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2007年10月

2007年10月31日 (水)

「京大俳句」と「滝川事件」

新興俳句が俳句界の新たな動きとして現れてきたのは、1931(昭和6)年の水原秋櫻子の「ホトトギス」離反事件が1つのきっかけだった。
特に、リベラルな風土を持っていた京都、大阪などの関西の俳人たちは新興俳句運動にいち早く反応した。
その中心になったのが昭和8年の創刊の俳誌「京大俳句」だった。

1919(大正8)年、京都の旧制三高の出身者や在学生を中心に、神陵俳句会が結成され、翌9年に京大三高俳句会に改名された。
京都帝大文学部出身で、京都武道専門学校の国語教授の鈴鹿野風呂が加わると共に、京大三高俳句会は、俳誌「京鹿子」を創刊した。編集担当は、三高3年の日野草城だった。
草城は、京都帝大法科へ入学して間もない大正10年4月号の「ホトトギス」において、8句が巻頭を飾ったが、未だ19歳という若さであり、「早熟の天才」として注目を集めた。

京大三高俳句会は、三高や京大関係者以外にも広く門戸を開放していた。
「京鹿子」には、東京の水原秋櫻子や富安風生らも参加し、関西における「ホトトギス」系の有力誌に発展する。
1932(昭和7)年に、「京鹿子」が野風呂の個人主宰誌に変更になると、有力同人の多くが脱退し、昭和8年に「京大俳句」を創刊する。
中心メンバーは、京大関係者が多かったが、全国各地の俳人に参加を呼びかけた。
主宰を置かず、会員による運営で、当時の俳壇ではほとんど例がないリベラルな編集方針だった(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影 』思文閣出版(0507)。

「京大俳句」は、雑詠欄の充実を図り、同人が交代で選者を務める「誌友俳句」と、顧問の野風呂、草城、(五十嵐)播水、(松尾)いはほ、秋櫻子、誓子、禅寺洞の7人が交代で選をする「特別雑詠」を設けた。
雑詠欄を強化させる一方で、評論、合評、知名者の寄稿などにも力を入れた。
知名者の1人に杉田久女がいた。昭和11年に虚子から「ホトトギス」同人を除名された原因の一つが「京大俳句」に寄稿したことがあったとも言われているが、その真偽は不明である。

山口誓子は、三高から東京帝大に進学し、虚子に師事して東大俳句会を復興させる。
昭和4年、「ホトトギス」同人に推挙され、昭和7年に処女句集「凍港」を出版して注目を集めていたが、虚弱だったこともあって活動の場を「京大俳句」に絞った。
誓子は、連作を重視し、「凍港」にも「連作の形式によって、新しい『現実』を、新しい『視覚』によって、新しい『俳句の世界』を構成する」という主張が書かれている。連作は新興俳句の1つのあり方であった。
「京大俳句」では、誓子選の連作雑詠欄「連作地帯」を3回にわたって設け、誓子の主張に応えた。

1933(昭和8)年に、京大の「滝川事件」が起きる。
4月に内務省が、京都帝大法学部教授の滝川幸辰教授の著書『刑法講義』『刑法読本』に対し、内乱罪、姦通罪に関する見解などを理由に発売禁止処分を下した。
翌5月には、鳩山一郎文部大臣が、小西重直総長に滝川教授の罷免を要求し、法学部教授会と小西総長は要求を拒絶したが、文部省は文官分限令によって滝川教授の休職処分を強行した。
これに対して、京大法学部は、教授から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思表示をしたが、大学当局と他学部は支持せず、小西総長は辞職に追い込まれた。

処分に抗議する文学部の大学院生・学生のグループの1人に久野収がいた。久野は、この事件について、「危険思想の内容がもはや共産主義やマルクス主義といった嫌疑にあるのではなく…国家に批判的な態度を取る学者たちの思想内容に及んできた」点にあると回顧している。
つまり、「滝川事件」は、言論の弾圧が、共産主義思想だけでなく、自由主義的な言論に拡大する転機となるものだった。
そして、新興俳句弾圧事件は、その延長線上に起きたものであったということができる。

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2007年10月30日 (火)

エージシュート

1942(昭和17)年8月31日生まれ。65歳。
「世界のAOKI」と呼ばれてきたゴルフの青木功プロが、第17回「日本シニアオープンゴルフ選手権競技」の最終日に、エージシュートを達成し、6打差を逆転して優勝した。
2ゴルフのシニアの出場資格は、JGA(財・日本ゴルフ協会)の主催していたアマチュアの「日本シニアゴルフ選手権」の出場資格が60歳以上、JPGA(社・日本プロゴルフ協会)の主催していた「日本プロゴルフシニア選手権」が50歳以上と別々だったが、1991年に「日本シニアオープンゴルフ選手権」が創設されたとき、50歳以上ということで統一された。

現代の長寿化傾向からすれば、60歳以上の方が「シニア」の名称に相応しいような気もするが、50歳以上とされたことにより、ついこの間までレギュラーツアーで活躍していた馴染みの選手が参加することになり、大いに人気を盛り上げている。
ゴルフも体力に左右される部分が大きいので、当然のことながら、シニアになったばかりの50歳台前半の選手が有利である。
初日から首位をキープしていた室田淳プロは、1955年生まれだから、青木プロより13歳年下の52歳で、シニアの資格を得て間もない。
その室田選手を破っての優勝だから、快挙と言っていいだろう。

青木プロは、第4回大会から4連覇を果たしている。その4連覇の年が1997年だから、それからちょうど10年ぶりということになる。
エージシュートは自分の年齢以下のスコアで1ラウンドを終えることだから、70歳以上になってから達成するケースがほとんどである。
過去の事例をみると、1981(昭和56)年に、中村寅吉プロが「関東プロシニア選手権」で、66歳で65のスコアを出した例があるが、今回の青木プロは、スコア的には同スコアで年齢的には最年少記録の更新ということになる。

もちろんアマチュアでもエージシュートを達成する人はいる。
しかし、アマチュアの場合、いわゆるシングルのハンディの人は、「ちゃんと仕事をしているの?」などと言われるように、相当の時間をゴルフに費やしているはずである。
アマチュアのエージシュートの可能性は、80歳前後においてであろうが、そこまでシングルを維持しているのは並大抵のことではないだろう。

私のゴルフ歴も、20年ほどになる。しかし、熱心に練習するということもなかったし、途中でゴルフどころではない時期もあったりした。
結果として、年齢に連動して平均的なスコアは、少しずつしかし着実に落ちてきているが、目安としている「ハーフでエージシュート」という観点からすると、ほぼ横這いの状態ともいえる。
ハーフでエージシュート以上を叩いたら、少し考えを改める(練習をもっとするか、止めるか)必要があると考えているが、今のところ何とかハーフでエージ以下をキープしている。
言い換えれば、平均スコアを、2/年以上悪化させないことが当面の目標である。

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2007年10月29日 (月)

新興俳句弾圧事件…④新興俳句の萌芽

近代俳句は、正岡子規が、月並俳句を排して「写生」を前面に打ち出した俳句革新運動に始まる。
1897(明治30)年に、子規を中心にした俳句同好会の「松風会」が松山で、「ほとヽぎす」を創刊する。主宰は、子規の中学時代の友人の柳原極堂だった。
子規の病状悪化もあって、明治31年、「ほとヽぎす」は、高浜虚子に編集発行人が譲られ、発行所も松山から東京の虚子宅に切り替えられる。

明治32年、虚子が大腸カタルに罹ったこともあって、河東碧梧桐が「ほとヽぎす」の編集に加わる。
明治34年、「ほとヽぎす」は「ホトトギス」に誌名変更するが、明治35年、子規が亡くなると、河東碧梧桐が「写生」論をめぐって虚子と対立し、新傾向俳句を打ち出して、「ホトトギス」から離れる。
虚子は、碧梧堂の新傾向派に対して、有季定型の守旧派を掲げ、「客観写生」を主張した。
大正年間に入ると、「ホトトギス」から多くの俳人が輩出し、「ホトトギス」は隆盛を極めた。

1927(昭和2)年、虚子は詠む素材を花鳥風月に絞った「花鳥諷詠」を主張し、俳句に新風を吹き込んで、「ホトトギス」はますます発展し、「ホトトギス」に入選したら赤飯を炊いて祝うという程にまでなった。
この頃、虚子選の雑詠欄でたびたび巻頭を占める新人4人の俳号のアルファベットが、偶然にSで始まることから、「4S」と名づけられた俳人たちがいた。水原秋櫻子、阿波野青畝、高野素十、山口誓子である。
昭和2、3年の両年において、実に「4S」は17回も巻頭に選ばれている。
虚子を頂点とする「ホトトギス」の黄金時代だった。

1931(昭和6)年、秋櫻子が虚子に反発して「ホトトギス」を離れ、自ら主宰する「馬酔木」を独立させた。
虚子の「花鳥諷詠」論から脱し、新しい俳句革新の可能性を求めるものだったが、それが新興俳句の幕開けとなった。
秋櫻子は、「自然の真と文芸上の真」と名付けた文章を昭和6年10月号の「馬酔木」に掲載し、虚子のいう「客観写生」、つまり「自然の真だけを追及したところで詩人たる資格はない」「心を養い、主観を通して見たものこそ文芸上の真」だとした(田島和生『新興俳人の群像―「京大俳句」の光と影 』思文閣出版(0507))。

