選句の基準…①月並と類句・類想
「俳句」誌では、2006年1月号から、「採る句 採らぬ句/選句の基準」というタイトルで、現役俳人のリレー連載をしている。
各人各様の考え方が示されており、選句という行為を考える上で参考になる。
例えば、2006年1月号において、棚山波朗さん(「春耕」同人)は、「月並俳句は採らない」と「類想・類句は採らない」の二つを心掛けている、としている。
「月並」というのは、平凡なこと、陳腐なことであり、その意味では、そういう句を採らないというのは当たり前の基準である。
私でも「月並」だと判断すれば、採らないであろう。
しかし、問題は、「月並」と「非月並」の違いがどこにあるか、である。
どういう句が「月並」で、どういう句が「非月並」か。
それを明確にできなければ、「月並俳句は採らない」というのは、何も言っていないのと同じようなものだろう。
棚山さんが挙げている例句を見てみよう。
早う出て足のはこべぬ蛙かな(鶴田卓池)
この句について、大須賀乙宇という俳人が、「昔から月並句集中に最も多いのは、これらの幼稚なる写生句である。事実を叙してはいるが、詩にはならぬ」と評した言葉が引用されている。
そして、事物を正確に描き出してはいるが詩情が感じられない、単なる表面的な写生である、としている。
写生は俳句の基本であるが、事実を叙するだけの幼稚なる写生ではだめだ、ということだ。
しかし、「幼稚なる写生」と「幼稚ではない写生」の分かれ目はどこにあるのだろうか。
二番目の基準である「類想・類句」についてはどうだろうか。
類想・類句とは、要するに似たような発想や似たような表現の句ということであろう。
確かに「似たような」であれば、創造的とは言い難い。
しかし「似たような」も、程度の問題であり、「似ているか否か」は、結局個人的な判断に帰着するのではなかろうか。
特に、時間の経過と共に、過去に作られた句の数は増大していく。
「類想・類句」が生まれる可能性は、時と共に増大して行くわけである。
「類想・類句」の「類」を類型的と言い換えれば、「類想・類型」には次の3つのパターンがあることになる。
①発想は独自性があるが表現が類型的な場合
②発想が類型的な場合
③発想も表現も類型的な場合
過去の作例の完全なデータベースがあったとしても、その中から「類想・類句」を検索することは難しいのではないか。
そもそも、発想の類型性をどういう基準で設定するのか?
表現の類型性については、使用されている語彙などによる判別は可能かも知れない。
しかし、語彙の数が有限である以上、俳句のような短詩型の文芸では、語彙の類似性は避けることができないのではなかろうか。
例えば、次の2つの句を比べてみよう。
五月雨をあつめて早し最上川(芭蕉)
五月雨や大河を前に家二軒(蕪村)
五月雨は共通で、大河との取り合わせも同じである。
「類想」と言えないこともないのだろうが、蕪村の句を「類想・類句」として否定する人はいないだろう。
とすれば、五月雨を除いた部分の、12文字の表現が判断の分かれ目ということになる。
俳句というものは窮屈なものだと思わざるを得ない。
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