日米安保条約
青木昌彦さんが、学生運動のリーダーとして逮捕されたのは、1960年1月15日の「岸訪米阻止闘争」における羽田空港ロビー占拠の際であった。青木さんらが属する共産主義者同盟(ブント)の行動パターンを象徴する事件だった。
日米安全保障条約は、講和条約と不可分の条約である。
1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本は、1945(昭和20)年8月15日以後の連合国による占領状態から抜け出ることになった。
講和会議に参加していた52ヵ国のうち、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドが調印を拒否し、49ヵ国が講和条約に調印して、日本は国際社会への復帰を果たした。
講和条約の調印の5時間後、吉田首相と国務長官顧問のJ.F.ダレス他アメリカ側代表との間で、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(日米安保条約)の調印を行った。
この条約に基づき、占領軍のうちアメリカ軍部隊は、在日アメリカ軍として、占領が解かれ他の連合国軍(主としてイギリス)部隊が撤収した後も日本に留まった。
日本は、講和条約を締結しても、武装解除された丸裸の状態なので、自衛権を発動する手段を持っていない。それをアメリカ軍が肩代わりするために、日本とその周辺に駐留することとしたのであった。
日米安保条約は、日本の国際社会への復帰のスタンスを示したものだったということになる。
既に1950(昭和25)年6月には朝鮮戦争が始まっており、米ソを軸にした東西冷戦構造ができあがっていた。
その枠組みの中で、日本は、西側の一員となることを選択したのだった。
吉田茂は、西側の一員となることは当然のこととしつつ、この段階で日本が防衛力を持とうとは考えなかった。
アメリカは、占領の前期には日本の非武装化を推進したが、冷戦構造が固定化すると共に、日本に再軍備を要求するようになった。
それに対し、吉田首相は、防衛はアメリカに任せ、日本は経済や文化の復興に注力するほうが得策だと判断したのだった。
吉田首相は、日本の防衛は、国連主導の集団安全保障安全という建前を採りたかった。しかし、ダレス長官等の再軍備の要求は拒否したものの、日本の防衛の主体が国連ではなくアメリカにあるという形は受け入れざるを得なかった。
その結果、日米関係は、対等のものではなく日本がアメリカに従属する、という性格のものとなった。
日米安保条約の対米従属性については、二つの反対の立場があった。
一つは、この条約は日本の主体性を損なうものであり、日本も再軍備をして日米対等の立場に立つべきだ、とするものである。
民主党の芦田均などの主張だったが、吉田はこれに対して国力の回復と民主主義化したことを世界に対して印象づけることが必要だ、とした。
もう一つは、社会党などの対米従属批判である。社会党の中でも、左派は講和条約・安保条約共に反対、右派は講和条約賛成、安保条約反対という意見で、結局左右両派に分裂する結果となった。
朝鮮戦争のもたらした特需によって、わが国の経済は復興を加速した。
1956(昭和31)年の『経済白書』は、「もはや戦後ではない」という名文句で有名であるが、その趣旨は、日本経済の課題は、戦後復興から技術革新・近代化のフェーズに移ったという認識である。
こうした状況の中で、1957(昭和32)年2月に、岸信介内閣が成立した。
岸首相は、東京帝国大学法学部で、のちに民法学の大家となる我妻栄と首席を争ったという秀才だった。
天皇主権主義の憲法学者上杉慎吉から、後継者となることを求められたが、官僚の道を選んだ。
1936(昭和11)年から39(昭和14)年まで、旧満州国の要職に就き、東亜・太平洋戦争の開戦時には、東条内閣の商工大臣として、開戦の詔勅に署名するという履歴の持ち主であった。
敗戦後にA級戦犯容疑で収監されたが、占領の終結後に政界に復帰した。(小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性 』新曜社(0210)
岸は履歴からも窺えるように、反共意識が強かった。
そして、日本を「反共の砦」とする使命感を持ち、そのために安保条約を改定して日米対等の関係に立つべきだと考えた。
吉田が、軍事力よりも経済力で自由主義陣営の一員として貢献しようと考えたのに対し、岸は反共軍事国家を構築するという姿勢だった。
組閣から5ヵ月後に、岸はアメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領と会見して、日本の防衛力の強化の必要性を盛り込んだ共同声明を発表する。
岸・アイゼンハワー共同声明を受けて、日米間の事務当局の間で、日米安保委員会が作られ、協議が重ねられた。
具体的な改定交渉は、1958(昭和33)年9月の藤山愛一郎外相のワシントン訪問によってスタートした。
しかし、その直後に、岸内閣が「警察官職務執行改正案」を衆議院に提出したことから、国内の政治情勢が波乱含みとなり、改定交渉が続けられる状態でなくなってしまった。
そのため、改定交渉は当初の想定から大幅に遅延し、結果的に、1960(昭和35)年の1月6日まで続くことになった。
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