ベンチャーとしてのブント
青木昌彦さんは、「私の履歴書⑪」(10月11日掲載)において、「私の『第一ベンチャー』は心の中で解散した」と書いている。
「第一ベンチャー」とは、1958年12月10日に設立された「共産主義者同盟(ブント)」のことで、上記の述懐は、1960年7月のブント大会終了後の心境である。
青木さんはブントの創立メンバーの1人で、②回に、「名称については、私が発案し、若きマルクスがその結成に参加した組織の名前をまねて、『共産主義者同盟』とした。ドイツ語で『ブント』だ。ちなみに有名な『共産党宣言』はこの組織の綱領だ」と説明している。
ブントは、安保改定反対闘争の総括をすべきこの7月の大会で、事実上解体した。
ブントの生成と崩壊の過程は、書記長だった島成郎さんの『ブント私史―青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ 』批評社(9902)などに書かれているし、主要な構成メンバーのキャラクターなどは、西部邁『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー (Modern Classics新書 17) 』洋泉社(0706)(元版は、文藝春秋刊(8601))などで知ることができる。
創立準備を取り仕切っていた島さんは、ブント創立大会の「議案執筆は青木に一任し」と書いている。
「青木昌彦は、(中略)抜群の明晰さで東大教養時代から傑出、(中略)ブント結成とともに書記局員とした。あまりの頭の良さのために一部の者からいつも批難の対象になっていたが、(中略)理論的支柱の役割を果してきた」ということだ。
現在の「ノーベル経済学賞に最も近い日本人」は、東大教養時代から抜群の頭脳を示していたわけである。
ブントには委員長は設けられなかったから、代表者は書記長の島さんということになる。
島さんは、中学2年(旧制)の時に日本の敗戦を迎え、1950年に東大へ入学するのと同時に日本共産党に入党し、自治会の副委員長になった。
1945年8月15日の敗戦後、戦争中は非合法だった日本共産党は、徳田球一を書記長として合法政党として再建された。
出獄した幹部が、情報が遮断されていて分析的な認識ができなかったのだろうが、連合国軍は「解放軍」と規定された。
アメリカの占領政策は、東西冷戦の進行によって、当初の民主化志向から“反共の砦”の構築に転換し、日本は朝鮮戦争の出撃基地となり(1950年)、日米安保条約が締結された(1951年)。
コミンフォルム(Communist Information Bureau)が日本共産党の路線(占領下での合法的な革命)を批判したことをきっかけに、1950年、徳田らの主流派(所感派)、宮本顕治らの国際派等々に分裂し、混乱状態に陥った。
全学連は国際派の牙城で、島さんも国際派に属したが、直ぐに除名処分を受けることになった。
主流派は1951年10月の第五回全国協議会(五全協)で、武装闘争路線を選択したが、余りにも現実離れしたもので、党勢の衰退を招かざるを得なかったし、政府は、武装闘争を取り締まるため、破壊活動防止法(破防法)を制定した。
1955年、現実を無視した武装闘争路線は破綻し、日本共産党は、第六回全国協議会で従来の路線を自己批判することになった。
しかし、武装闘争路線の下で山村工作隊などの活動に参加していた学生党員にとって、突然の路線転換は大きな衝撃であり、六全協は、学生を中心とする若い党員に、前衛党のあり方について疑問を抱かせる契機となった。
ベンチャー精神の一つの側面として、既成の組織、特に官僚化した組織のあり方から離れ、新しい組織を立ち上げることがあげられるだろう。
六全協を機に、日本共産党のあり方に疑問を持った若い党員が、新たな前衛党を立ち上げようとすることは当然のことのようにも思える。
しかし、その当時、社会の変革を志す者にとって、日本共産党は絶対的な権威として存在していた。
だから、それに反逆するためには、青木さんのいうところの「軽はずみ」も必要だっただろう。「軽はずみ」は若者の特権でもある。
西部さんの書において、島さんは「苦悩せる理想家」と形容されている。
西部さんによれば、ブント創立時、3つのグループが角つきあわせていた。
第一のグループは、東大と早大を中心とし、理論的な傾きを持っていた。青木さんも当然このグループである。
第二のグループは、革共同関西派と呼ばれていたグループで、反中央・親トロツキーの意識が強かった。
第三のグループは、現在政治評論家として活躍している森田実さんを中心とする現実主義的なグループである。
そういう諸勢力がそれぞれの路線を主張している中で、書記長の人選については、島さんが全員一致で選ばれたという。
西部さんは、島さんがブントの書記長に異論なく推されたのは、人格的な特徴によるもので、「情熱、潔癖、覚悟といった類の心理がその白皙で端正な表情にくっきりと現れていた」と書いている。
島さん自身は、「私は、そしてブントは、過剰な『ロマン』に満ち、妥協を嫌う『理想』に冒され、『精神』の優位を誇るオプチミスト(おめでたき人々)であった」としているが、それらはまたベンチャー精神を形容するものでもあるのではなかろうか。
つまり、ブントにはベンチャー精神が溢れていたということだ。
60年7月の時点で実質的に崩壊してしまったブントは、西部さんが書いているように、「左翼方面における組織的運動の流れに浮かんだ一個の泡沫であった」のだろう。
しかし、泡沫的であるのは、ベンチャーに通有の避けられない宿命でもあると思う。
ブント解体後、青木さんは、「私の履歴書」に書かれているように、世界的な理論経済学者に転生した。島さんは東大医学部に復学して精神科医となり、沖縄や北海道などで地域の精神医療に尽力したが、2000年に亡くなった。
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