られた。第二候補の富安風生にも断られた。しかし、共に、その理由は曖昧だった。
風生は、蕪子を推薦した。洋一にとっては、まさに「親の仇」である。
結局、蕪子が「家の光」の選者におさまり、洋一は自ら俳句欄担当から離れた。
蕪子は、「家の光」の選者の座が欲しくて、青峰を投獄したという見方もある(小堺:上掲書)。
青峰の作風は、次のように端正なもので、反戦俳句とは無縁のものだった。

月に顔さらして眠るうからかな
一木の下一石祀り青田道

だから、特高は、具体的な作品内容ではなく、新興俳句派の主柱的存在という理由によって留置していた。
つまり、留置は放置で、喀血するまでそのままにしておかれ、、留置場で亡くなられると困るから家に帰されたのだった。結局、その放置が命を縮める原因となった。

わが影や冬の夜道を面伏せて

何となく後年の悲惨な弾圧を予感しているかのような句とも感じられるが、故郷の的矢神社の境内に建っている句碑が、次のように伸びやかな作品であることに救われる思いがする。

日輪は筏にそそぎ牡蠣育つ

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2007年11月 9日 (金)

『密告』…④三谷昭

「京大俳句」グループに対する第2次検挙は、第1次から3ヵ月後の1940(昭和15)年5月3日だった。
被検挙者は、東京在住の三谷昭、石橋辰之助、渡辺白泉、杉村聖林子、大阪の和田辺水楼、淡路島にいた堀内薫の6人だった。
三谷昭、石橋辰之助、東京三らは、新しく「天香」という俳句雑誌を4月に創刊したばかりで、自分たちが検挙の対象になるなどとは考えてもみなかったらしい。

特高に没収されて「幻の最終号」となった昭和15年2月号の「京大俳句」の巻末に、「天香」の広告が載っている。
「天香」創刊のいきさつは次のようであった(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影 』思文閣出版(0507))。
昭和14年の夏ごろ、東京で新興俳句系の総合雑誌出版の機運が盛り上がり、大地主の当主だった石橋辰之助の義兄が、援助を申し出た。

スポンサーを得て、「天香」はハイカラな装丁の雑誌として創刊された。
俳句新興運動の現段階で為さねばならない仕事として、「真に優れた新人の発見紹介」「排他的結社主義の批判」「一般芸術界との交流深化」を挙げ、超結社の新興俳句系文芸誌を旗印にした。
創刊号は売れ行き好調で、2号もすぐに売り尽くすという状況だった。「天香」は順風満帆のスタートを思わせた。
しかし、創刊号発売の1ヵ月前には、既に「京大俳句」の第1次検挙が起きていたのだった。
「特高月報」には、第2次検挙に関して、以下のように記述されている。

本年二月検挙に着手したる京大俳句会関係治安維持法違反事件は、其の後京都府当局に於て鋭意調査中なるが、彼等は新興俳句の名の下に俳句のもつ合法性を巧みに擬装し、反戦反ファッショ運動を通じて共産主義思想の普及に狂奔しつつありたる事実明瞭となりたるを以て、更に本月三日関係者中の意識分子と認められる三谷昭外五名を警視庁、大阪府、兵庫県各当局の協力を得て検挙

三谷昭ら6人は、いずれも京都堀川署に連行され、留置される。
取調べが始まったのは約3週間後で、調書は、「俳句のリアリズム論を、1927(昭和2)年7月にモスクワのコミンテルン常任執行委員会会議で決定した『日本に関するテーゼ』の中の、『日本の共産主義文芸の基盤はプロレタリア・リアリズムによるべし』というプロレタリア・リアリズム」に結びつけようとするものであった(田島和生:上掲書)。

インタビューに応じた昭は、「平畑静塔、仁智栄坊、波止影夫らが京都府警に検挙されたらしいことは噂に聞いていたが、どういう理由で逮捕されたのかさっぱり分からなかった」と語っている。
昭は、赤坂区役所の区史編纂の仕事をしていたが、京都堀川署に移送されて区史編纂の仕事を失った。
調書以外に、作品の自解も迫られた。

ビールあげよ市民に燃える遠い戦火

昭が、「戦争で心を高ぶらせて乾杯をしている光景を詠んだのだ」と解説しても通用しない。
結局、「戦争に行くのは厭だ、と思っても口に出しては言えない。そうした厭な気持ちやわだかまる鬱憤を晴らしたくて、ビヤホールに集まって酔わずにはいられなくなっているところを詠んだ」というような解説をせざるを得なくなる。