1934(昭和9)年、改造社から「俳句研究」が創刊され、「ホトトギス」などと同列に新興俳句を取り上げことから、俳句革新運動に弾みがついた。
秋櫻子が「ホトトギス」を離れた4年後の昭和10年、山口誓子が秋櫻子に誘われて「馬酔木」に投句して「ホトトギス」を去った。
秋櫻子は、「馬酔木」に誓子選の雑詠欄を新設し、それによって若い人を中心に投句が急増していった。
秋櫻子、誓子らは有季定型を固辞したが、「ホトトギス」同人の吉岡禅寺洞らが無季俳句容認論を展開し、新興俳句は、有季定型、無季定型、無季自由律が鼎立することになった。

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2007年10月28日 (日)

新興俳句弾圧事件…③国家総動員体制

新興俳句弾圧事件の根拠として、1925(大正14」)年に公布された「治安維持法」が利用されたのだったが、1938(昭和13)年4月1日に公布された「国家総動員法」も威力を振るった。
「国家総動員法」は、昭和12年7月7日に、近衛文磨が声明した国民精神総動員実施要綱を法律化したもので、総力戦遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用(総動員)できることを定めたものである。
第一次世界大戦は、戦争における勝敗の帰趨が、国家が国力のすべてを戦争遂行のために注げるか否か、言い換えれば総力戦体制をとれるかどうかに依存するという認識を広めることになった。

日中戦争の戦線拡大と共に、平時の経済体制のままでは増大する軍需に対応できなくなってきたので、戦時のための経済体制への移行が急務とされた。
「国家総動員法」は、企画院を中心とした革新官僚によって策定された。
基本は、企業に対して国家が需要を提供して生産に集中させることを法律で強制するもので、生産効率を上昇させ、軍需物資の増産を図ることにある。

この法案が衆議院に提出された際、陸軍省軍務局課員の佐藤賢了中佐が、委員の発言中に「黙れ」と叫んだことが知られている。
国会審議の場で、一中佐が「黙れ」と発言できるような情勢だったわけである。
この法案を成立させるため、400~500名の防共護国団によって、民政・政友両党本部が10時間にわたり占拠され、警視庁はこれを黙認するということもあった。   

第20条に、「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニヨリ新聞紙其ノ他ノ出版物ノ掲載ニ付制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得」とあり、言論統制が図られた。
第39条では、「第二十条第一項ノ規定ニ依ル制限又ハ禁止ニ違反シタルトキハ新聞紙ニ在 リテハ発行人及編輯人、其ノ他著作者ヲ二年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス」としている。
挙国一致の体制を少しでも批判する者は、「アカ」として指弾され、治安維持法や国家総動員法によって捕縛された。

総動員態勢の確立は、計画経済としての性格を持つものであるから、社会主義的な側面を持っていた。
それがのちに、近衛内閣の後を継いだ平沼騏一郎内閣の下で、企画院事件として、多数の企画院の関係者治安維持法違反の容疑で、検挙・起訴される要因となった。
企画院事件は、京浜工業地帯の労働者の研究会で講師を努めていた企画院の芝寛が逮捕されたことが発端となり、企画院の若手判任官による研究会が、官庁人民戦線の活動としてフレームアップされ、岡倉古四郎、玉城肇らが検挙された。
さらに、稲葉秀三、正木千冬、和田博雄、勝間田清一らの高等官に波及した。

企画院事件において、満鉄調査部の川崎巳三郎が検挙されたことから、弾圧は満鉄調査部にも波及し、満鉄調査部事件となった。
満鉄調査部は、1906(明治39)年に南満州鉄道(満鉄)が発足した翌年に設置された。
当初は満鉄経営のための調査が中心だったが、日本の中国進出が拡大すると共に、中国そのものを対象とした本格的な調査研究を行うようになった。
多数の調査要員を必要としたことから、日本国内から多数の自由主義者、マルクス主義者が調査部員となったが、軍部が忌避するところとなって、1942(昭和17)年に第1次検挙、1943年に第2次検挙が行われた。満鉄調査部は、日本における最大・最高のシンクタンクだったと評価されている。
戦後も、満鉄調査部出身者で政財界や学界等で活躍した例は多い。

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2007年10月27日 (土)

新興俳句弾圧事件…②秋元不死男の「手記」

新興俳句弾圧事件の被検挙者は、強制的に「手記」を書かされたことが知られている。
しかし、その内容の詳細は明らかにされていなかった。
川名さんは、司法省刑事局編の極秘資料「思想資料ハンドブック」をマイクロフィルム化した中から、秋元不死男(本名秋元不二雄・当時の俳号は東京三)の手記「左翼俳句運動概観」を見つけだした。
なお、東京三の俳号は、共産党に由来するとされている。

「手記」の目次は以下の通りである。

第一、左翼俳句運動に関する認識
 一、左翼俳句運動に於ける二分野と其の主張並に立場
 二、私は何故「定型」を支持し、活動してきたか
 三、私の第一期活動の内容
 四、私の第二期活動の内容
 五、左翼俳句運動に於ける当面の任務
第二、新興俳句に対する認識
 一、俳句史概観
 二、新興俳句の近代派(近代俳句)について
 三、新興俳句の生活派(生活俳句)について
  (一)近代俳句と生活俳句の相違について
  (二)生活俳句の運動が勃りし理由について
  (三)生活俳句の本質と実践の方法並に其の時期
   (イ)根本態度
   (ロ)形式論
   (ハ)無季俳句
   (ニ)連作俳句
   (ホ)素材
  (四)生活俳句に於ける諸グループと其の交流関係について
  (五)生活俳句の例句二、三について

400字詰め原稿用紙換算で約125枚に相当する長さだというから、かなりの長文である。
目次を見ても、さすがにしっかりした構成になっていると感じられるが、そんな評価をしているケースではないだろう。

川名さんは、この中で、「第二/三/(一)近代俳句と生活俳句の相違について」の部分を抄出・再録している。
秋元さんによる新興俳句の区分は以下の通りである。
新興俳句
 A 近代俳句(水原秋桜子、山口誓子等によって昭和5年頃より始まる近代詩運動=モダニズム運動
 B 生活俳句(吉岡禅寺洞、嶋田青峰、日野草城等によって主唱された生活詩運動=リアリズム運動

秋元さんは、上記のように分類した上で、「生活俳句は、『コミンテルン』並に日本共産党の目的達成を支援することを目的に活動してきた左翼俳句運動であります」と書いているが、もちろん当局が起訴へ持っていくために強制的に書かせた内容である。
「公訴事実」には、「共産主義的芸術理論たる所謂『リアリズム俳句』理論の普及宣伝を為し」という文言があるが、そこに持っていくことに当局の狙いがあった。
それにしても、「リアリズムを主張したことが治安維持法違反とは!」と思うが、理由は何とでも付けられる、ということだろう。

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2007年10月26日 (金)

新興俳句弾圧事件…①全体像

「俳句」誌のバックナンバーで、川名大『新興俳句弾圧事件の新資料発見!』(0605、0606)という論考が目に止まった。
新興俳句弾圧事件とは、治安維持法下における思想弾圧事件の一つで(8月13日の項)、昭和15年2月14日の第一次「京大俳句」弾圧事件から、18年12月6日の「蠍座」(秋田)弾圧事件までの、4年間にわたる一連の出来事である。

事件の性格上、多くの資料が極秘扱いになっているし、関係者の多くは既に故人となっていて、その全体像は未だ明らかにされているとは言い難い。
川名さんは、思想弾圧関係の極秘資料を多く所蔵する国立公文書館と国立国会図書館を中心に関係資料を探索し、司法省刑事局編「思想月報」「思想資料パンフレット」の中から、新興俳句弾圧事件の新資料を発見した。
「特高月報」によれば、新興俳句関係で治安維持法違反容疑で検挙された事案(検挙日と被検挙者)は以下の通りである。

1.「京大俳句」関係
・第1次…昭和15年2月14日
井上隆證(白文地)、中村修次郎(三山)、中村春雄(新木瑞夫)、辻祐三(曽春)、平畑富次郎(静塔)、宮崎彦吉(戎人)、福永和夫(波止影夫)、北尾一水(仁智栄坊)
・第2次…昭和15年5月3日
石橋辰之助、和田平四郎(辺水楼)、杉村猛(聖林子)、三谷昭、渡辺威徳(白泉)、堀内薫
・第3次…昭和15年8月31日
斎藤敬直(西東三鬼)

2.「広場」関係…昭和16年2月5日
藤田勤吉(初巳)、中台満男(春嶺)、林三郎、細谷源太郎(源二)、小西金雄(兼尾)

3.「土上」関係…昭和16年2月5日
島田賢平(青峰)、秋元不二雄(東京三・戦後は秋元不死男)、古家鴻三(榧夫)

4.「日本俳句」関係…昭和16年2月5日
平沢栄一郎(英一郎)

5.「俳句生活」関係…昭和16年2月5日、7日、21日
橋本淳一(夢道)、栗林農夫(一石路)、横山吉太郎、野田静吉(神代藤平)

