有名句の評価…④虚子
流れ行く大根の葉の早さかな(高浜虚子)
虚子については、既に触れた(8月24日の項、10月16日の項)が、長らく「ホトトギス」を主宰すると共に、「客観写生」「花鳥諷詠」などの理念を提唱し、伝統俳句の頂点として大きな影響力を持った。1874(明治7)年~1959(昭和34)年。
1.山下知津子(昭和25年生)…日常卑近な緑から
優雅な古典趣味や美しいものを美しく詠むという姿勢は皆無な作品。
人の暮らしに近い所にある豊かな水量の澄んだ小川と、そこを流れる大根の葉という日常卑近な逞しい存在感のある緑、そして空気の冴えまでが鮮烈にこの句から浮かぶ。
真のテーマは<早さ>。この瞬間、流れて行く大根の葉の早さをおもしろがる心情だけで一身が満たされている作者。その作者の虚飾ない有り様が、気取りもてらいもない表現に結実し、決して慨嘆的でも高踏的でもない無常観がどこからかひたひたとかつ野太く迫ってくる。
2.山崎十生(昭和22年生)…首の皮
ただごと俳句に近いが、ただごと俳句ではない。それを峻別するものは、五七五の内に秘められている余白という核エネルギーである。
そのエネルギーを「首の皮」と称しているが、言葉では書かれていない「首の皮」が一句の生命を左右する。
俳禅一味の名句。
3.森田純一郎(昭和28年生)…時代の生活実感を伝える写生句
客観写生の真髄を究めた句。
流されて行く大根の葉を見ることが出来る位の小さな川ではあるが、そこを流れる大根の葉に虚子が感動したほどに水量が豊かなこと、またおそらく上流では大根を洗っており、その葉が流れてきたのであろうということ--がたった十七文字のこの一句から読み取れる。
4.対馬康子(昭和28年生)…主観と客観
抽象的な普遍概念である<早さ>を切り取っている。
早さには無限の可能性があるが、客観的速度による早さではなく、「大根の葉の流れ行く」という主観的基準により選択した<早さ>を詠っている。
無限の早さの中から掲句の早さを詩的に面白いと感じる心には非凡なものを認めざるを得ないが、「大根」か「行者にんにく」か、はたまた「根曲がり竹」か、流れ行く面白いものの「早さ」も無限にあるところが悩ましい。
5.仲寒蝉(昭和32年生)…脱帽する他ない手腕
大根という季語は食べる対象として主に根の部分が詠まれてきた。だがこの句は葉に、しかも捨てられて流れ行く物体としてのそれに注目した。
しかし、作者は季題の新しい面を開拓してやろうというつもりではなく、純粋に眼前の光景に打たれただけだと思われる。句の主題が大根の葉や小川でなく<早さ>だからだ。
風景の最重要部を掬い取る手腕には実作者として脱帽。また計らいを捨てた潔さ、口調の滑らかさも備えている。名句と呼ぶに相応しい。
表現はそれぞれであるが、さすがに全員◎という感じである。
俳界における虚子の位置づけを改めて感じさせられる。
「評価の分かれる有名句」という特集の趣旨にマッチしていないではないか、などと半畳を入れたくなる気もするが、十七文字という制約のある表現形式においては、焦点がうまく絞り込まれているということなのだろうと思う。
しかし、俳句史を代表するような名句なのだろうか?
私には、正直に言って、「ただごと」と「非ただごと」の「首の皮」の差異がよく分からない。
しかも、それは書かれていないところにある、と言う。眼光紙背に徹するという言葉はあるが、書かれていないことを読み取るというのは、余りに恣意的ではないか?
あるいは、上流で大根を洗っていてその葉が流れてきた、ということは私にも分かる。だけど、だからどうなの? とも思う。
もし、虚子の句でないとしたら、こぞって高点を付けるのだろうか、という素朴な疑問を拭えないのだ。
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