「京大俳句」事件の昭和15年は、皇紀2600年が喧伝された年だった。
萬世一系の天皇制が2600年続いていることを奉祝する行事が多数行われた。
「金鵄かがやく日本の……」という「奉祝国民歌・紀元二千六百年」が歌われ、神武天皇をまつる橿原神宮には、正月三が日で125万人が参拝した。
天皇は現人神であり、そうした行事に参加することが、庶民の楽しみだったのだ。

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2007年11月 8日 (木)

『密告』…③平畑静塔

「京大俳句」の第1次の被検挙者の1人である平畑静塔(冨次郎)(1905(明治38)~1997(平成9)年)は、和歌山県の出身で、京都の旧制第三高等学校に進学した。
子規亡き後に主導権を争った河東碧梧洞と高浜虚子、山口誓子や日野草城らも三高で、その伝統が、「京大俳句」を生み出す土壌となったのだろう。
静塔は、京大医学部に進み、精神科の助手を務めるかたわら、リベラリズム志向の「京大俳句」の編集兼発行人となった。

静塔は、1937(昭和12)年に、兵庫県立精神病院の医局長として赴任した。
学生運動の経験もなく、もちろん共産主義者でもなかった。ただ、知識人の1人として、天皇政治と軍国主義への疑問は持っていたし、滝川事件に示されるような自由主義の学風が京大にあったのを幸せに思った、という感性も身に付けていた。
もし、兵庫県立精神病院で俳句弾圧事件に遭わずに平穏な人生を過ごしていれば、いずれ院長になっただろうし、高等官一等というような公務員として最上級の立場になったものと思われる。

1931(昭和6)年に関東軍が満州事変を起こし、日本は国際社会から孤立していく。
1937(昭和12)年7月7日には、北京郊外廬溝橋付近で中国軍と交戦するに至り、政府の不拡大方針にもかかわらず、戦線は、上海、南京と拡大していった。
政府・軍部は、開戦当初日本軍が一方的に勝利するだろうと考えていた。しかし、中国側の抵抗は激しかった。
昭和12年12月、南京が陥落するが、戦争は終結せず、国家総動員体制に移行する。俳人たちの応召も増えていった。

「京大俳句」も創刊5周年記念の昭和13年2月号で「支那事変俳句」を特集し、5月号で「戦争俳句論」を特集し、8月号で「戦争俳句」を特集した。
8月号で、静塔は、「戦争俳句の作り方要諦」を書いて、戦争俳句を、敵地俳句(戦闘・後方)と国内俳句(圏内・圏外)に分類した。
戦争俳句は、昭和14年にピークを迎えるが、秋以降は、戦争体験者そのものが急増し、戦火を想像して作る戦争俳句は激減した。

平畑静塔は、「京大俳句」の他の俳人たちに比べれば、思想取締りに関しては警戒心があったというべきだろう。
小野蕪子が主宰誌『鶏頭陣』の選句後記に書いていた「内務省当局の俳壇に対する思想的警戒は相当に神経をとがらせています」という言葉に反応し、「京大俳句」の昭和11年11月号に、「主幹(蕪子)は帝都の某官営文化事業にたずさはる人であれば、この言は相当たしかな筋からの聞き書きとしていいだろう」と書いた。
しかし、内務省からの動きがないままに、いつの間にかその警戒心も薄れていた。
京都府警の巡査部長が平畑静塔宅を訪れたのは、小野蕪子の言葉を忘れかけてしまった頃であった。

静塔の患者の中に、憲兵の拷問を受けて精神に異常を来たした人がいた。憲兵に取調べを受けるよりは、特高警察の方がマシだと判断し、治安維持法違反を容認したのだという。
そして、警部は、「各派プロレタリア俳句の展望」という文章を書かせたという。秋元不死男の手記と同様のものであろう。
その文章をもとに、逮捕すべき人間を特定するように迫られたらしいが、それは断固拒否した。

静塔は、検挙の半年後の昭和15年8月21日に起訴された。15人の「京大俳句」関係の被検挙者のうち、起訴は静塔、波止影夫、仁智栄坊の3人で、9人は起訴猶予、3人は嫌疑不十分で釈放された。
起訴処分になって、県立病院は依願免職となった。また、提出済みの博士論文が教授会で審査されなくなり、地銀支店長だった父親からは勘当された。
昭和19年10月応召し、南京の陸軍病院に派遣された。
戦後、博士論文が改めて審査され、学位を得て関西医科大学の精神科教授の職に就いた。
しかし、一度貼られた「アカ」のレッテルがついてまわる。転職を余儀なくされるなど苦労した末に、関西から遠く離れた宇都宮の精神病院に終生の職の座を得て、俳人として生涯を全うした。

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2007年11月 7日 (水)

