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2007年10月29日 (月)

新興俳句弾圧事件…④新興俳句の萌芽

近代俳句は、正岡子規が、月並俳句を排して「写生」を前面に打ち出した俳句革新運動に始まる。
1897(明治30)年に、子規を中心にした俳句同好会の「松風会」が松山で、「ほとヽぎす」を創刊する。主宰は、子規の中学時代の友人の柳原極堂だった。
子規の病状悪化もあって、明治31年、「ほとヽぎす」は、高浜虚子に編集発行人が譲られ、発行所も松山から東京の虚子宅に切り替えられる。

明治32年、虚子が大腸カタルに罹ったこともあって、河東碧梧桐が「ほとヽぎす」の編集に加わる。
明治34年、「ほとヽぎす」は「ホトトギス」に誌名変更するが、明治35年、子規が亡くなると、河東碧梧桐が「写生」論をめぐって虚子と対立し、新傾向俳句を打ち出して、「ホトトギス」から離れる。
虚子は、碧梧堂の新傾向派に対して、有季定型の守旧派を掲げ、「客観写生」を主張した。
大正年間に入ると、「ホトトギス」から多くの俳人が輩出し、「ホトトギス」は隆盛を極めた。

1927(昭和2)年、虚子は詠む素材を花鳥風月に絞った「花鳥諷詠」を主張し、俳句に新風を吹き込んで、「ホトトギス」はますます発展し、「ホトトギス」に入選したら赤飯を炊いて祝うという程にまでなった。
この頃、虚子選の雑詠欄でたびたび巻頭を占める新人4人の俳号のアルファベットが、偶然にSで始まることから、「4S」と名づけられた俳人たちがいた。水原秋櫻子、阿波野青畝、高野素十、山口誓子である。
昭和2、3年の両年において、実に「4S」は17回も巻頭に選ばれている。
虚子を頂点とする「ホトトギス」の黄金時代だった。

1931(昭和6)年、秋櫻子が虚子に反発して「ホトトギス」を離れ、自ら主宰する「馬酔木」を独立させた。
虚子の「花鳥諷詠」論から脱し、新しい俳句革新の可能性を求めるものだったが、それが新興俳句の幕開けとなった。
秋櫻子は、「自然の真と文芸上の真」と名付けた文章を昭和6年10月号の「馬酔木」に掲載し、虚子のいう「客観写生」、つまり「自然の真だけを追及したところで詩人たる資格はない」「心を養い、主観を通して見たものこそ文芸上の真」だとした(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影 』思文閣出版(0507))。

1934(昭和9)年、改造社から「俳句研究」が創刊され、「ホトトギス」などと同列に新興俳句を取り上げことから、俳句革新運動に弾みがついた。
秋櫻子が「ホトトギス」を離れた4年後の昭和10年、山口誓子が秋櫻子に誘われて「馬酔木」に投句して「ホトトギス」を去った。
秋櫻子は、「馬酔木」に誓子選の雑詠欄を新設し、それによって若い人を中心に投句が急増していった。
秋櫻子、誓子らは有季定型を固辞したが、「ホトトギス」同人の吉岡禅寺洞らが無季俳句容認論を展開し、新興俳句は、有季定型、無季定型、無季自由律が鼎立することになった。

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