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2007年10月 2日 (火)

事件の謎

呰麻呂の反乱は、歴史の転換点となるものであったが、その実像には謎が多い。
浅野恭平『謎の反乱』地産出版(7606)を参考に、呰麻呂反乱の謎について考えてみよう。

先ず第一に、そもそも呰麻呂は、何を動機として、いつ反乱を決断したのか?
『続日本紀』は、反乱の原因を明確に説明していない。
呰麻呂が最初は広純を嫌うことがあったことや、道嶋大楯に侮蔑されて反感を持っていたことなどが記されている。しかし、呰麻呂がクーデターを起こす理由としては、十分な説得力があるとはいえないだろう。

『続日本紀』の編者たちのスタンスは、以下のような推測に基づいていると思われる。
呰麻呂は、もとも夷俘の種だから、蝦夷と内応していたとしても不思議ではない。
広純と大楯を殺しているのは個人的な恨みを持っていたのだろう。
呰麻呂は広純の信用を得ていたが、それは恨みを隠していたからだろう。
つまり、反乱の動機は、平素からは窺い知れない呰麻呂の内面にあり、政府は全く無関係なのだ、という態度である。

また、WIKIPEDIA(最終更新7月23日)は、以下のように解説している。

呰麻呂の行動記録は伊治城の反乱で途切れる。多賀城の略奪は反乱の直接の結果だが、その指揮官が誰かを史料は記さない。呰麻呂が多賀城を落とした可能性も高いが、別の将による可能性も否定できない。中央政府は、ただちに藤原継縄を征東大使に任命し軍を出したが何の成果もなく戦闘は拡大した。肝心の呰麻呂がどんな役割を果たしたかその後どうなったかは不明である。呰麻呂が征東軍に敗れて殺されるようなことがあれば『続日本紀』が記しただろうから、記録の欠落はそうした最期を迎えなかったことを示唆する。そもそも呰麻呂は逮捕されていないのだから、当然自供も得られていない。

呰麻呂の反乱は、インディアンの白人に対する反抗に似ているだろう。
つまり、圧迫された先住民が、受忍の限界を越えて、武装蜂起に立ち上がった。
政府対蝦夷という勢力対立の図式を考えれば、呰麻呂が広純の侵攻の機会を捉えて反旗を翻すことは、十分にあり得ることのように思われる。

しかし、そもそも当時、蝦夷の側に政府に対立せきるような統一組織があったとは考えられないだろう。
庶民にとっては、国家とか民族などという意識が存在しなかった時代である。
呰麻呂自身、すでに久しく政府側に服属して、職務、位階を受け体制に組み込まれていた。
この時点で反乱を起こす動機は見当たらない。

浅野恭平氏は、上掲書で、東北と奈良を往復する使者のスピードについて、詳細に検討している。
反乱情報は、わすか5、6日で都に達している。
古代でもそれくらいの速度は可能のように思える。
しかし、浅野氏は、当時の条件下では、伊治城を発した使者が、5日でつまり200km/日のスピードを維持して、奈良の都に到着するのは不可能であり、十数日はかかったはずだと計算している。
とすれば、征討大使以下の人事の発令は、余りにも早すぎるのではないか?

また、反乱軍は、長官は殺したが、次官は助命して多賀城に送り返している。
しかもその次官は、賊の南下襲来に先立って逃亡を遂げ、以来姿を見せない。
反乱軍の首領の呰麻呂も、その後姿を見せることがない。
征討軍も、天皇の度重なる叱責、督戦にもかかわらず、ほとんど作戦らしいものを行わないまま、要領を得ない撤収をしてしまう。
全体として、何とも不可解な事柄が多い。

それはともかく、この事件をきっかけに、中央政界の力関係は藤原氏に大きく傾いていく。
藤原氏は、以後200年にわたる摂関政治を主宰する力の基礎を確立するのである。
つまり、結果として藤原氏は、この事件の最大の受益者であったと見ることができる。

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