党首会談を巡る既視感

今朝の新聞では、小沢氏の続投が決まったと報じられていた。
なにやら「大山鳴動して……」という感じではあるが、現在の民主党にとっては、現実的な落とし所というべきだろう。
それにしても、自分たちの能力に疑問符を付けられながら、続投を懇願しなければならないというのも何だかヘンな話だ。

福田首相と小沢代表の発言内容には、「大連立案をどちらから持ちかけたか」や「テロ対策特措法新法の成立にこだわらない、と発言したか否か」などいくつかの相違点があるが、そこは狐と狸の事後報告というものだろう。
しかし、既視感を覚える原因は、そもそも「密室での話し合い」というところに根本の原因があったのではないのだろうか。
今回の問題の焦点は、安全保障や外交に関する基本的なスタンスに係わるものだった。つまり、国家として最も重要なイシューである。

しかし、福田首相も、小沢代表も、党内での意見集約という手続きを踏んでいないことは明らかである。
2人が「腹を割って」話し合った結果、見解の一致をみたとしても、だから「GO」というのは余りに短絡的ではないのか?
西郷隆盛と勝海舟の時代とはわけが違う。
少なくとも、議員は国民が選んでいるのだから、建前上も議員に諮る必要があるだろう。
民間企業ならばトップダウンの方が好ましい場合がある。しかし、議員集団としての意思決定は、民間企業とは意味合いが違うはずである。
小沢氏は、だから党に持ち帰ったのだと言うかも知れない。しかし、そうだとしたら、役員会で否認されたからといって、辞職する理由にはならないのではないか。

民主党の役員会で否認されたのは当然だと思うが、一部には、それは民主党幹部の政治感覚の未熟性を示すものだ、という解説がある。
衆議院で与党が圧倒的多数を占めている以上、与党の反対するような内容の民主党の政策が実現する可能性はない。
とすれば、政権に参画して政策の実現を図りながら、その実績を示して、次の総選挙で逆転を狙うというのが小沢氏の描いたシナリオで、福田首相は、「庇を貸して母屋を取られる」ことになっただろう。
にもかかわらず、民主党の幹部は、参院選の勝利によって、総選挙でも容易に勝てるように錯覚していて、小沢氏のこのシナリオを理解できなかったのだ、というみかたである。

もちろん、総選挙のタイミングなどにもよるだろうが、さまざまな面で与党は有利である。与野党逆転して政権交代が起きる可能性は、一般には低いと考えるべきだろう。
しかし、その可能性は決してゼロではない。
連立して政権内部にいて総選挙を迎えるのと、野党として総選挙を迎えるのと、どちらが有利なのか、私には分からないが、仮に、連立の方が有利だとしたら、選挙のための連立ということだから、どうも本末転倒のような気がする。
密室での会談による意思決定が、一般国民に広く受容されるとは思えない。
としたら、連立を否認しつつ、小沢氏が続投するという所に落ち着かざるを得ないだろう。

そもそも福田首相の誕生の経緯からしてオールド自民党の復活劇を見ているようであった。
総裁選の事前に、派閥単位で福田氏支持の方向性が決まってしまっていた。
新しければいい、というものではないことは当然だが、いかにも旧態ではないだろうか。小渕首相が急逝して森首相が誕生した時の密室の合議が、いかに国民から支持を得られなかったか、改めていうまでもない。
今回の「福田-小沢談合」は、何やら、小沢氏の父の佐重喜氏が「安保特別委員会」の委員長だった時代(10月8日の項)に、一世代遡ってしまったような感じを覚える。

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2007年11月 6日 (火)

小沢辞意表明を巡る既視感

小沢民主党党首が4日に記者会見を開いて、辞職願を鳩山幹事長に提出済みであることを明らかにした。
衝撃的なニュースではあったが、小沢氏は、「辞職願を提出して進退を委ねた」としているようだし、民主党の大勢は慰留する方向のようだから、小沢氏が翻意する可能性も高いと考えられる。
それはそれとして、報道に接して、多くの人が、既視感(デジャヴュ)に近い感覚を覚えたのではないだろうか。

既視感を覚える要因の第一は、小沢氏の行動パターンとして、「またか」という感じがすることである。
7月の参院選で民主党が参院第一党となり、政権交代に向けて攻勢をかけて行く局面ではないか、というのが大方の認識だったのではないだろうか。
その意味では、「まさか」である。
しかし、1992年に竹下派を割って羽田派(改革フォーラム21)を立ち上げ、翌93年新生党を結成して、8党派連立による細川政権を樹立して以来、党派の離合集散を主導してきたことは記憶に新しい。
「剛腕」とか「壊し屋」と呼ばれる軌跡である。

