歴史の転回点
多賀城焼失の急報を受けて、朝廷は震撼した。
ただちに呰麻呂を討つため、中納言藤原継縄を征東大使に任命するが、継縄の軍は蝦夷たちに奪われた拠点を奪回出来ず、9月に更迭されてしまう。
後任に、藤原小黒麻呂が任命されるが、戦果は芳しくなく、10月には小黒麻呂は天皇から叱責されている。
結局、小黒麻呂も反乱軍を捕捉することができず、翌年、曖昧な形で撤兵してしまう。
浅野恭平『謎の反乱』地産出版(7606)は、以下のような理由から、呰麻呂の反乱は、従来のフロンティアでの小競り合いとは性格が異なるものであるとしている。
第一に、規模が大きかった。反乱は「軍団」という規模で起きたのだった。
指揮者は、朝廷に帰属して忠実に働いていた蝦夷の元の首長だった。それが数千人の部下を率いて反乱に踏み切ったのであり、前例のないことであった。
第二に、反乱の性格が単なる反抗ではなく、クーデターに近いものだった。反乱軍は、陸奥の最高軍政長官を襲ってこれを殺害し、多賀城を焼き払った。
それまで営々と積み上げてきた政府の東北経営の基盤が無に帰す可能性があった。
第三に、政府の東北政策の転換を促す契機となった。
老齢の光仁天皇が退位し、桓武天皇が即位して、準備に数年をかけて坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。それは20年に及ぶ東北戦争のきっかけとなるものであった。
微温的だった東北政策は武力制圧の形をとるに至った。
政府は多くの人と物を使って、「蝦夷征討」の軍事遠征を行い、延暦20(801)年に蝦夷側の指導者である阿弖流為らを降伏させた。
その結果、延暦21(802)年に胆沢城(岩手県水沢市)、延暦22(803)年に、志波城(岩手県盛岡市)が建設され、律令政府の勢力は岩手県内に拡大していった。
西から東へと拡大してきた中央政府権力の流れが、先住民の反対でいったん堰き止められたのであるが、流れは止むことなく、堰き止められることによって巨大に膨れあがって、一気に東北全土を併呑してしまうことになったのだ。
宝亀の呰麻呂の反乱は、歴史の大きな転回点となった。
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