6.「山脈」関係…昭和16年11月20日
山崎清勝(青鐘)、山崎義枝、西村正男、前田正、鶴永謙二、勝木茂夫、紀藤昇、福村信雄、宇山幹夫、和田研二

7.「きりしま」関係…昭和18年6月3日
面高秀(散生)、大坪実夫(白夢)、瀬戸口武則

8.「宇治山田鶏頭陣」関係…昭和18年6月14日
野呂新吾(六三子)

9.「蠍座」関係…昭和18年12月6日
大河隆一(加才信夫)、高橋凱晟(紫衣風)

こうして改めて書き出してみると、実に多くの俳人が検挙されているし、累の及んだ雑誌の数も多い。
治安維持法違反容疑といっても、例えば「菊枯れる」とか「枯れ菊」という季語があるが、菊は皇室のことを指しているから、「菊枯れる」は皇室の衰退を意味する、というようなもので、言い掛かりとしか言いようのないものが多かった。
現時点では想像することすら難しい暗黒の時代である。
しかし、こういう言い掛かりによって、実際に被検挙者は長期にわたり拘留されると共に、上記の中で13人は起訴され、懲役2年(執行猶予3~5年)の刑を受けた。
当時、反体制のレッテルを貼られることは、生存権の剥奪にも等しく、容疑を掛けられただけで辛酸の生活を余儀なくされたのだ。

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2007年10月25日 (木)

選句の基準…⑤「予想外」あるいは「勘と好み」

06年5月号では、森田智子さん(「樫」同人)が、『現代性に拘って』と題し、8月号では、仁尾正文さん(「白魚火」同人)が、『伝統墨守』と題していて、対照的である。
仁尾さんのいう「伝統」の内容は、以下のようなことであり、これは分かり易い。
①有季定型
②文語
③歴史的仮名づかい
しかし、これらは「採る句」の「条件」ではあっても、「基準」ではないだろう。

森田さんは、「現代性」に関しては具体的に説明をしているわけではない。
しかし、「上五、中七と読んできて、次にくるものが想像の範囲内にある句、つまり下五が読めてしまう句は採らない」としている。
とすれば、想像の範囲を超えたものが「現代性」の要素ということだろうか。
想像の範囲か否かといえば、9月号では、如月真菜さん(「童子」「澤」同人)も、『予想外の魅力』と題している。

如月さんは、「選句の基準は句に魅力があるかどうかにつきる」が、選者にとって確固たる基準があったとしても、句の魅力は他者からすれば曖昧だろう、と書いている。
全くその通りだと思うが、それでは「選句の基準」を示したことにならないだろう。
結局、如月さんは、自分の選句の考え方を、例句をあげて説明するに留めて、一般論としての基準を明示的に説明することはしていない。
虚子ですら「なかなか説明できません」というのだから、説明が難しいことはよく分かるが、読者としては何らかの言葉が欲しいと思う。

何人かの俳人の「選句の基準」を眺めてみると、結局、06年1月号で今井千鶴子さん(「ホトトギス」「玉藻」「珊」同人)が、『勘と好み』としているところに行き着くようにも思える。
「勘」とは、何千・何万とある句を一見して総合判断を下す力である。
その総合判断を下す力は、たぶん経験によって培われるもので、数多くの実作と選句を経た結果だろう。

今井さんは、60点以下、80点以上の句を見分けるのは比較的楽だが、悩むのは60点~80点の間の句で、そこは選者の「好み」も関係してくる、という。
「選句の基準」を説明する「発見」だとか「詩趣」のような言葉は、主観の介在を避けられないものであり、「好み」という言葉を使わざるを得ないのではないか。
たまたま、「『選句』の遊び適性」(8月23日の項)で、われわれにとって「選句の基準は、句の良し悪しというよりも、選者の好みの問題」としたが、俳人という人たちも結局は「好み」に落ち着くことになるのだろう。

それはそれとして、今井さんの文章の中に、少しドキッとした箇所がある。
類句に関連して、盗作を言語道断としているのだが、超有名句を自分の名前で新聞などに投句してくる人がいるらしい。
加齢によって、愛唱句と自作の見境がつかなくなったことが原因だろうと推測している。
私は新聞などに投句した経験はないし、これからもないだろうと思う。
そして、まだしばらくは超有名句を自作と区別できなくなることもないと考えているが、誰にでも加齢は訪れる。気をつけるに越したことはない。

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2007年10月24日 (水)

選句の基準…④詩趣

「俳句」誌06年5月号では、稲畑廣太郎さん(「ホトトギス」同人)が、「選句の基準」として『詩趣ある約束事』を挙げている。
稲畑さんは、「ホトトギス」同人だから、というよりも虚子の曾孫だからというべきかも知れないが、自ら「のっけから虚子の言葉の引用である」と書いているように、虚子第一主義ともいうべき立場である。

その虚子の言葉を孫引きすれば、以下の通りである。

俳句の善悪はなかなか説明できません。ただ私がこれはよいと思って採った句は、たいがい佳い句のようです。そんな句は必ず全体がよく調っているがまた写生の真の道に適っているか、または句に力が籠もっているかいずれかの結果で、見ているうちに自然と感興を深めてくる句です。つまりそんな感興は、なかなか説明できません。

稲畑さんは、「選句の基準」について、この虚子の言葉以上のものはないのではないか、としているのであるが、さすがにそれでは説明になっていないと考えたのであろうか、自分の選句例(採らなかった例)を挙げている。
例えば、次の句を採らなかったとして挙げている。

雨降れば此処ら湿地と言ふ花野

なかなかいい句かとも思えるが、この時の兼題は、「湿地」だったからダメだというのである。
どういうことかと言えば、兼題として出された「湿地」はシメヂのことで、「湿地(シッチ)」ではなく、ルール違反だったという種明かしがされている。
「ナンダ」という肩すかしを食らったような感じであるが、「ホトトギス」の題詠選での話である。
「ホトトギス」の題詠選の兼題は、必ず季題であり、しかも『ホトトギス新歳時記』から出題される、という誌上での約束がある、ということである。
上記を投句した人が、この約束を読んでいたのかどうか分からないが、まあ私的な結社の内部の話であるから、それは随意というものだろう。

稲畑さんは、『虚子編 新歳時記』において、虚子が「俳句の季題として詩あるものを採り、然らざるものを捨てる」と言っているのに倣い、「『詩ある日本語』を是非大切にしたい」と述べている。
「詩ある日本語」を大切にすることは大いに賛成であるが、問題は、詩があるか無いかの基準をどう捉えるかであろう。

2月号では、永島靖子さん(「鷹」同人)が、選句の第一基準は、「作品の背後に作者ならではの詩の顕(タ)っていること」としている。
どういうことかと言えば、「俳句的既成概念に納まっていず」「表に書かれている内容の新鮮さと更にその奥に潜む詩情の如何」だという。
俳句は詩の一種だろうから、詩情の如何が重要であることは理解できる。
しかし、それが基準だと言われても、素人の立場では、詩情の如何をどう評価するかこそ聞きたいのだ、と言いたくなる。

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2007年10月23日 (火)

選句の基準…③新規性と進歩性

「特許法」第29条は、「特許の要件」について、「新規性」と「進歩性」という2つの条件を定めている。
「新規性」というのは、特許を出願する時点で、「公知」でないこと、つまり今までに発表されていないことである。
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既に発表されていて大勢の人が知り得るものは、新規性がないということで、特許を認められない。

また、「進歩性」というのは、誰でもが簡単に思いつくようなものではない、ということである。
「特許法」では、「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が前項各号に掲げる発明に基いて容易に発明をすることができたとき」は、「前項の規定にかかわらず、特許を受けることができない」としている。
これを「進歩性」がない、と表現している。
しかし、「通常の知識」や「容易に」という概念には、裁量の要素が入ってくることを避けられない。
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「月並」や「類想・類句」という言葉を前にすると、上記の「新規性」と「進歩性」という2つの条件を連想する。
俳句を、言語による「発明」と考えてみれば、「新規性」と「進歩性」は、俳句においても重要な判断基準となり得るのではなかろうか。
そして、俳句においても、「新規性」については、同一句が既に発表されているか否かということであるから、基準は明確である。
しかし、「進歩性」つまり「誰でも簡単に思いつくかどうか」については、判断が分かれることが多いであろう。

「俳句」誌06年6月号で、武田和郎さん(「半島」同人)は、『事実と真実』と題し、「新鮮である事・意外性のあること」を大切にしたい、としている。
つまり、新しい発見の有無である。
武田さんは、初心者は、見たり聴いたりしたことをそのまま作句してしまうことが多いという。
それは報告・説明であって、判り易いが表層を捉えただけの句であって、「事実」の表現である。
一句創作というためには、表層を捉えるだけでなく、物事の裏にひそむ「真実」を把握しなければならない、ということだ。
その「真実」の把握が「進歩性」のカギなのであろうが、この場合も、進歩性の評価に主観が混入することは不可避ではなかろうか。

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2007年10月22日 (月)

選句の基準…②体験と発見

06年6月号で、木内怜子さん(「海原」同人)は、以下の基準を挙げている。
①写生が確かであり、写生を越えた写生が出来ている
②姿勢が謙虚である
③発想、発見が独自であり、意外性もある
④感動を大切にしながら表現が平明である
⑤理屈、観念ではなく、真実に迫ろうとしている

これらの基準は、いずれも「なるほど」という基準である。

流れ行く大根の葉の早さかな(高浜虚子)