第二には、9月12日の安倍首相の辞任表明(9月13日の項)との関連である。
政局の変転は早いから、もう昔の出来事のような気がしないでもない。
安倍さんも過去の人になってしまっているが、まだ2ヵ月足らずしか経っていないのだ。
もちろん、総理大臣と野党の党首では重みが違うとも言えるし、安倍氏の時に比べれば、説明責任を果たそうという姿勢も窺われる。
それにしても、やはり唐突感において、似たような印象を受けることは拭えない。

小沢氏は、代表を辞職する理由として、以下のようなことを挙げている。
1.民主党は未だ力量不足で、国民から政権能力ありと判断されていず、次の選挙での勝利は危うい
2.という状況ならば、政策を実現するためには、政権に加わることがベターだと判断する
3.そこに、福田首相から「大連立」」(自・公・民)案をもちかけられた
4.それを党に持ち帰ったところ、役員会の全員から反対された。自分に対する不信任と同様の事態と判断した
5.また、民主党に不利なマスコミ報道が多く、自分が代表でいることが党利に反するのではないかと判断した

2度にわたって行われた党首会談の実際に関しては、マスコミ報道等を通じてしか知る由もないが、上記の小沢氏の発言内容は、不自然な感じが残る。
何よりも、政権交代を可能にする二大政党制というのが、小選挙区制導入以来の小沢氏の持論ではなかったのか。
民主党の政権担当能力に関する判断や国民の評価は置くとしても、参院選前よりも総体的な力関係が不利になっているとは思えない。
もっとも、参院選で民主党に「勝たせ過ぎた」という感覚もあることは事実だろう。
しかし、それをどうクリヤしていくかこそ、党首の手腕というものではないのだろうか。

ドイツでは、アンゲラ・メルケル率いるキリスト教民主同盟 (CDU)が、ドイツ社会民主党(SPD) 、キリスト教社会同盟 (CSU)と「大連立」を組んでいるし、オーストリアでは、アルフレート・グーゼンバウアー率いるオーストリア社会民主党(SPÖ)が、第2党のオーストリア国民党(ÖVP)と大連立を組んでいる。
つまり、「大連立」は、帝国アメリカの流動化現象に対応するための知恵ある対応なのだ、という見方もあるようである。
国内情勢が安定していることが国益に適うという判断である。

しかし、現在の日本で、もし自・公・民の「大連立」が成立すれば、野党は弱小政党だけとなり、大政翼賛会の再来といった状況になる。
国際関係的に、政権基盤が安定することが好ましいといっても、それが本当にいいことなのか。
民主党も寄り合い所帯で一概には言えないにしても、大勢が、大政翼賛会的情勢を選択しないであろうことは小沢氏もよく認識していたと思われる。

とすれば、小沢氏の辞任表明の背後には、未だ明らかにされていない(あるいは明らかにすることのできない)事情が存在しているのかも知れない。
例えば、政治資金関係の事情については、以前からいろいろ言われている。
話題の防衛商社・山田洋行からも、返還済みとはいうものの相当額の献金を受けていたというし、テニス旅行などの過剰接待疑惑が報じられている自衛隊出身(元空将)の田村秀昭元参院議員は、小沢氏と近い立場だったと言われる。
そういった辺りで、何らかの圧力があったのではないか、というようなことが単なる妄想であれば幸いである。
この既視感が、「いつか来た道」を再来する予兆でないことを信じたい。

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2007年11月 5日 (月)

私の『夏草冬涛』

井上靖『夏草冬涛』新潮社(6606)(産経新聞に640927~650913連載)は、井上の分身ともいうべき「洪作」少年の旧制沼津中学(現沼津東高校)時代の交友のありさまをベースにした青春文学の傑作である。
私も同校のOBであるが、在校生に対しておそらく必読図書に指定しているのではないかと思う。
井上さんの時代とは、社会の姿はすっかり変わってしまっているが、青春のあり方がそんなに大きく変わり得るはずもない。
随所に思い当たるような節があることは、多くの同窓生が感じることではないだろうか。

3日の夜、その時代を共に過ごした友人たちと、久しぶりに再会する機会を得た。
主幹事は、沼津で弁護士として活躍しているOである。Oは、大学在学中に司法試験に合格し、裁判官を何年か務めた後、地元に帰って開業し、県の弁護士会会長など要職を歴任している。
社会正義感、人を逸らさない話術、弱者への眼差し等を併せ持った、弁護士が天職ともいうべき性格の持ち主である。

