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2007年10月19日 (金)

有名句の評価…③白泉

鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ(渡辺白泉)

渡辺白泉は、新興俳句運動の旗手。弾圧の厳しい戦時下にあって、国家・社会に対する批判精神を持ち続け、卓抜な風刺に満ちた句を作った。1913(大正2)年~1969(昭和44)年。

1.杉浦圭祐(昭和43年生)…鶏たちには見えない
<鶏たち>と<カンナ>がなかなか記憶に定着しない。名句だとは思わない。
何羽もの鶏を放し飼いにしていて、一羽の首を落とすと、しばらく鳴き叫んでいるが、やがて息絶える。
すると、それまで慌てふためいていた他の鶏たちは、何事もなかったかのように歩き回る、という話を聞いて、この句は色褪せてしまった。

2.山西雅子(昭和35年生)…視覚への思弁
<鶏たち>と<カンナ>を何かの比喩と解釈すれば、一句に文脈や意味が発生しそうで、いくらでも解釈できそうだが、この句はそういう句ではないだろう。
<見えぬかもしれぬ>が中心で、視覚への思弁を掘り下げる仲で、重石として掴まれたモノが<鶏たち>と<カンナ>で、同時発表の句との色彩的階調・季語に対する白泉の立場などを考察すべきだが、モノと思弁のゆるぎない配置を良しとする。

3.山崎十生(昭和22年生)…かもしれぬ
鶏は、光の明暗は解るが、色の識別はできない。鶏自身の眼には、モノクロの被写体としてカンナは鮮明に映っている。
真っ赤な色彩鮮やかなカンナを配したあたり、諧謔味たっぷりで白泉の緻密な計算が窺える。
俳句史に於ける記念碑的な一句として受容するに吝かではないが、有名句や秀句として語り継ぐには心もとなく、名句にはなり得ない。

4.木暮陶句郎(昭和36年生)…思考の投影
新興俳句作家、白泉の代表句。
作者は花鳥諷詠よりも日常の生活感情を季題を通して描こうとした。
推測による論理を鶏の視点から詠んで、読者を鶏にしてしまうレトリックが用いられている。人の眼には真っ赤に燃えさかるカンナも、赤い眼をした鶏には見えないかもしれないといい、同時に人は感動する心を持っているが、鶏には果たしてそんな心があるのだろうか、という疑問も作品に内在する。
季題に自分の思考を強く投影する事で季題の存在感を際立たせた佳作と思う。

5.山下知津子(昭和25年生)…虚や異形に至らず
あまりにも日常的な感慨に終始する俳句群に対して、才知漲る挑戦を突きつけてきたという点で、インパクトが強く印象に残る。
しかし、鶏たちとカンナという取り合わせが露骨なまでに奇抜で、エキセントリックな感じがしてしまう。
<見えぬかもしれぬ>という曖昧さも含め、象徴の意図は感じられるが、単なる才走った奇矯な思いつきという感を否定しきれない。言葉が、自分の身体から痛切に発していない。

◎:木暮陶句郎
○:山西雅子、山崎十生
△~×:山下知津子、杉浦圭祐
鶏とカンナの取り合わせを、プラス(色彩感、季題の存在感など)と評価するか、マイナス(奇矯な思いつき)と評価するか。
まあ、新興俳句に対しては、今でも概して点が辛いのだろうか。

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