は、上記の5つの基準を実作で示して見せようとしたかのように思われる句だ。
「理屈、観念ではなく、事実に迫ろうとしている」は、「写生が確かである」とほぼ同義だろう。
虚子の句は、確かに、眼前にそういう情景があったのだろうと感じさせる写生の句である。
しかし、「単なる写生」と「写生を越えた写生」の差異はどこにあるのか。その基準を別の言葉で表現しないと、基準を示したことにはならないのではなかろうか。

また、「姿勢が謙虚である」と「表現が平明である」というのは、言い換えれば「奇を衒わない」ということだと思われる。
それは理解できるが、そういう中で「独自性・意外性」を表現することは難しいとも思う。
「感動を大切に」することが基本にあるべきことは理解できるが、平明な表現を保持しつつ、意外性を具現化するためにはどうすればいいか。
それは、ベクトルの異なる要素、矛盾した条件を止揚するということだろうが、おそらくは個別の判断ということになって、一般的な基準を示すことは不可能なのではないのだろうか。

10月号では、金箱戈止夫さん(「壷」同人)が、次の5つの条件を挙げている。
①句の対象とした実体は体験から捉えているか
②曖昧さの中であっても真実性が感じられるか
③素直に捉えることと平板とはどう違うか
④時事に関わる時、考えさせる句になっているか
⑤新しさとは、発見があるかないかである

木内さんと概ね同じような基準である。
大胆に集約すれば、「体験に基づいた発見」があるかないか、ということになろうか。
確かに、発見の有無は、「月並」や「類想・類句」から抜け出すための条件である。
それを、土肥幸弘さん(「玄鳥」同人)は4月号で、「『歳時記』の例句から離れよ」としている。
「初心のうちは『歳時記』の例句に学び、やがてはその例句から離れよ」ということである。

それは、「守・波・離」という上達の段階論と似ている。
「守」は、基本の型を身につけ、その型に忠実に行動する段階、「破」は、基本の型を脱した応用動作の段階、「離」は、型から離れて自在に動く段階である。
「『歳時記』の例句に学ぶ」のは「守」に相当すると考えられる。
俳句においても、基本の型を身に付けるためには、『歳時記』の例句に学ぶことが重要だろう。しかし、それから離れなければ、「類想・類句」になってしまう。
問題は、どのようにして「破」を行い、「離」の境地に達するかである。

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2007年10月21日 (日)

選句の基準…①月並と類句・類想

「俳句」誌では、2006年1月号から、「採る句 採らぬ句/選句の基準」というタイトルで、現役俳人のリレー連載をしている。
各人各様の考え方が示されており、選句という行為を考える上で参考になる。
例えば、2006年1月号において、棚山波朗さん(「春耕」同人)は、「月並俳句は採らない」と「類想・類句は採らない」の二つを心掛けている、としている。

「月並」というのは、平凡なこと、陳腐なことであり、その意味では、そういう句を採らないというのは当たり前の基準である。
私でも「月並」だと判断すれば、採らないであろう。
しかし、問題は、「月並」と「非月並」の違いがどこにあるか、である。
どういう句が「月並」で、どういう句が「非月並」か。
それを明確にできなければ、「月並俳句は採らない」というのは、何も言っていないのと同じようなものだろう。

棚山さんが挙げている例句を見てみよう。

早う出て足のはこべぬ蛙かな(鶴田卓池)

この句について、大須賀乙宇という俳人が、「昔から月並句集中に最も多いのは、これらの幼稚なる写生句である。事実を叙してはいるが、詩にはならぬ」と評した言葉が引用されている。
そして、事物を正確に描き出してはいるが詩情が感じられない、単なる表面的な写生である、としている。
写生は俳句の基本であるが、事実を叙するだけの幼稚なる写生ではだめだ、ということだ。
しかし、「幼稚なる写生」と「幼稚ではない写生」の分かれ目はどこにあるのだろうか。

二番目の基準である「類想・類句」についてはどうだろうか。
類想・類句とは、要するに似たような発想や似たような表現の句ということであろう。
確かに「似たような」であれば、創造的とは言い難い。
しかし「似たような」も、程度の問題であり、「似ているか否か」は、結局個人的な判断に帰着するのではなかろうか。

特に、時間の経過と共に、過去に作られた句の数は増大していく。
「類想・類句」が生まれる可能性は、時と共に増大して行くわけである。
「類想・類句」の「類」を類型的と言い換えれば、「類想・類型」には次の3つのパターンがあることになる。
①発想は独自性があるが表現が類型的な場合
②発想が類型的な場合
③発想も表現も類型的な場合

過去の作例の完全なデータベースがあったとしても、その中から「類想・類句」を検索することは難しいのではないか。
そもそも、発想の類型性をどういう基準で設定するのか?
表現の類型性については、使用されている語彙などによる判別は可能かも知れない。
しかし、語彙の数が有限である以上、俳句のような短詩型の文芸では、語彙の類似性は避けることができないのではなかろうか。
例えば、次の2つの句を比べてみよう。

五月雨をあつめて早し最上川(芭蕉)

五月雨や大河を前に家二軒(蕪村)

五月雨は共通で、大河との取り合わせも同じである。
「類想」と言えないこともないのだろうが、蕪村の句を「類想・類句」として否定する人はいないだろう。
とすれば、五月雨を除いた部分の、12文字の表現が判断の分かれ目ということになる。
俳句というものは窮屈なものだと思わざるを得ない。

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2007年10月20日 (土)

有名句の評価…④虚子

流れ行く大根の葉の早さかな(高浜虚子)

虚子については、既に触れた(8月24日の項10月16日の項)が、長らく「ホトトギス」を主宰すると共に、「客観写生」「花鳥諷詠」などの理念を提唱し、伝統俳句の頂点として大きな影響力を持った。1874(明治7)年~1959(昭和34)年。

1.山下知津子(昭和25年生)…日常卑近な緑から
優雅な古典趣味や美しいものを美しく詠むという姿勢は皆無な作品。
人の暮らしに近い所にある豊かな水量の澄んだ小川と、そこを流れる大根の葉という日常卑近な逞しい存在感のある緑、そして空気の冴えまでが鮮烈にこの句から浮かぶ。
真のテーマは<早さ>。この瞬間、流れて行く大根の葉の早さをおもしろがる心情だけで一身が満たされている作者。その作者の虚飾ない有り様が、気取りもてらいもない表現に結実し、決して慨嘆的でも高踏的でもない無常観がどこからかひたひたとかつ野太く迫ってくる。

2.山崎十生(昭和22年生)…首の皮
ただごと俳句に近いが、ただごと俳句ではない。それを峻別するものは、五七五の内に秘められている余白という核エネルギーである。
そのエネルギーを「首の皮」と称しているが、言葉では書かれていない「首の皮」が一句の生命を左右する。
俳禅一味の名句。

3.森田純一郎(昭和28年生)…時代の生活実感を伝える写生句
客観写生の真髄を究めた句。
流されて行く大根の葉を見ることが出来る位の小さな川ではあるが、そこを流れる大根の葉に虚子が感動したほどに水量が豊かなこと、またおそらく上流では大根を洗っており、その葉が流れてきたのであろうということ--がたった十七文字のこの一句から読み取れる。

4.対馬康子(昭和28年生)…主観と客観
抽象的な普遍概念である<早さ>を切り取っている。
早さには無限の可能性があるが、客観的速度による早さではなく、「大根の葉の流れ行く」という主観的基準により選択した<早さ>を詠っている。
無限の早さの中から掲句の早さを詩的に面白いと感じる心には非凡なものを認めざるを得ないが、「大根」か「行者にんにく」か、はたまた「根曲がり竹」か、流れ行く面白いものの「早さ」も無限にあるところが悩ましい。

5.仲寒蝉(昭和32年生)…脱帽する他ない手腕
大根という季語は食べる対象として主に根の部分が詠まれてきた。だがこの句は葉に、しかも捨てられて流れ行く物体としてのそれに注目した。
しかし、作者は季題の新しい面を開拓してやろうというつもりではなく、純粋に眼前の光景に打たれただけだと思われる。句の主題が大根の葉や小川でなく<早さ>だからだ。
風景の最重要部を掬い取る手腕には実作者として脱帽。また計らいを捨てた潔さ、口調の滑らかさも備えている。名句と呼ぶに相応しい。

表現はそれぞれであるが、さすがに全員◎という感じである。
俳界における虚子の位置づけを改めて感じさせられる。
「評価の分かれる有名句」という特集の趣旨にマッチしていないではないか、などと半畳を入れたくなる気もするが、十七文字という制約のある表現形式においては、焦点がうまく絞り込まれているということなのだろうと思う。
しかし、俳句史を代表するような名句なのだろうか?