そのOの求心力も与って、急遽の話だったにも拘わらず、大阪、京都、横浜等の遠隔地も含め、かつての仲間の8人が集まった。
個別には会う機会があるものの、まとまった人数ということになると、そんなに滅多にあることではない。
Oと私は、大学も一緒で下宿も近かったのだが、その後の会社生活においても、長い間顧問弁護士として一方通行的に世話になっている。Oに協力して諸連絡等を担当した。

一次会を某寿司屋さんで過ごした後、私と同じ下宿で生活していたYと東京の大学に行ったKが、もう少し話を続けようということで、地の利のいいわが家に立ち寄った。
YとKは、高校時代に自治会の代表を引き継いだ仲でもある。
Yは、大学に残って学究生活を続ける一方で、さまざまな政治的課題に取り組んでいる。頭髪に白さが目立ち、メタボ体型化が進んでいるように見受けられるものの、考え方も議論のスタイルも学生時代と余り変わっていない。
私とは、学生時代から、「違いを認め合う(agree to disagree)関係」とでも言えようか。
Kは、三菱系の日本を代表する企業で、系列法人の社長等を務めたが、既に悠々自適の日々を過ごしているようだ。
私は、ベンチャー企業に転じた結果、未だに悪戦を続けている。

往時の思い出やその後のそれぞれの人生経路の出来事を巡って話のタネは尽きず、まあ、「三酔人○○問答」といった趣がなくもない。
固有名詞がなかなか出てこなくなっているのは共通で、「アレ」とか「ソレ」という代名詞が増えてくるのは致し方がないだろう。
それでも、お互いに補いあって、エンドレスの会話が続く。
空が白み始めたところで、朝早くからの欠かせない仕事を控えていた私が、「そろそろ終わりにしよう……」ということにして、妻に運転を頼んでそれぞれ送り届けて、ようやくendingとなった。
私の都合さえなければ、当然さらに延長していたはずだ。
2_4時の過ぎるのも忘れて……というのはまさにこういう感覚ではないだろうか。

YとK(と私)の果てしなき議論を傍聴していた妻は、2人を送って帰る車の中で、「あなた達は、本当に『夏草冬涛』の世界の住人なのね」と感心したのか呆れたのか分からぬ口調で、感想を洩らした。
良き友に恵まれた青春だったと改めて思う。
なお、「夏草冬涛」に因んだ文学碑が、沼津市内の妙覚寺(小説では妙高寺)という寺に建てられている。

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2007年11月 4日 (日)

『密告』…②仁智栄坊

「京大俳句」の第1次の被検挙者の中に、仁智栄坊という変わった名前の俳人がいる。
私は、果たしてどう読むのだろうと思っていたのだが、『密告 昭和俳句弾圧事件』に種明かしがあった。
仁智栄坊とは、ロシア語のニーチェボーをもじった俳号だという。
帝政時代、ロシア農民は地主や官憲から虐げられても、「ニーチェボー」と舌打ちして我慢した。「気にするな、勝手にしやがれ」という感じに近く、英語なら「ネバーマイン」、中国語なら「没法子(メイファーズ)」ということになる。

『密告』の著者、小堺昭三さんにインタビューを受けた仁智栄坊さん(1910(明治43)年生まれで、当時67歳というから、1977(昭和52)年頃のこと)は、「私を俳句弾圧事件の受難者あるいはヒーローとみる見方は誤解で、自分で思うようにやった結果、という気持ちしかない」と最初に断っている。
そして、「甘かったなあ……」と語り始める。
特高警察に象徴される国家権力に対する認識が「甘かった」ということである。
彼ら(俳句弾圧事件の被害者)とて、当時の国家権力の恐ろしさは認識していた。
しかし、事実は、彼らの想定を超える形で進んでいったのだった。

1928(昭和3)年の3月15日、翌昭和4年の4月16日、日本共産党員が大量に検挙され、同党は潰滅的打撃をこうむった。
昭和3年に改悪された治安維持法は、死刑、無期を含む極刑が追加された。内務省が全府県警察部に特別高等課(特高)を設置したのも同年である。
治安維持法の改悪に対して、「山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから……」の名演説を残した山本宣治も、昭和4年に、右翼テロリストの凶刃に倒れる。

そんな時代背景の中で、「花鳥諷詠」などと言っているのは、現実から目を背けるものではないのか?
当然のことながら、さしものホトトギス王国も揺さぶられ、新興俳句が次第に力を強めていく。

水枕ガバリと寒い海がある      (西東三鬼)
蝶落ちて大音響の結氷期      (富沢赤黄男)
絶顛へケーブル賭博者をのせたり (平畑静塔)
血に痴れてヤコブの如く闘へり   (神崎縷々)
白き掌にコルト凛々として黒し    (日野草城)

