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2007年11月30日 (金)

『俳句とあそぶ法』…④季語(2)

『俳句とあそぶ法』の「5 動不動-季語(二)」の章は、次の句を巡る論争から始まる。

鶏頭の十四五本もありぬべし  (子規)

この句については、既に「俳句評価の難しさ(8月24日の項)」や 「有名句の評価…①子規(10月17日の項)」で触れている。
江国さんは、この句をめぐる論争を「有名な水かけ論争」と評している。要するに、論理的に結論が出ない問題だ、ということだろう。

この句については、上記の「有名句の評価」のところでもみたように、現代俳人の間でも評価が揺れているようである。
それは、主として「ありぬべし」という言葉の使い方をどう読み取るか、というところにあった。
江国さんによれば、「十四五本」という鶏頭の本数に関して、「なぜ、四、五本ではいけないのか、二、三十本でもいいではないか」と論争になった。
そして、山口青邨の「この句はその数も面白いし、『ありぬべし』の表現が、一句をひきしめて人に迫ってくる。あまりの単調さもこれで破られている」という評価を紹介している。
おそらくは、江国さんも同意見ということなのだろう。

ただ、「なぜ鶏頭でなければならないか」と、季語の部分が論点になってもいいのではないか、と問う。
「雛菊の十四五本もありぬべし」「曼珠沙華十四五本もありぬべし」「水仙の十四五本もありぬべし」と挙げていけば、春夏秋冬すべてに合う。
つまり、季語の必然性がない、ということであり、それを「動く句」とする見解があることを紹介している。
志摩芳次郎という人は、「はぜ舟の十四五艘はありぬべし」「花見客十四五人は居りぬべし」と置き換えられる、と批判しているという。

次いで、これも「有名句の評価…④虚子(10月20日の項)」でも触れた次の句を取り上げる。

流れ行く大根の葉の早さかな  (虚子)

江国さんは、「私のもっとも好む句」だとしている。
写生のお手本とされている句であり、上記の「有名句の評価」においては、現代俳人たちもこぞって絶賛している。まあ、名句中の名句ということだろう。
確かに、風景のポイントを掬い取った名句といわれればその通りだと思うが、皆が皆賞賛するものには反発したい、という生来の天の邪鬼が頭をもたげてくる気がする。
江国さんは、この句の良さがわからなければ、十回十五回とわかるまで読み返せ、と説いているが、そして繰り返して鑑賞しているうちに、良さがわかることが多いことは認めるものの、「高屋窓秋(11月15日の項)」の「映画のわずか数秒間にも劣る描写俳句」という評の方が私の感性には適合している。

季語の“動・不動”という物差しに照らせば、「大根の葉」は先ず動かないが、名句であって、季語が動く句はいくらでもある、と江国さんは説く。
例として、

しぐるるや僧も嗜む実母散  (茅舎)

の「僧も嗜む実母散」は、「根岸の里の侘び住まい」と同じように、どんな上五にも合うだろう、とする。
この実母散については、「1 俳句をどうぞ」の章では、次の句を紹介している。

風邪ひいて母の匂ひの実母散  (万木)

万木とは、かつての自民党党人派代議士の代表格として、あるいは新幹線の岐阜羽島駅の強引な誘致などで有名な故大野伴睦の俳号である。
句と人物像が乖離しているように思うが、そういう意外性も俳句の面白さの一つなのだろう。

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