私には、正直に言って、「ただごと」と「非ただごと」の「首の皮」の差異がよく分からない。
しかも、それは書かれていないところにある、と言う。眼光紙背に徹するという言葉はあるが、書かれていないことを読み取るというのは、余りに恣意的ではないか?
あるいは、上流で大根を洗っていてその葉が流れてきた、ということは私にも分かる。だけど、だからどうなの? とも思う。
もし、虚子の句でないとしたら、こぞって高点を付けるのだろうか、という素朴な疑問を拭えないのだ。

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2007年10月19日 (金)

有名句の評価…③白泉

鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ(渡辺白泉)

渡辺白泉は、新興俳句運動の旗手。弾圧の厳しい戦時下にあって、国家・社会に対する批判精神を持ち続け、卓抜な風刺に満ちた句を作った。1913(大正2)年~1969(昭和44)年。

1.杉浦圭祐(昭和43年生)…鶏たちには見えない
<鶏たち>と<カンナ>がなかなか記憶に定着しない。名句だとは思わない。
何羽もの鶏を放し飼いにしていて、一羽の首を落とすと、しばらく鳴き叫んでいるが、やがて息絶える。
すると、それまで慌てふためいていた他の鶏たちは、何事もなかったかのように歩き回る、という話を聞いて、この句は色褪せてしまった。

2.山西雅子(昭和35年生)…視覚への思弁
<鶏たち>と<カンナ>を何かの比喩と解釈すれば、一句に文脈や意味が発生しそうで、いくらでも解釈できそうだが、この句はそういう句ではないだろう。
<見えぬかもしれぬ>が中心で、視覚への思弁を掘り下げる仲で、重石として掴まれたモノが<鶏たち>と<カンナ>で、同時発表の句との色彩的階調・季語に対する白泉の立場などを考察すべきだが、モノと思弁のゆるぎない配置を良しとする。

3.山崎十生(昭和22年生)…かもしれぬ
鶏は、光の明暗は解るが、色の識別はできない。鶏自身の眼には、モノクロの被写体としてカンナは鮮明に映っている。
真っ赤な色彩鮮やかなカンナを配したあたり、諧謔味たっぷりで白泉の緻密な計算が窺える。
俳句史に於ける記念碑的な一句として受容するに吝かではないが、有名句や秀句として語り継ぐには心もとなく、名句にはなり得ない。

4.木暮陶句郎(昭和36年生)…思考の投影
新興俳句作家、白泉の代表句。
作者は花鳥諷詠よりも日常の生活感情を季題を通して描こうとした。
推測による論理を鶏の視点から詠んで、読者を鶏にしてしまうレトリックが用いられている。人の眼には真っ赤に燃えさかるカンナも、赤い眼をした鶏には見えないかもしれないといい、同時に人は感動する心を持っているが、鶏には果たしてそんな心があるのだろうか、という疑問も作品に内在する。
季題に自分の思考を強く投影する事で季題の存在感を際立たせた佳作と思う。

5.山下知津子(昭和25年生)…虚や異形に至らず
あまりにも日常的な感慨に終始する俳句群に対して、才知漲る挑戦を突きつけてきたという点で、インパクトが強く印象に残る。
しかし、鶏たちとカンナという取り合わせが露骨なまでに奇抜で、エキセントリックな感じがしてしまう。
<見えぬかもしれぬ>という曖昧さも含め、象徴の意図は感じられるが、単なる才走った奇矯な思いつきという感を否定しきれない。言葉が、自分の身体から痛切に発していない。

◎:木暮陶句郎
○:山西雅子、山崎十生
△~×:山下知津子、杉浦圭祐
鶏とカンナの取り合わせを、プラス(色彩感、季題の存在感など)と評価するか、マイナス(奇矯な思いつき)と評価するか。
まあ、新興俳句に対しては、今でも概して点が辛いのだろうか。

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2007年10月18日 (木)

有名句の評価…②立子

女郎花少しはなれて男郎花(星野立子)

星野立子は、虚子の次女で、中村汀女、橋本多佳子、三橋鷹女と並んで、4Tと呼ばれ女流全盛の先駆。虚子のすすめで、「玉藻」を主宰する(女性として初)。1903(明治36)年~1984(昭和59)年。
男郎花(オトコエシ)は、丘陵帯,山地の草原や道端に生える多年草。女郎花(オミナエシ)に比べて強壮な感じがすることから付けられた名前。

1.高橋修宏(昭和30年生)…喩のはらむ陥穽
作者はおそらくこのような景色を実際に見たのであろうが、言葉で書けば、<女>と<男>が対比されることで、過剰な意味性を呼び込んでしまっているように感じる。
<少し離れて>という措辞が、否応なしに人間の男女の距離感をめぐる喩を形成してしまうのである。
実景であっても、言葉の持つ意味性やイメージを検証しきらないと、このような喩のはらむ陥穽に落ちいってしまう。

2.山下知津子(昭和25年生)…どこか、されど疑問
一つの景の中で大きく剛直に対象をつかみ取り、思い切り単純化して提示するというこの句の構成のすばらしさは評価したい。
俳句という形式の強みが存分に発揮される表現方法だ。
しかし、女郎花ならでは、男郎花ならではの実在感やその花らしさが確かに伝わってくるかというと、疑問。

3.仲寒蝉(昭和32年生)…遊びとわざとらしさ
単純な構成の句で分かり易い。だが、女に対して男を配する字面での遊びに過ぎない。
句会でならば、花たちが人間の男女みたいに感ぜられて楽しい句ですねえ、などと評しながら、たぶん採るだろう。しかし、「名句」というほどのレベルではない。
「少しはなれて」が、さもありそうな情景で、実際に作者が見た風景かもしれないが作り物めいて聞こえてしまう。

4.大石悦子(昭和13年生)…やさしく深く
言葉遣いはやさしいが深い思いをたたえ、その風格は父虚子に迫るものがある。
散文には言い換えられない俳句固有の表現に、改めて敵わないと思う。

5.仁平勝(昭和24年生)…コロンブスの卵
これを嘱目というなら、そうかもしれないが、写生の句ではない。
もともとその花の命名自体が見立てだから、なにか作者の視点が加わっているわけではない。
ちょっとしたウィットの句で、俳句にはこういう遊び心があってもいい。
そういう意味ではコロンブスの卵として評価してもいいが、俳句はオリジナリティに価値があるわけではないので、名句と呼ぶのはおこがましい。

◎:大石悦子
○:仁平勝
△:高橋修宏、山下知津子、仲寒蝉
といったところだろうか。
<女郎花←→男郎花>の対比表現が、構成的には面白いが、わざとらしい感じで人の心を打つ表現になっていない、という辺りが最大公約数で、虚子との関係もあり、遠慮がちに否定してみたということだろうか。

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2007年10月17日 (水)

有名句の評価…①子規

図書館をブラウジングしていたら、「俳句」という雑誌の棚があった。角川書店から刊行されている月刊誌である。
バックナンバーを眺めてみたら、「本当に名句なのか?」という特集が目に入ってきた。2006年の2月号である。
この特集は、現役の俳人が、評価の分かれる有名句について、既存の評価にとらわれず論評した、と説明があった。

論じている俳人は全部で20人で、いわゆる有名句について、5人ずつが論評している。
昭和13年生まれの大石悦子さん以外は、皆私よりも若い。一番若い如月真菜さんは、実に昭和50年生まれである。
俳句というと何となく高齢者の趣味のような気がするが、現役で活躍している俳人は、既に戦後生まれが中心になっているということだろう。
さて、俳人たちは、有名句をどう評価したのだろうか?
冒頭の句は、「俳句評価の難しさ」(8月24日の項)で話題にした次の句である。

鶏頭の十四五本もありぬべし(正岡子規)

この句に対する論評は以下の通りであって、評価の軸は、<ありぬべし>の語をどう捉えるか、である。

1.片山由美子(昭和27年生)…作者も作品のうち
子規の境遇を知らない人は、<ありぬべし>をもって回った表現だと考えるかも知れないが、作者を想定した読みがあってもいいのではないか。
十四五本という無造作で曖昧な数が、場面を読者にくっきりと思い描かせて揺るぎない。

2.渡辺誠一郎(昭和25年生)…ありぬべしと生き続ける
脊椎カリエスの激痛に耐え、なお生きようとする子規の意志が鶏頭を捉えた。鶏頭と子規の生が一直線につながり、それ以外のものとの関係を峻拒する。
現実に鶏頭がなくても、子規の幻視であっても構わない。
<ありぬべし>とした子規のエネルギーが、定型の力を呼び、鶏頭が言葉として直立して生き続ける。

3.高橋修宏(昭和30年生)…一回性のリアリティ
作者は、鶏頭にだけ焦点を当て、<ありぬべし>と言いとめている。鶏頭は実景としての鶏頭ではなく、作品に仮構された鶏頭であって、作者が唯一度だけ出会うことのできたものであり、鶏頭は一回性の存在として書かれているのだ。
俳句とは言葉で書かれるものという自明性を先駆的に開示した稀有な作品だろう。

4.如月真菜(昭和50年生)…無力なもの
<ありぬべし>のゆるい言葉遣いには、日本語の持つ、どうでもいいようなだらしないような空気感がある。
この句の上を行きつ戻りつしているうちに、そういう無力なものの魅力が見えてくる。
鶏頭の句は、無力なものの魅力を作者が発表する力を持てるのか、あるいは選者がそれを選ぶことが出来るのか試されているのかも知れない。

5.千野帽子(?年生)…ユルかわいい句
<ありぬべし>の「ユルい」感じは、子規ならではのもの。読んで素敵な句だけど、私たちは、情報量が多く、凝縮度の高い近代俳句を経ており、こういう句を作れる時代に生きていない。