これらの句群をどう評価すべきか? 
ホトトギス派のように眉を顰めるか、新しい俳句の可能性を切りひらくものとして高評価するか? 
率直に言って、私には良く分からない。
中村草田男、石田波郷、加藤楸邨らは、ホトトギス王国に背を向け、新興俳句運動に多大の理解を示しながら、伝統の有季定型を崩さない立場を取った。
彼らは、「新感覚の人間探究派」と呼ばれるようになるが、今の時点では、その辺りが最もシンパシーを感じる立場のような気がする。

1933(昭和8)年には、小林多喜二が拷問によって虐殺され、滝川事件で知識階級も大きな打撃を受けた。
個人的なテロの対象になったという意味では、「60年安保」の挫折感など比較できないような状況だっただろう。
言い換えれば、いわゆる左傾者は一掃されたも同然だった。
新興俳句のメンバーが、「たかが十七文字くらい……、しかも内容はあくまで社会派であり、ヒューマニズムの発露だ。それをまさか危険思想と捉えられることはあるまい……」と考えたとしても止むを得ないだろう。

仁智栄坊宅に、京都府警の特高刑事がやってきたのは、1940(昭和15)年2月14日午前5時だった。
仁智さんは、大阪外語学校露語科を卒業し、大阪逓信局でソ連領から発信される無線を傍受して、その内容を日報として提出していた。
仁智さんの書斎には、仕事の関係上当然のことではあるが、ロシア語の原書や辞典をはじめ、プラウダなどの新聞雑誌の類がたくさんあった。もちろん、それらは刑事に押収されるところとなった。
それらを根拠史料として、仁智さんに辞表を書かせ、拷問をほのめかしながら、「手記」を強要した。
内務省警保局保安課が厳秘資料としていた「特高月報」には、「京大俳句」の第1次検挙グループに関して、以下のような記述が見られる。

プロレタリアートの実践運動をインテリゲンチャの知性を活用して側面より指導啓蒙すべく企図し、巧みに合法を偽装して人民戦線的イデオロギーに基づく広汎なる活動をなしつつあるものなり。

仁智栄坊:本名は、北尾一水(カズミ)。1910(明治43)年~1993(平成5)年。

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2007年11月 3日 (土)

『密告』…①小野蕪子

小堺昭三『密告 昭和俳句弾圧事件』ダイヤモンド社(7901)は、新興俳句弾圧事件の実態を、現存する(した)証人への取材を中心に、詳細にまとめあげた作品である。
この中に、小野蕪子という人物が登場する。
よほど俳句に詳しい人でないと名前を知らない存在だろうが、五木寛之『さかしまに』の黒野寒流子のモデルであることは、名前からしても想像できる。
小野蕪子のプロフィールを紹介している箇所を引用してみよう。

小野蕪子は、正義の密告者となって特高警察の手で合法的に新興俳句運動を弾圧させ、同時にホトトギス王国の高浜虚子をもおさえて、全俳壇に君臨しようとした野心家でもあった。
(中略)
小野蕪子は、東京日々新聞(毎日新聞の前身)の社会部長から日本放送協会(NHKの前身)の文芸部長兼企画部長に転じ、内務省計画局審査委員や文部省教育局委員も兼務、多彩なる才覚をもち、俳句雑誌『鶏頭陣』の主宰者でもあった。

小堺さんは、蕪子の直弟子の中島斌雄さんから、蕪子の人となりをヒヤリングしている。
師についてのことだから、中島さんの言葉にはバイアスがかかっているだろうが、おおよそ以下のような人物像が語られている。
一種のディレッタントで、絵を描かせても上手だし、俳句も詠む。小説や随筆もうまいし、古美術の研究家でもあって、とくに陶器に関しては大家だった。
日本の伝統ある芸術の良さを現代に残すことに力を注いだ、いわば美の使徒だった。

俳句弾圧事件も、日本の伝統を守ろうとするために異分子を排除したかったということだろう。
蕪子は、地方有力紙である秋田魁新聞の俳句欄の選者をしており、秋田を第二の故郷だと言うようにまでなっていた。
その自分の縄張りだと思っていたところに、「京大俳句」をはじめ、「土上」、「広場」、「俳句生活」などの新興俳句誌が全滅した後に、新興俳句派の「蠍座」が創刊された。
主宰の加才葩瓜子(ハカシ)が、「古びたる歴史より解放された明日の歴史の建設に邁進する」ために高浜虚子を「封建的結社主義の城壁をかたくとじた独善的な、あまりにも卑怯なる黙殺主義」者だと攻撃する文章を発表したのだから、蕪子としても許せるものではなかった。
「蠍座」では、葩瓜子と高橋紫風が検挙された。

