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2007年10月 7日 (日)

60年安保…①1月15日

1960(昭和35)年は、日米安保改定反対闘争が、空前の盛り上がりを見せた年として記録され、記憶されている。
私はこの年の4月に高校に入った。
地方都市の高校であったためか、1年に入ったばかりで事情が分からなかったのか、私の通学していた高校で実践的な反対運動に加わっていた人の存在を知らない。
だから、「60年安保」についての自分自身の体験というものは、直接的にも間接的にも皆無といっていい状態である。
しかし、戦後という私の生きてきた時間軸において、「60年安保」の問題は、やはり一つの画期として位置づけられるべきだろう。

以下、保阪正康『六○年安保闘争』講談社現代新書(8605)や小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性 』新曜社(0210)などを参考に、「60年安保」の節目を追ってみたい。

1958年9月から、安保条約の改定に向けて、日米間の交渉が続けられていた。
これに対し、岸内閣成立後、学校における勤務評定問題や警察官職務執行法などで、岸内閣といわゆる進歩派・革新派の争いが激しくなっており、安保条約改定問題は、そのシンボル的存在になっていた。
1959年3月、安保改定阻止国民会議(国民会議)が結成され、反対運動の幅が広がりをみせていたが、安保改定に関する日米間の交渉も進展していた。

1959年12月には、後は日米両政府が調印式を行い、それぞれの議会で批准するという段階にまで、改定内容が煮詰まった。
岸首相以下の全権団が調印のために、1960年1月に訪米するというスケジュールが発表され、安保条約は、そのまま調印・批准に進むかという流れになった。
国民会議は、岸訪米阻止のために羽田に大量動員するという方針を一度は決めたが、世論の動向を忖度して、結局は羽田に動員はしないで、代表者の集会で反対の意思表示をするという方針に変更した。
これに対して、全学連主流派は、状況を切り開くために突出した行動が必要だと考えていた。

岸首相のスケジュールは、1月15日になって、16日の午前8時出発ということが発表された。
全学連主流派は、15日の午後6時ごろから空港ロビーで座り込みを始め、午後8時頃には700人ほどになった。
午後10時になると、国際線ロビーは全学連の集会場と化したが、遅れて到着した学生を加えて約1000人の学生の集団となった。
集会後、学生たちは空港内のレストランに、椅子やテーブルでバリケードをつくり、篭城するという戦術をとった。

16日の午前2時、増援された警官隊によって、バリケードが撤去され、学生たちはごぼう抜きにされていった。
警察側からみれば、全学連主流派の主要分子を一網打尽に逮捕できるという非常に都合のいい状況が生まれたということになる。
検挙者は77人に上り、そのうちの39人はAクラスの全学連幹部だったという。
その中に、全学連委員長の唐牛健太郎さんや青木昌彦さんが含まれていたことになる。
マスコミの論調は、学生たちの行動を「はねあがり」と批判するのが基調であったが、一方で、新安保条約に関しても批判的だった。

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