各評者の短文を、さらに私なりに要約してしまったから、真意を把握し損ねている可能性があるが、全体として肯定的な評価であって、否定的な人は1人もいない。
しかし、肯定や否定というのも程度の問題ではある。
代表句とする程の肯定か、あるいは1割程度を選ぶ選集に入れるのかどうか、等々の差異がある。
大胆に区分けすれば、以下のような感じか。
◎:渡辺誠一郎、高橋修宏
○:片山由美子
△:如月真菜、千野帽子

差異は、<ありぬべし>の表現についての見方の差である。
この句の場合、<ありぬべし>の語をどう捉えるかに関して、かなり対極的な見方に分かれている。
一つは、作者のエネルギー(渡辺氏)や<鶏頭の>存在の一回性(高橋氏)を見る見方である。厳しく鋭い生の瞬間を感じる見方と言ようか。
もう一つは、無力なもの(の魅力)(如月氏)やのんびり感(千野氏)を感じる見方である。
「ユルい」表現あるいはもって回った表現(片山氏)という捉え方は、存在の一回性という捉え方とは対蹠的といえよう。

これは、独立した一句として捉えれば、「ユルい」表現という評価になり、子規の境涯との関連で捉えれば、ギリギリの生が表現されている、という解釈になるということだろうか。
とすれば、評価は作者についての情報と切り離して行うべきなのかどうか、ということが問題になる。
私も片山氏のように、そういう読み方が「あってもいい」とは思うが、とすると、桑原武夫の第二芸術論(8月25日の項)が提起したように、俳句は芸術として自立し得るのかということが問われるだろう。

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2007年10月16日 (火)

虚子の「選句創作」論

8月24日の項の続き)
『折々のうた』などで知られる大岡信さんが、新潮日本文学アルバムの『高浜虚子 』新潮社(9410)に、「選は創作の覚悟」という一文を寄せている。
大岡さんは、戦後の詩壇(現代詩)を代表する実作者であると同時に、短詩型文芸に関する鋭い批評家である。虚子論についての最適の解説者といえよう。
大岡さんは、次のように書き始める。

高浜虚子が抜群第一等の俳人であった理由の一つは、彼が抜群の選句眼の持主だったことにある。

そして、『高浜虚子全集』改造社(3407)の中の、「『ホトトギス雑詠全集』の序一束」から、虚子の次の言葉を引用している。

選といふことは一つの創作であると思ふ。少なくとも俳句の選と云ふことは一つの創作であると思ふ。此全集に載った八万三千の句は一面に於て私の創作であると考へて居るのである。

「八万三千の句」とは膨大な数である。
明治41(1908)年から昭和6(1931)年頃までホトトギスの雑詠欄への投稿句が対象になっているのであるが、機械的に毎日10句として計算すると、約23年分程度に相当する。
計算上の話ではあるが、上記期間とピタリと一致している。つまり、虚子は、毎日毎日欠かさず10句を選ぶのと同等の作業をしていたことになる。

虚子が、「選は私の創作」というのは、虚子が「人によって採択に斟酌をしない」という信条を反映している。
虚子は、「いいものはいい、駄目なものは駄目」と言い切ったわけだが、それは結果として人の不満や恨みを買い、ホトトギスからの背反者を出すことにもなった。
この問題は、組織の発展にける短期と長期の矛盾の一例であろう。
短期的に背反者を出さないように配慮すれば、その配慮によって長期的な発展が阻害される。虚子の姿勢は、あくまで本質を追求することが、組織(結社)の永続性を担保するということだったのだろう。

大岡さんの引用を続ける。

私は黙って去り行く人の後影を見送りながら、俳句の選択に没頭した。

確かに虚子のこれらの言葉には、大岡さんの言うように「凄み」がある。
われわれのようにハナから「遊び」と割り切っているものとは遥かに異なる境地である。
しかし、私は、桑原武夫の「第二芸術論」(8月25日の項)に賛同するところも大である。
桑原の論は、敗戦後の状況の中で、西欧の芸術に比べて、俳句や短歌を「遅れた文芸」=第二芸術と断罪するものである。
今の時点で読み返すと、余りにも進歩主義的もしくは近代主義的な意識が強すぎるような気もするが、確かに独立した一句だけで、その優劣を評価することはかなり難しいのではないかと思う。
もっとも、だからこそ、俳人としては、虚子のように全身全霊で取り組む姿勢が必要なのだろうが。

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2007年10月15日 (月)

「選句遊び」余談

8月22日の項の続き)
選句の基準には個性があるはずだ。
もちろん、われわれの選句は「遊び」だから、それほど真剣に考えて選んでいるわけではない。
しかし、結果的に選ぶ句が違うとすれば、そこに何ほどか個性の反映があるのではなかろうか、というようなことを考えたくなる。

妻が、知人のKさんに、「選句遊び」の話をしたところ、彼女も興味を持って自分もやってみようということになったらしい。
Kさんは、大学で心理学を学び、医療機関でカウンセラーとして働いた後、思うところがあって外国人に日本語を教える仕事に就いた。
こういう話にはピッタリの人である。
最初に遊びに乗った8人の選句結果をKさんに示し、Kさんにそれぞれの人物像を推測して貰ってみよう、というように展開していったようだ。
Kさんは、妻と私以外は全く面識がない。もちろん、これも「遊び」の範疇の話である。

資料が限定されているのだから、Kさんの推測にも自ずから限界がある。
まあ、むしろ無理な注文だというべきだろうし、Kさんも評し難かっただろうと思う。それでも全般的に「なるほど」と思う結果だった。
他の人の評は遠慮するとして、私については、「視覚的な観察眼」という言葉を使って頂いた。
8月22日の項で、「私の選句基準は、どうやら視覚的なイメージの鮮やかさと音の響きやリズム感にあるように思う。」と書いていたので、わが意を得た思いだった。

ちなみに、私が、黛まどかさんの『知っておきたい「この一句」 』PHP文庫(0706)に採録されている50句の中から、ベスト5として選んだ句は次の通りである。

①美しき緑走れり夏料理(星野立子)
②家々や菜の花色の燈をともし(木下夕爾)
③花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ(杉田久女)
④夏帯や運切りひらき切りひらき(鈴木真砂女)
⑤ひく波の跡美しや櫻貝(松本たかし)

私にとって興味深かったのは、結果よりもKさんの認識のプロセスだった。
Kさんは、各人の選句結果を比較して、他の人が選んでいない句を抽出した。
不思議なことに、次点に入れたものまで含めれば、誰にも、他人が選んでいないものがあった。
そして、その句を中心にその人の人物像を推測したのだった。

私の場合は、次の句が私だけが選んだ句であった。

次:死ぬものは死に行く躑躅燃えており(臼田亜浪)

おそらく8人というのがちょうど良かったのだろう。人数が増えてくれば、当然重なりが増し、その人だけという確率は減ってくる。
考えてみれば、個性とは、他人とどこがどう違うか、ということだから、Kさんの思考は当たり前のプロセスではある。
しかし、私や妻は、選句の共通性の方だけに目が向いており、差異に着目することをしていなかった。
改めて、私が「思考の生活習慣病」に陥っていることを反省させられた。

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2007年10月14日 (日)

黒川紀章氏の死/追悼(2)

建築家の黒川紀章さんが、12日に亡くなった。
今年は、都知事選や参院選に出馬して、世間的に名前を売ったばかりである。
選挙運動のパフォーマンスは、悲壮感を通り越していささか喜劇的ともいえる様相を呈していた。
そこまでやらなければならないのか、という痛ましい感じすら覚えたのだったが、何となく自分の死期を予感していたのかも知れない、などと思う。

女優の若尾文子さんと結婚したことも含め、目立つことが好きだったことは間違いないだろう。
そもそも建築家という仕事が、強烈な自己主張がなければ成り立たない。
特に、コンペで獲得するようなプロジェクトでは、いかにして人の目をひきつけ得るかということが重要なポイントになってくる。
京大の建築学科で学部を終えたあと、大学院は東大の丹下健三研究室で学んだ。スター建築家を目指すとしたら、やはり丹下研は大きな魅力だっただろう。

Pict00193 たまたま今年の4月、妻と一緒に東京の新名所を訪ねる機会があった。オープンして間もない国立新美術館もその一つだった。
黒川さんの設計である。
微妙な曲線で表現された外観は、黒川さんの造型力を遺憾なく示したもので、黒川さんの名前こそ知っているものの、建築家事情などに全く無縁の妻も、感嘆しきりという感じだった。

黒川さんは、1960年5月に、世界デザイン会議の準備をきっかけに結成された「メタボリズム」グループの一員だった。26歳の時であり、まだ大学院生だったが、既に独立していた。
以来常にホットな話題を提供してきたが、独立後の数年は、食べることにも苦労したらしい。そういう生活の中で、深夜に論文を書き続けたという研鑽が、その後の活躍の素地を作ったのだろう。

メタボリズムとは新陳代謝のことであるが、最近よく使われるメタボリック・シンドロームのメタボリックは、メタボリズムの形容形である。
metabolismという言葉は、ismが付いているから、主義主張を表現するのに好適である。そこに着目したわけであるが、「機械の時代から生命の時代へ」という文明論的な視点も包摂されているところが、さすがに先駆的だったと思う。
辞書にも、①「新陳代謝・物質代謝」の次に、②「1960年代にわが国で主張された建築理論。機能などの外的要因の変化にともない、都市や建築も交替・変化していくとするもの」と解説されてる。
建築理論が公認されている数少ない例だろう。

