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2007年10月28日 (日)

新興俳句弾圧事件…③国家総動員体制

新興俳句弾圧事件の根拠として、1925(大正14」)年に公布された「治安維持法」が利用されたのだったが、1938(昭和13)年4月1日に公布された「国家総動員法」も威力を振るった。
「国家総動員法」は、昭和12年7月7日に、近衛文磨が声明した国民精神総動員実施要綱を法律化したもので、総力戦遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用(総動員)できることを定めたものである。
第一次世界大戦は、戦争における勝敗の帰趨が、国家が国力のすべてを戦争遂行のために注げるか否か、言い換えれば総力戦体制をとれるかどうかに依存するという認識を広めることになった。

日中戦争の戦線拡大と共に、平時の経済体制のままでは増大する軍需に対応できなくなってきたので、戦時のための経済体制への移行が急務とされた。
「国家総動員法」は、企画院を中心とした革新官僚によって策定された。
基本は、企業に対して国家が需要を提供して生産に集中させることを法律で強制するもので、生産効率を上昇させ、軍需物資の増産を図ることにある。

この法案が衆議院に提出された際、陸軍省軍務局課員の佐藤賢了中佐が、委員の発言中に「黙れ」と叫んだことが知られている。
国会審議の場で、一中佐が「黙れ」と発言できるような情勢だったわけである。
この法案を成立させるため、400~500名の防共護国団によって、民政・政友両党本部が10時間にわたり占拠され、警視庁はこれを黙認するということもあった。   

第20条に、「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニヨリ新聞紙其ノ他ノ出版物ノ掲載ニ付制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得」とあり、言論統制が図られた。
第39条では、「第二十条第一項ノ規定ニ依ル制限又ハ禁止ニ違反シタルトキハ新聞紙ニ在 リテハ発行人及編輯人、其ノ他著作者ヲ二年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス」としている。
挙国一致の体制を少しでも批判する者は、「アカ」として指弾され、治安維持法や国家総動員法によって捕縛された。

総動員態勢の確立は、計画経済としての性格を持つものであるから、社会主義的な側面を持っていた。
それがのちに、近衛内閣の後を継いだ平沼騏一郎内閣の下で、企画院事件として、多数の企画院の関係者治安維持法違反の容疑で、検挙・起訴される要因となった。
企画院事件は、京浜工業地帯の労働者の研究会で講師を努めていた企画院の芝寛が逮捕されたことが発端となり、企画院の若手判任官による研究会が、官庁人民戦線の活動としてフレームアップされ、岡倉古四郎、玉城肇らが検挙された。
さらに、稲葉秀三、正木千冬、和田博雄、勝間田清一らの高等官に波及した。

企画院事件において、満鉄調査部の川崎巳三郎が検挙されたことから、弾圧は満鉄調査部にも波及し、満鉄調査部事件となった。
満鉄調査部は、1906(明治39)年に南満州鉄道(満鉄)が発足した翌年に設置された。
当初は満鉄経営のための調査が中心だったが、日本の中国進出が拡大すると共に、中国そのものを対象とした本格的な調査研究を行うようになった。
多数の調査要員を必要としたことから、日本国内から多数の自由主義者、マルクス主義者が調査部員となったが、軍部が忌避するところとなって、1942(昭和17)年に第1次検挙、1943年に第2次検挙が行われた。満鉄調査部は、日本における最大・最高のシンクタンクだったと評価されている。
戦後も、満鉄調査部出身者で政財界や学界等で活躍した例は多い。

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