蕪子は、『戦争と梅干』と題する著書の中で次のように書いている。

私は和歌や俳句の小詩形のかげに隠れてゐる変な分子がありはしないかといふことを恐れてゐます。俳句の雑誌をみてすらドウかと思ふ議論や作品に接します。これら不純分子を征伐するのもいいと思ひます。「魁俳壇」も人と時を見て、どなたかに後継して貰ひたいのですが少なくも私が預かってゐるうちにには不純な分子の潜入を断じて許しません。

蕪子は、「愛国心の発露」から新興俳句派の弾圧に協力したが、目標は、新興俳句を潰滅させることによって、虚子に恩を売ろうとしたところにもあった。
しかし、虚子は時流を超越する態度を崩さなかった。
例えば、昭和17年の「ホトトギス雑詠年刊」に載っている虚子の句は、戦勝祈願のスローガン俳句が多い中で、下記のようなものであった。

唄いつつ笑まひつつ行く春の人
北に富士南にわが家梅の花
春泥に映りすぎたる小提灯

新興俳句の弾圧に与るところが大きかった蕪子だったが、腎臓炎を悪化させて尿毒症を併発し、苦しみながら昭和18年2月1日に死去した。享年56歳だった。
日本軍がガダルカナル島を防備しきれずに撤退を開始したときであり、2ヵ月後には、連合艦隊司令長官の山本五十六が戦死する。
蕪子のことは、戦局が悪化する中で、急速に忘れられていった。
権力への野望、あるいは権力を背景にした策謀の末路は虚しい。

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2007年11月 2日 (金)

『さかしまに』

新興俳句弾圧事件を素材にした小説に、五木寛之さんの『さかしまに』(齋藤慎爾編『俳句殺人事件―巻頭句の女 』光文社文庫(0104)所収)がある。「オール讀物」の75年5,6月号に連載された作品である。
「私」は、商社の社員に商業ロシア語会話を教えたり、ソ連の出版物の記事や論文をダイジェストする仕事で生計を立てている。
「私」がつき合っている佐伯瑶子は、1943年生まれで、劇団の看板女優であり、NHKの連続ドラマに出演したりしている。

ある日、瑶子は「わが父を語る」というようなテーマで取材を受けた。
瑶子の両親は、瑶子が1歳のとき離婚し、父は各地を転々としたあと、朝鮮戦争が始まった1950年前後に九州の病院で死んだ。
だから、瑶子には父親の具体的な記憶がない。
父の名前を聞いて、取材をしていた老記者は驚いたような様子を見せる。

瑶子の父は、昭和の初期から10年代にかけて活躍した俳人であるが、最近の研究家たちは余り取り上げることがない。
当時の俳壇では<カササギ>に拠るグループが、内部にさまざまな対立をはらみながらも巨峰として存在していた。その伝統的な創作態度にあきららぬ若いエネルギーが、新しい俳句運動をまきおこした。
<カササギ>の伝統的な創作姿勢は、花鳥諷詠・季題尊重・客観写生と説明されていて、<ホトトギス>のことを指していることは、俳句史に関心を持つ人たちには明らかである。
また、<カササギ>内部の四天王と呼ばれた俊秀たちが俳句の近代芸術化を試みた、とされているのは、「4S」の秋桜子・青畝・素十・誓子のことである。

四天王の一人、春楊子(=秋櫻子)が<カササギ>を脱退した1931年が新生俳句運動(=新興俳句運動)のプロローグだ、というのも、史実を反映した背景設定である。
瑶子の父は、<カササギ>の雑詠欄に選ばれるような実力を持った俳人だったが、春楊子に先立って<カササギ>から離れて孤立の道を歩む。
新生俳句の俳人たちは、その創作姿勢や作風に大いに敬意と好感を抱いていた。

そして、俳人弾圧事件が起きる。
瑶子の父は、金沢市の中学で教鞭をとっていたが、昭和14年夏、突然に警察に連行され、京都の堀川署に留置される。
2週間後に釈放され、地方俳誌に自己批判の文章を発表し、これからは国策にそった国民俳人として生きていく決意を述べる。
一種の転向声明である。
留置の2週間に何があったのか?