メタボリズム・グループは、黒川さんの他、川添登、菊竹清訓、浅田孝、栄久庵憲司、粟津潔が創設メンバーだった。
「来るべき社会の姿を、具体的に提案し、歴史の新陳代謝を、自然に受け入れるのではなく、積極的に促進させよう」という趣旨の『METABOLISM/1960』というマニフェストが会議と同時に出版された。
この理念に賛同した建築家の槙文彦、大高正人もグループに参加した。
1960年代末頃に起きた未来学ブームを先取りするものだったといえよう。

私は学生時代に、筑摩書房から刊行されていた雑誌「展望」に掲載された川添登さんの『黒潮の流れの中で』という評論を読み、壮大なロマンを感じた記憶がある。
メタボリズム・グループとの最初の出会いだったことになる。
2_2川添さんと川添さんから「建てない建築家、書かない評論家、教えない大学の教授」と評された浅田孝さん辺りがグループの理論的支柱だったのではないかと推測するが、メンバーそれぞれが積極的に論陣を張るという趣きだった。
余談ではあるが、浅田孝さんは、『構造と力』で一世を風靡した浅田彰さん(京大経済研究所准教授)の叔父にあたるという。

メタボリズムは、建築を構成する要素を、寿命の長短によって骨格部分と可変部分とに分けることによって具現化されていった。
古くなった可変部分を取り替えることによって、建築物の新陳代謝を図ろうという意図である。
黒川さんの「中銀カプセルタワービル」(1972年竣工)は、その理念の代表作であろう。
すべての家具や設備をユニット化し、それを住宅カプセルの中に納め、2本の鉄筋コンクリートのシャフトに接続させている。
メタボリズム運動の記念碑的作品ではあるが、まあ実験的と呼ぶのが相応しい建築物で、肝心の住み心地はとても快適とは思えない。

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2007年10月13日 (土)

『されど われらが日々--』

青春に蹉跌はつき物だ。しかし、「されど……」と思う気持ちは多くの人が共通して持つ感情だろう。
柴田翔『されど われらが日々-- 』文春文庫(7406)(元版は、文藝春秋1964)は、この気持ちをうまく捉えたタイトルである。このタイトルが思い浮かんだことによって、多くの読者を獲得することを半ば保障されたようなものではないだろうか。
1964(昭和39)年上半期の芥川賞を受賞した。短編が対象とされる芥川賞では異例の長さである。
受賞して直ぐ単行本化された。私が大学2年の時である。単行本ではなく、受賞作が掲載された「文藝春秋」で読んだような記憶がある。

作品の出来事は、1959(昭和34)年秋から1960年春までの数ヵ月の間のことで、主人公の「私」が、大学院の修士論文を仕上げようとする時期として設定されている。
しかし、物語は、1952(昭和27)年の「血のメーデー」事件に遡る。

朝鮮戦争が、1950年6月に始まる。1951年7月に休戦会談がスタートするが、両陣営の思惑が交錯し、休戦協定が成立したのは1953年7月のことだった。
国内の情勢をみると、1948年に帝銀事件が、1949年には旧国鉄を舞台にした下山事件・三鷹事件・松川事件が相次いで起きた。
松本清張が「日本の黒い霧」と名づけた一連の不可解な事件である。
このような不穏な社会情勢を背景に、1950年からレッドパージが始まる。

民主化から反共の砦へ、いわゆる逆コースの時代である。
日本共産党は、レッドパージ後に中国に亡命した徳田球一によって武装闘争のための軍事方針が採られ、農村部でのゲリラ戦などを想定した「山村工作隊」「中核自衛隊」など非公然組織が作られた。
そういうことも影響しているのだろうが、1952年のメーデーは、宮城前広場で、メーデー参加者と警官隊が激突し、死者2名、重軽傷者740名以上という惨事となった。

1955年7月の第六回全国協議会で、公式に武装闘争方針が否定されることになるが、共産党の方針を信じて非合法活動に従事していた若者たちの挫折感は大きかった。
ブント書記長の島成郎さんも、その1人だったのだろうが、この小説の登場人物たちも、多かれ少なかれその挫折感を背負っている。

例えば、「私」の婚約者節子は、「私」の遠縁に当たり、東京女子大を卒業して商社に勤めている。
節子は、東京女子大時代に歴史研究会(歴研)という左翼サークルに所属していたが、東大駒場の歴研との合同研究会で、佐野という学生と知り合う。
佐野は、高校2年の時に入党した筋金入りの共産党員で、高校の細胞(共産党の末端組織)のキャップをしていた。
佐野は、血のメーデーに参加し、仲間に対して激烈なアジ演説をするが、警官隊と対峙した時に、襲いかかる警官の姿を見て恐怖に駆られ、スクラムをふりほどいて逃げてしまう。

それが負い目になって、東大入学後は、機関紙の配布などの手仕事を誠実にこなす。その誠実さが認められて、中核自衛隊の一員となり、東北の山村で軍事組織に従事する。
軍事訓練を続ける中で、いざ革命という時、自分はまた裏切ることにならないだろうか、という不安に駆られるが、共産党指導部の方針転換によって、軍事組織は解体される。
それをきっかけに佐野は共産党を離れ、平凡な学生となることを選ぶ。

卒業してS電鉄に入社し、実務能力を認められて順調な社会人生活を送り始める。
実力者の副社長と一緒に出張した帰り、副社長に誘われて箱根の別荘に泊まるが、副社長が胃癌による死の恐怖に怯える姿を見てしまう。
そして、「俺は死ぬ間際に何を考えるだろうか」と自問する。
瞬間的に出た佐野の自答は、「俺は裏切り者だ!」である。「死ねば楽になる」と思い、睡眠薬を持って山の宿に向かい自殺する。

高校時代にデモのスクラムから逃げ出したことが、死を求めるほどの罪の意識になるかとは思うが、まあその辺りは目をつぶりたい。
仕事の関係でしばしば鹿児島を訪れる機会があった時期があるが、桜島の噴火による降灰は、どんなに締め切ったつもりの窓からも入り込んでくると聞いたことがある。「死ねば楽になる」という想念も、この降灰のようなもので、それが心の中に忍び込んでくることを避けることは難しい。

青春のあり方は時代の状況と切り離せない。
手紙や記憶の再生などが組み合わされて、構成に工夫が凝らされているのだが、その手紙が著しく長文なのだ。
ほとんどの情報交換を電子メールで済ませているであろう現代の青春とは自ずから大きな隔絶がある。
現代の若者が、こういう小説を読むものなのかどうか、読んでどんな感想を持つのか、興味のあるところだ。

この小説は、世代的な体験の意味を問うことをテーマにしているといっていいだろう。
そして、登場人物たちと私とは10年近くの差があって、それは大きな体験の差をもたらしている。「山村工作隊」などは小学校に入学した頃の話で、遠い過去の出来事である。
にもかかわらず、胸がキューンとするようなフレーズが随所にあることも確かだ。

節子は、「私」と別れて、東北の誰も希望しないような田舎の町のミッションスクールに赴任することを決意する。
そのことを「私」に告げる手紙が届く。

あなたは私の青春でした。どんなに苦しくとざされた日々であっても、あなたが私の青春でした。私が今あなたを離れて行くのは、他の何のためでもない、ただあなたと会うためなのです。そうでないとしたら、何故この手紙を書く必要があったでしょう。

そして、終章は節子を送る「私」の独白である。

そうなのだ。私の幸や不幸は問題ではない。節子の幸や不幸は問題ではない。人は生きたということに満足すべきなのだ。人は、自分の世代から抜け出ようと試みることさえできるのだから。

東北の方は、まだきっと寒いのだろう。雨の日など、節子の傷の痕は痛まないだろうか。もし痛むのなら、抱いて暖めてやりたいのだが--。

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2007年10月12日 (金)

ベンチャーとしてのブント

青木昌彦さんは、「私の履歴書⑪」(10月11日掲載)において、「私の『第一ベンチャー』は心の中で解散した」と書いている。
「第一ベンチャー」とは、1958年12月10日に設立された「共産主義者同盟(ブント)」のことで、上記の述懐は、1960年7月のブント大会終了後の心境である。
青木さんはブントの創立メンバーの1人で、②回に、「名称については、私が発案し、若きマルクスがその結成に参加した組織の名前をまねて、『共産主義者同盟』とした。ドイツ語で『ブント』だ。ちなみに有名な『共産党宣言』はこの組織の綱領だ」と説明している。
ブントは、安保改定反対闘争の総括をすべきこの7月の大会で、事実上解体した。

ブントの生成と崩壊の過程は、書記長だった島成郎さんの『ブント私史―青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ 』批評社(9902)などに書かれているし、主要な構成メンバーのキャラクターなどは、西部邁『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー (Modern Classics新書 17) 』洋泉社(0706)(元版は、文藝春秋刊(8601))などで知ることができる。
創立準備を取り仕切っていた島さんは、ブント創立大会の「議案執筆は青木に一任し」と書いている。
「青木昌彦は、(中略)抜群の明晰さで東大教養時代から傑出、(中略)ブント結成とともに書記局員とした。あまりの頭の良さのために一部の者からいつも批難の対象になっていたが、(中略)理論的支柱の役割を果してきた」ということだ。
現在の「ノーベル経済学賞に最も近い日本人」は、東大教養時代から抜群の頭脳を示していたわけである。

