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2007年10月10日 (水)

1960年という年

新安保条約に対する反対運動が、空前の盛り上がりを見せたのは、多分に岸首相の姿勢によるところが大きかっただろう。
岸首相は、東亜・太平洋戦争開戦時の東条内閣の閣僚だったし、旧満州国の高級官僚だった。
つまり、戦時レジームの体現者だった。
5月19日の強行採決は、天皇制国家における官僚としての性格を露骨に示したかのようであり、多くの国民が、そのような性格に反発し、危惧感を抱いたのではないか。

1945年8月から講和条約締結までの占領期間は、前期と後期に分けることができる(保阪正康『60年安保闘争』講談社現代新書(8605))。
前期は、GHQによって、軍国主義の制度、機構、思想が解体され、民主主義政策の導入が図られた期間である。
しかし、米ソを中心とする冷戦構造が明確になると共に、日本はアジアの“反共の砦”として位置づけられ、占領政策は大きく転換する。後期は、その制作が具体化していった期間である。

講和条約調印の時点では、既に公職追放を受けていた人たちも復活を遂げていた。岸首相は、その代表格ということになる。
一方、全学連の学生たちは、占領前期の理想主義的な教育を受けてきた。
「60年安保」の背景として、そのギャップ、言い換えれば、占領前期の「理念」と占領後期から講和条約発効後の「現実」との対立という図式があったのではないか。

1960年から、既にほぼ半世紀が過ぎたことになる。
今の時点で振り返れば、1960年は、戦後史の大きな転換点だったといっていいだろう。

1960年は、安保改定運動が大きな持ち上がりを見せた以外に、三井鉱山三池炭鉱で激しい争議が起きた年でもあった。
三池労組は、1947年頃から九州大学の向坂逸郎教授が向坂教室と呼ばれる労働者のための学校を開設し、理論的な指導を行っていて、日本で最も戦闘的な労働組合であった。
石炭から石油へのエネルギー源の転換が進むことを背景に、三井鉱山は人員整理を含む合理化を計画し、1959年12月に1492人に退職を勧告し、これに応じない1278人に指名解雇通告をした。
1960年1月5日、労組側は指名解雇を一括返上する。これに対して25日、会社側は三池炭鉱をロックアウトして、組合員を構内立ち入り禁止にした。反発した組合は無期限ストに突入した。

3月17日、三池炭鉱に第二組合(三池炭坑新労働組合)が結成され、28日に会社と第二組合が生産再開のため、第一組合員のピケラインの強行突破を図って多数のけが人が出る事態となり、翌29日には、第一組合員が、暴力団にナイフで刺殺されるという惨事が発生した。
安保闘争が盛り上がるのに連動するように、現地での対立は激しさを増し、5月12日には、ふたたび重軽傷者170人余を出す衝突が起きた。

争議は安保闘争の終焉後も続いた。
7月7日に、福岡地裁で貯炭場(ホッパー)への組合員の立ち入り禁止の仮処分を下すと、福岡県警はピケライン排除のために警官隊を動員し、一触即発で流血の惨事が憂慮される状態となった。
日本炭鉱労働組合(炭労)と三池鉱山は、中央労働委員会に事態の解決を委ねることにした。

中労委は、8月10日に斡旋案を提示した。
指名解雇を自発的退職とみなし、退職金を増額するという内容で、炭労や総評などの上部組織は、戦いの限界とみて、第一組合に受諾を迫った。
組合では、諾否について論争が続いたが、9月6日に斡旋案受容を決定し、10月29日に協定に調印した。
第二組合は11月1日から就労し、第一組合も12月1日に就労した。ロックアウトから313日が過ぎていた。

三池争議の背景である石炭から石油へのエネルギー革命は、必然的なものだった。
その意味で、組合側は、流血に至るまでの徹底抗戦よりも、有利な退職条件を引き出す方向で考えるべきだっただろう。向坂教授は、経済構造に関する長期的な視野に欠けていたとせざるを得ないのではないか。
一方、会社側も、資金が豊富な時期に、事業の多角化などの戦略をとるべきだっただろう。
もちろん、半世紀後の後知恵に過ぎないことは承知している。
しかし、1963年11月9日の、死者458人、重軽傷者555人という被害者を出した炭塵爆発事故は、1960年の争議の後遺症であったはずで、労使共にもう少し異なる対応があり得たのではないかと考える。

退陣した岸首相の後を引き継いだのは、池田勇人だった。池田首相は、「寛容と忍耐」を強調し、岸前首相との違いを訴求した。
12月27日、「国民所得倍増計画」が決定され、10年間に国民所得の総額が2倍になるように、7.2%の成長率が設定された。
国策の中心に経済が据えられ、経済成長が目的化された。実際に池田内閣の下でわが国は驚異的な経済成長を遂げるが、それを可能にした条件の一つががエネルギー革命だった、ということになる。

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