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2007年10月 3日 (水)

呰麻呂反乱の真相

呰麻呂反乱にまつわるさまざまな謎は、事件が謀略によって起きたと考えるとうまく説明できる。
あるいは、謀略の存在を想定しないとつじつまが合わない。
誰による謀略か?
定石としては、最大の受益者を先ず疑うべきだろう。それは、藤原氏である。何よりも、不比等以来、謀略は藤原氏の常套手段だった。
呰麻呂の反乱事件もその一環だったのではないか。

藤原氏は、光仁帝の下で勢力を拡大した紀氏に対して危機感を持っていた。
その政敵を倒すのに、蝦夷の反乱を利用したのだ。それは、光仁帝を牽制することにおいても有効だった。
マクロな見取り図はそう想定されるが、実際の状況、例えば広純を殺したのは誰だったのか、首謀者が藤原一門の誰だったのか、などは藪の中である。

前掲浅野氏の著書(浅野恭平『謎の反乱』地産出版(7606)は、以下のような一つの仮説を提示している。
宝亀6、7年になると、光仁帝と山部皇太子(後の桓武天皇)の呼吸があってきた。
律令体制の引き締めが課題で、そのためには、藤原一門の力を弱めることが必要だった。
天皇は、紀氏一族を育成しようと考え、宝亀6年に大伴、紀氏から参議を新任させた。
この措置は、藤原側の警戒心を刺激したが、新参議の大伴駿河麻呂と紀広庭は共に高齢で、問題は次の世代の大伴家持、紀広純らだという判断だった。

つまり、家持、広純が登用された時点こそが、事を起こすタイミングであった。
その作戦を、策士藤原百川は以下のようなシナリオとして想定していた。
1.道嶋一族が支配下の夷俘をもって山道方面に不穏の情勢を醸す
2.真綱が広純に山道への進撃を献言する
3.大楯が近接地域に敵襲を演出し、真綱の献言をサポートする
4.広純が多賀城を出て北進するのを待ち、真綱がこれを殺害する。大楯は、山道の実力者呰麻呂を謀殺する
5.多賀城に戻り、大楯の部下に略奪させ、証拠隠滅のため焼却を図る
6.都への報告は呰麻呂の反乱とする。呰麻呂は、大楯が殺したことにし、多賀城は賊の残兵が乱入したことにする

宝亀10(779)年、藤原百川、縄麻呂が相次いで死んだ。
天皇はこれを好機として捉え、翌11(780)年に、藤原以外の閣僚を5人に増やし、その中に家持と広純を入れた。
藤原側は、直ちに、百川の残した作戦をもとに行動に移った。
作戦は順調に進んだ。しかし、呰麻呂を殺すはずだった大楯が逆に殺されてしまう、という手違いが起きた。
呰麻呂は、日頃から大楯を警戒していたのだろう。
座麻呂は、大楯を殺すと、広純に報告すべく伊治城に赴く。そのときには広純は既に殺害されており、真綱は呰麻呂に、大楯が広純を殺して大騒ぎになっている、と言い繕った。

呰麻呂はこれを信じて真綱を多賀城に護送したが、真綱はこのウソがすぐにばれることを想定しており、城を抜け出して道嶋一族に事情を説明した。
道嶋一族には、都から既に用済みになった真綱を消せ、という指令が届いていて、真綱はあえなく殺されてしまう。
広純殺しについて疑問をもった呰麻呂が多賀城につくと、道嶋一族が待ちかまえていて、呰麻呂を殺す。

事実とすれば、マフィアもかくやと思うような凄まじい謀略である。
しかし、情報の伝達速度にまつわる不審を解こうとすると、予め仕組まれていた事件と考えざるを得ない、というのが浅野氏の結論である。
光仁帝に替わって桓武天皇が京都に遷都すると、藤原氏の一族は独占的な権力を確立し、わが世の春を謳歌するようになる。

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