釈放された後、瑶子の父はしばしば京都を訪れて特高と会談していた。
その会談の内容は、京都府の公安担当の係官を集めて、俳句解釈の講義を行うことだった。
<新生俳句>にはさまざまな考え方があったが、当局の目からすると、それらは何となく危険な匂いのする主張だった。
しかし、個別の作品について、反国家性や非国民性を明確にすることは、難しい作業だった。転向俳人の瑶子の父は、<新生俳句>の作品を解剖し、危険思想を摘出する作業の手伝いをした、という噂が流れた。

真相は?
<新生俳句弾圧事件>は、思想犯の追及に辣腕をふるっていた青年警部と、黒野寒流子という俳人の共同戦線によるものだった。
青年警部と寒流子は、東大時代に同窓の友人だった、という設定である。自分の主宰誌を創刊したばかりの寒流子は、<新生俳句>の掃討によって、俳壇の中での自分の地位の確立を図ろうとした。
警部は、大本教の不敬事件にかかわり、思想問題追及を武器に出世をしようと考えた。
瑶子の父は、寒流子をカモフラージュするために仕立てられた「いけにえ」だった。
しかし、瑶子の父は、反戦・厭戦の意志を、一種の暗号として残していたのだった。

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2007年11月 1日 (木)

無季容認論と社会性

俳句といえば、「五・七・五」の定型に「季語」を折り込んで作る、と教えられた。
しかし、新興俳句運動は、虚子の花鳥諷詠の客観写生に反発して新しい素材を求めようとしたから、季語不要論に傾くことになりがちであった。
「京大俳句」で無季俳句を積極的に進めたのは、吉岡禅寺洞であった。
禅寺洞は、「俳句は季感、季題が第一義ではなく、十七字が基で、生活を詠う必要がある。季は絶対ではない」と主張した(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影 』思文閣出版(0507))。

禅寺洞に師事した篠原鳳作は、次のような新鮮な作品を発表した。

しんしんと肺碧きまで海のたび

「京大俳句」の中でも、当初は無季俳句に対する態度はまちまちだったが、次第に無季を容認する会員が増えていった。
水原秋櫻子の主宰する「馬酔木」が有季定型を固守していたが、無季に批判的な山口誓子は、昭和10年に「京大俳句」の顧問を退いて、「馬酔木」に参加した。
誓子は、「『俳句を詩に』ではなく『俳句に詩を』」と主張し、「季と十七音の伝統を輝かす以外に俳句の正当な発展はない」という立場をとった。

誓子が顧問を辞すと、「京大俳句」では、無季容認論がさらに強まっていった。
山口誓子は、新興俳句運動の潮流を、「季」に対する態度によって次のように腑分けしている(田島和生『新興俳人の群像 』)
1.歴史派
「季」に意味がある以上、「季」を守れ。「馬酔木」など。
2.無季容認派
無季でも有季でもよし。「句と評論」(松原地蔵尊主宰)など。
3.超季感派
「季」を捨てよ。「天の川」(禅寺洞主宰)、「旗艦」(日野草城主宰)など
4.その他
一定の主張はない。「京大俳句」、「土上」(嶋田青峰主宰)、「火星」(岡本圭岳主宰)など。

1931(昭和6)年に満州事変が起き、翌年満州国の建国が宣せられるが、国際世論は満州国を承認しなかった。
日本は、昭和8年に国際聯盟を脱退するが、それと連動して、「滝川事件」に見られるように、共産主義者だけでなく、信仰や表現の自由に対する取り締まりが厳しくなっていった。
昭和10年12月8日には、第二次大本事件が起き、治安維持法が宗教団体にも適用されるようになる。
出口王仁三郎他の教団幹部が検挙されると共に、綾部・亀岡の教団施設が跡形も無く破壊され、関連施設は競売に付された。激しい拷問によって16人が死亡するという徹底した弾圧だった。

昭和11年2月26日、皇道派の青年将校が兵を率いて武力決起した「二・二六」事件が起き、社会不安がさらに高まった。
こうした時代背景の下で、俳句界でも社会性に対する関心が深まり、「生活に根ざした俳句」として、「土上」の古家榧子によってリアリズム俳句が唱えられた。
これに、東京三(戦後秋元不死男)らが賛同してリアリズム俳句が広がっていった。
「京大俳句」では、井上白文地、三谷昭らが、時代の不安感を捉え、軍国主義を暗に批判するような作品を発表するようになる。

アカデミの学の青ざめゆく世なり(井上白文地)

戒厳司令!! 黄濁の空に雪歇みぬ(三谷昭)  (歇(ヤ)みぬ)

三谷昭は、「京大俳句」の昭和11年9月号に「燈火管制」の題で反戦のニュアンスを強めた俳句を発表した。

支那夫人空襲仰ぐ瞳の愁ひ
反戦の意志は言ふまじ犬と遊ぶ
ひとらたゞ燈管の灯を消すならひ

さらに12月号には、波止影夫が「菊と時代」と題して天皇制(皇軍)を暗に風刺した作品を発表した。

菊さかり将軍『赤』の子に泣けり
失業に國歌がさぶい菊の頃
少年の描けり黄金の色の菊

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