『されど われらが日々--』
青春に蹉跌はつき物だ。しかし、「されど……」と思う気持ちは多くの人が共通して持つ感情だろう。
柴田翔『されど われらが日々-- 』文春文庫(7406)(元版は、文藝春秋1964)は、この気持ちをうまく捉えたタイトルである。このタイトルが思い浮かんだことによって、多くの読者を獲得することを半ば保障されたようなものではないだろうか。
1964(昭和39)年上半期の芥川賞を受賞した。短編が対象とされる芥川賞では異例の長さである。
受賞して直ぐ単行本化された。私が大学2年の時である。単行本ではなく、受賞作が掲載された「文藝春秋」で読んだような記憶がある。
作品の出来事は、1959(昭和34)年秋から1960年春までの数ヵ月の間のことで、主人公の「私」が、大学院の修士論文を仕上げようとする時期として設定されている。
しかし、物語は、1952(昭和27)年の「血のメーデー」事件に遡る。
朝鮮戦争が、1950年6月に始まる。1951年7月に休戦会談がスタートするが、両陣営の思惑が交錯し、休戦協定が成立したのは1953年7月のことだった。
国内の情勢をみると、1948年に帝銀事件が、1949年には旧国鉄を舞台にした下山事件・三鷹事件・松川事件が相次いで起きた。
松本清張が「日本の黒い霧」と名づけた一連の不可解な事件である。
このような不穏な社会情勢を背景に、1950年からレッドパージが始まる。
民主化から反共の砦へ、いわゆる逆コースの時代である。
日本共産党は、レッドパージ後に中国に亡命した徳田球一によって武装闘争のための軍事方針が採られ、農村部でのゲリラ戦などを想定した「山村工作隊」「中核自衛隊」など非公然組織が作られた。
そういうことも影響しているのだろうが、1952年のメーデーは、宮城前広場で、メーデー参加者と警官隊が激突し、死者2名、重軽傷者740名以上という惨事となった。
1955年7月の第六回全国協議会で、公式に武装闘争方針が否定されることになるが、共産党の方針を信じて非合法活動に従事していた若者たちの挫折感は大きかった。
ブント書記長の島成郎さんも、その1人だったのだろうが、この小説の登場人物たちも、多かれ少なかれその挫折感を背負っている。
例えば、「私」の婚約者節子は、「私」の遠縁に当たり、東京女子大を卒業して商社に勤めている。
節子は、東京女子大時代に歴史研究会(歴研)という左翼サークルに所属していたが、東大駒場の歴研との合同研究会で、佐野という学生と知り合う。
佐野は、高校2年の時に入党した筋金入りの共産党員で、高校の細胞(共産党の末端組織)のキャップをしていた。
佐野は、血のメーデーに参加し、仲間に対して激烈なアジ演説をするが、警官隊と対峙した時に、襲いかかる警官の姿を見て恐怖に駆られ、スクラムをふりほどいて逃げてしまう。
それが負い目になって、東大入学後は、機関紙の配布などの手仕事を誠実にこなす。その誠実さが認められて、中核自衛隊の一員となり、東北の山村で軍事組織に従事する。
軍事訓練を続ける中で、いざ革命という時、自分はまた裏切ることにならないだろうか、という不安に駆られるが、共産党指導部の方針転換によって、軍事組織は解体される。
それをきっかけに佐野は共産党を離れ、平凡な学生となることを選ぶ。
卒業してS電鉄に入社し、実務能力を認められて順調な社会人生活を送り始める。
実力者の副社長と一緒に出張した帰り、副社長に誘われて箱根の別荘に泊まるが、副社長が胃癌による死の恐怖に怯える姿を見てしまう。
そして、「俺は死ぬ間際に何を考えるだろうか」と自問する。
瞬間的に出た佐野の自答は、「俺は裏切り者だ!」である。「死ねば楽になる」と思い、睡眠薬を持って山の宿に向かい自殺する。
高校時代にデモのスクラムから逃げ出したことが、死を求めるほどの罪の意識になるかとは思うが、まあその辺りは目をつぶりたい。
仕事の関係でしばしば鹿児島を訪れる機会があった時期があるが、桜島の噴火による降灰は、どんなに締め切ったつもりの窓からも入り込んでくると聞いたことがある。「死ねば楽になる」という想念も、この降灰のようなもので、それが心の中に忍び込んでくることを避けることは難しい。
青春のあり方は時代の状況と切り離せない。
手紙や記憶の再生などが組み合わされて、構成に工夫が凝らされているのだが、その手紙が著しく長文なのだ。
ほとんどの情報交換を電子メールで済ませているであろう現代の青春とは自ずから大きな隔絶がある。
現代の若者が、こういう小説を読むものなのかどうか、読んでどんな感想を持つのか、興味のあるところだ。
この小説は、世代的な体験の意味を問うことをテーマにしているといっていいだろう。
そして、登場人物たちと私とは10年近くの差があって、それは大きな体験の差をもたらしている。「山村工作隊」などは小学校に入学した頃の話で、遠い過去の出来事である。
にもかかわらず、胸がキューンとするようなフレーズが随所にあることも確かだ。
節子は、「私」と別れて、東北の誰も希望しないような田舎の町のミッションスクールに赴任することを決意する。
そのことを「私」に告げる手紙が届く。
あなたは私の青春でした。どんなに苦しくとざされた日々であっても、あなたが私の青春でした。私が今あなたを離れて行くのは、他の何のためでもない、ただあなたと会うためなのです。そうでないとしたら、何故この手紙を書く必要があったでしょう。
そして、終章は節子を送る「私」の独白である。
そうなのだ。私の幸や不幸は問題ではない。節子の幸や不幸は問題ではない。人は生きたということに満足すべきなのだ。人は、自分の世代から抜け出ようと試みることさえできるのだから。
東北の方は、まだきっと寒いのだろう。雨の日など、節子の傷の痕は痛まないだろうか。もし痛むのなら、抱いて暖めてやりたいのだが--。
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