« 選句の基準…①月並と類句・類想 | トップページ | 選句の基準…③新規性と進歩性 »

2007年10月22日 (月)

選句の基準…②体験と発見

06年6月号で、木内怜子さん(「海原」同人)は、以下の基準を挙げている。
①写生が確かであり、写生を越えた写生が出来ている
②姿勢が謙虚である
③発想、発見が独自であり、意外性もある
④感動を大切にしながら表現が平明である
⑤理屈、観念ではなく、真実に迫ろうとしている

これらの基準は、いずれも「なるほど」という基準である。

流れ行く大根の葉の早さかな(高浜虚子)

は、上記の5つの基準を実作で示して見せようとしたかのように思われる句だ。
「理屈、観念ではなく、事実に迫ろうとしている」は、「写生が確かである」とほぼ同義だろう。
虚子の句は、確かに、眼前にそういう情景があったのだろうと感じさせる写生の句である。
しかし、「単なる写生」と「写生を越えた写生」の差異はどこにあるのか。その基準を別の言葉で表現しないと、基準を示したことにはならないのではなかろうか。

また、「姿勢が謙虚である」と「表現が平明である」というのは、言い換えれば「奇を衒わない」ということだと思われる。
それは理解できるが、そういう中で「独自性・意外性」を表現することは難しいとも思う。
「感動を大切に」することが基本にあるべきことは理解できるが、平明な表現を保持しつつ、意外性を具現化するためにはどうすればいいか。
それは、ベクトルの異なる要素、矛盾した条件を止揚するということだろうが、おそらくは個別の判断ということになって、一般的な基準を示すことは不可能なのではないのだろうか。

10月号では、金箱戈止夫さん(「壷」同人)が、次の5つの条件を挙げている。
①句の対象とした実体は体験から捉えているか
②曖昧さの中であっても真実性が感じられるか
③素直に捉えることと平板とはどう違うか
④時事に関わる時、考えさせる句になっているか
⑤新しさとは、発見があるかないかである

木内さんと概ね同じような基準である。
大胆に集約すれば、「体験に基づいた発見」があるかないか、ということになろうか。
確かに、発見の有無は、「月並」や「類想・類句」から抜け出すための条件である。
それを、土肥幸弘さん(「玄鳥」同人)は4月号で、「『歳時記』の例句から離れよ」としている。
「初心のうちは『歳時記』の例句に学び、やがてはその例句から離れよ」ということである。

それは、「守・波・離」という上達の段階論と似ている。
「守」は、基本の型を身につけ、その型に忠実に行動する段階、「破」は、基本の型を脱した応用動作の段階、「離」は、型から離れて自在に動く段階である。
「『歳時記』の例句に学ぶ」のは「守」に相当すると考えられる。
俳句においても、基本の型を身に付けるためには、『歳時記』の例句に学ぶことが重要だろう。しかし、それから離れなければ、「類想・類句」になってしまう。
問題は、どのようにして「破」を行い、「離」の境地に達するかである。

|

« 選句の基準…①月並と類句・類想 | トップページ | 選句の基準…③新規性と進歩性 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/395349/8443418

この記事へのトラックバック一覧です: 選句の基準…②体験と発見:

« 選句の基準…①月並と類句・類想 | トップページ | 選句の基準…③新規性と進歩性 »