« エージシュート | トップページ | 無季容認論と社会性 »

2007年10月31日 (水)

「京大俳句」と「滝川事件」

新興俳句が俳句界の新たな動きとして現れてきたのは、1931(昭和6)年の水原秋櫻子の「ホトトギス」離反事件が1つのきっかけだった。
特に、リベラルな風土を持っていた京都、大阪などの関西の俳人たちは新興俳句運動にいち早く反応した。
その中心になったのが昭和8年の創刊の俳誌「京大俳句」だった。

1919(大正8)年、京都の旧制三高の出身者や在学生を中心に、神陵俳句会が結成され、翌9年に京大三高俳句会に改名された。
京都帝大文学部出身で、京都武道専門学校の国語教授の鈴鹿野風呂が加わると共に、京大三高俳句会は、俳誌「京鹿子」を創刊した。編集担当は、三高3年の日野草城だった。
草城は、京都帝大法科へ入学して間もない大正10年4月号の「ホトトギス」において、8句が巻頭を飾ったが、未だ19歳という若さであり、「早熟の天才」として注目を集めた。

京大三高俳句会は、三高や京大関係者以外にも広く門戸を開放していた。
「京鹿子」には、東京の水原秋櫻子や富安風生らも参加し、関西における「ホトトギス」系の有力誌に発展する。
1932(昭和7)年に、「京鹿子」が野風呂の個人主宰誌に変更になると、有力同人の多くが脱退し、昭和8年に「京大俳句」を創刊する。
中心メンバーは、京大関係者が多かったが、全国各地の俳人に参加を呼びかけた。
主宰を置かず、会員による運営で、当時の俳壇ではほとんど例がないリベラルな編集方針だった(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影 』思文閣出版(0507)。

「京大俳句」は、雑詠欄の充実を図り、同人が交代で選者を務める「誌友俳句」と、顧問の野風呂、草城、(五十嵐)播水、(松尾)いはほ、秋櫻子、誓子、禅寺洞の7人が交代で選をする「特別雑詠」を設けた。
雑詠欄を強化させる一方で、評論、合評、知名者の寄稿などにも力を入れた。
知名者の1人に杉田久女がいた。昭和11年に虚子から「ホトトギス」同人を除名された原因の一つが「京大俳句」に寄稿したことがあったとも言われているが、その真偽は不明である。

山口誓子は、三高から東京帝大に進学し、虚子に師事して東大俳句会を復興させる。
昭和4年、「ホトトギス」同人に推挙され、昭和7年に処女句集「凍港」を出版して注目を集めていたが、虚弱だったこともあって活動の場を「京大俳句」に絞った。
誓子は、連作を重視し、「凍港」にも「連作の形式によって、新しい『現実』を、新しい『視覚』によって、新しい『俳句の世界』を構成する」という主張が書かれている。連作は新興俳句の1つのあり方であった。
「京大俳句」では、誓子選の連作雑詠欄「連作地帯」を3回にわたって設け、誓子の主張に応えた。

1933(昭和8)年に、京大の「滝川事件」が起きる。
4月に内務省が、京都帝大法学部教授の滝川幸辰教授の著書『刑法講義』『刑法読本』に対し、内乱罪、姦通罪に関する見解などを理由に発売禁止処分を下した。
翌5月には、鳩山一郎文部大臣が、小西重直総長に滝川教授の罷免を要求し、法学部教授会と小西総長は要求を拒絶したが、文部省は文官分限令によって滝川教授の休職処分を強行した。
これに対して、京大法学部は、教授から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思表示をしたが、大学当局と他学部は支持せず、小西総長は辞職に追い込まれた。

処分に抗議する文学部の大学院生・学生のグループの1人に久野収がいた。久野は、この事件について、「危険思想の内容がもはや共産主義やマルクス主義といった嫌疑にあるのではなく…国家に批判的な態度を取る学者たちの思想内容に及んできた」点にあると回顧している。
つまり、「滝川事件」は、言論の弾圧が、共産主義思想だけでなく、自由主義的な言論に拡大する転機となるものだった。
そして、新興俳句弾圧事件は、その延長線上に起きたものであったということができる。

|

« エージシュート | トップページ | 無季容認論と社会性 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/395349/8658493

この記事へのトラックバック一覧です: 「京大俳句」と「滝川事件」:

« エージシュート | トップページ | 無季容認論と社会性 »