ブントには委員長は設けられなかったから、代表者は書記長の島さんということになる。
島さんは、中学2年(旧制)の時に日本の敗戦を迎え、1950年に東大へ入学するのと同時に日本共産党に入党し、自治会の副委員長になった。
1945年8月15日の敗戦後、戦争中は非合法だった日本共産党は、徳田球一を書記長として合法政党として再建された。
出獄した幹部が、情報が遮断されていて分析的な認識ができなかったのだろうが、連合国軍は「解放軍」と規定された。

アメリカの占領政策は、東西冷戦の進行によって、当初の民主化志向から“反共の砦”の構築に転換し、日本は朝鮮戦争の出撃基地となり(1950年)、日米安保条約が締結された(1951年)。
コミンフォルム(Communist Information Bureau)が日本共産党の路線(占領下での合法的な革命)を批判したことをきっかけに、1950年、徳田らの主流派(所感派)、宮本顕治らの国際派等々に分裂し、混乱状態に陥った。
全学連は国際派の牙城で、島さんも国際派に属したが、直ぐに除名処分を受けることになった。
主流派は1951年10月の第五回全国協議会(五全協)で、武装闘争路線を選択したが、余りにも現実離れしたもので、党勢の衰退を招かざるを得なかったし、政府は、武装闘争を取り締まるため、破壊活動防止法(破防法)を制定した。

1955年、現実を無視した武装闘争路線は破綻し、日本共産党は、第六回全国協議会で従来の路線を自己批判することになった。
しかし、武装闘争路線の下で山村工作隊などの活動に参加していた学生党員にとって、突然の路線転換は大きな衝撃であり、六全協は、学生を中心とする若い党員に、前衛党のあり方について疑問を抱かせる契機となった。
ベンチャー精神の一つの側面として、既成の組織、特に官僚化した組織のあり方から離れ、新しい組織を立ち上げることがあげられるだろう。
六全協を機に、日本共産党のあり方に疑問を持った若い党員が、新たな前衛党を立ち上げようとすることは当然のことのようにも思える。
しかし、その当時、社会の変革を志す者にとって、日本共産党は絶対的な権威として存在していた。
だから、それに反逆するためには、青木さんのいうところの「軽はずみ」も必要だっただろう。「軽はずみ」は若者の特権でもある。

西部さんの書において、島さんは「苦悩せる理想家」と形容されている。
西部さんによれば、ブント創立時、3つのグループが角つきあわせていた。
第一のグループは、東大と早大を中心とし、理論的な傾きを持っていた。青木さんも当然このグループである。
第二のグループは、革共同関西派と呼ばれていたグループで、反中央・親トロツキーの意識が強かった。
第三のグループは、現在政治評論家として活躍している森田実さんを中心とする現実主義的なグループである。
そういう諸勢力がそれぞれの路線を主張している中で、書記長の人選については、島さんが全員一致で選ばれたという。

西部さんは、島さんがブントの書記長に異論なく推されたのは、人格的な特徴によるもので、「情熱、潔癖、覚悟といった類の心理がその白皙で端正な表情にくっきりと現れていた」と書いている。
島さん自身は、「私は、そしてブントは、過剰な『ロマン』に満ち、妥協を嫌う『理想』に冒され、『精神』の優位を誇るオプチミスト(おめでたき人々)であった」としているが、それらはまたベンチャー精神を形容するものでもあるのではなかろうか。
つまり、ブントにはベンチャー精神が溢れていたということだ。

60年7月の時点で実質的に崩壊してしまったブントは、西部さんが書いているように、「左翼方面における組織的運動の流れに浮かんだ一個の泡沫であった」のだろう。
しかし、泡沫的であるのは、ベンチャーに通有の避けられない宿命でもあると思う。
ブント解体後、青木さんは、「私の履歴書」に書かれているように、世界的な理論経済学者に転生した。島さんは東大医学部に復学して精神科医となり、沖縄や北海道などで地域の精神医療に尽力したが、2000年に亡くなった。

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2007年10月11日 (木)

「60年安保」とは何だったのか

6月19日の自然成立の後、安保改定反対運動は、潮が引くように沈静化していった。
国会を何十万の大衆が取り囲み、道路を埋め尽くすなどということは、今からでは想像することすら難しいが、その盛り上がりをもたらしたもの、つまり「60年安保」とは、結局のところ何だったのだろうか。
その答えは、おそらく人により、立場によってさまざまだろう。
1960年は私が高校に入学した年だから、私も3年ほど早く生まれていれば、国会を取り巻くデモの渦中にいたのかも知れない。しかし、この年頃における3年の違いは、世代の違いを生じるほどに大きい。
私は、実質的に「60年安保」を知らず、「60年安保」が何だったのかについて、経験的に語り得ることはなにもない。

1960年が戦後史の転換点だったとして、安保改定反対運動がその転換をもたらしたのかといえば、どうもそうではないようだ。
むしろ転換期の諸条件が、「60年安保」の盛り上がりをもたらしたと考えた方が妥当のように思われる。
安保改定反対運動の性格は、1960年5月19、20日の安保特別委および衆議院での強行採決を挟んで、質的に変化した。
つまり、安保条約改定の中身についての論議から、強行採決に具現化された政治手法の評価への変化である。
強行採決後、運動は、安保条約の中身を離れて、「反岸」あるいは「民主か独裁か」という性格を強めていった。

つまり、逆説的なことではあるが、国民的規模で展開された安保改定反対運動の軸は、安保条約ではなかった、ということだ。
例えば、江藤淳、浅利慶太、開高健、大江健三郎、石原慎太郎、谷川俊太郎、寺山修司、武満徹といった、思想も行動様式もまったくバラバラな人たちによって作られた「若い日本の会」や、岸首相の「声なき声に耳を傾けなければ……」といった言葉を逆手にとった「声なき声の会」などの、左翼的党派とは性格の異なる集団は、いずれも強行採決に対する反対を契機として発足している。
そこでは、安保条約に関する論点はほとんど問題にされていないのではないか。

そもそも安保条約の改定の何が問題視されていたのだろうか。
1951年に締結された旧条約は、「日本はアメリカに駐留権を与えるが、駐留軍は日本防衛の義務を負わない」という片務的なものだった。
その結果として、アメリカ占領軍が占領終了後にも引き続き日本に駐留することになった。
それを新条約は、「両国が自衛力の維持発展に努めること、日本および極東の平和と安全に対する脅威の生じた際には事前協議を行ない得ること、日本施政権下の領域におけるいずれか一方への武力攻撃に対しては共通に対処・行動すること」等、双務的なものに変更するものであった。
また、旧条約では期限条項がなかったのに対し、期限に関する条項が設けられた。
上記のことだけを考えれば、条約改定はそれほど不合理なものではないように思われる。
福田恒存さんが言った「新条約は与党の言うほど改善されたものではないが、野党の言うほど日本を危機に曝すものではなおさらない」(奥武則『論壇の戦後史―1945-1970 』平凡社新書(0705)から孫引き)という辺りが妥当な評価だったのではないだろうか。

前述のように、5月19、20日の強行採決の際、首相の岸信介は、東条内閣の一員として開戦の詔勅に署名し、A級戦犯容疑に問われた履歴の持ち主であった。また、衆議院議長の清瀬一郎は、極東軍事裁判の日本側弁護団の副団長だった。
歴史のめぐり合わせを感じさせるが、この2人のコンビが、1960年という時期の性格を示しているように思う。
つまり、1956年の『経済白書』に、「もはや戦後ではない」という言葉が記されたが、政治的には、ようやく「敗戦後」が終わろうとしていたのだろう。
三池炭鉱争議は、石炭の時代が終わったことを示すものだった。同様に、安保改定反対運動は、「敗戦後」の終わりを示すものだったのではなかろうか。

保阪正康さんは、『60年安保』講談社現代新書(8605)の「エピローグ」で、「いま『六○年安保闘争』をふり返ってみるとき、戦後の日本がいちどは通過しなければならない儀式だった」と書いている。
それは、「敗戦後」から「敗戦後・後」へ通過するための儀式だったのではないかと思う。

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2007年10月10日 (水)

1960年という年

新安保条約に対する反対運動が、空前の盛り上がりを見せたのは、多分に岸首相の姿勢によるところが大きかっただろう。
岸首相は、東亜・太平洋戦争開戦時の東条内閣の閣僚だったし、旧満州国の高級官僚だった。
つまり、戦時レジームの体現者だった。
5月19日の強行採決は、天皇制国家における官僚としての性格を露骨に示したかのようであり、多くの国民が、そのような性格に反発し、危惧感を抱いたのではないか。

1945年8月から講和条約締結までの占領期間は、前期と後期に分けることができる(保阪正康『60年安保闘争』講談社現代新書(8605))。
前期は、GHQによって、軍国主義の制度、機構、思想が解体され、民主主義政策の導入が図られた期間である。
しかし、米ソを中心とする冷戦構造が明確になると共に、日本はアジアの“反共の砦”として位置づけられ、占領政策は大きく転換する。後期は、その制作が具体化していった期間である。

講和条約調印の時点では、既に公職追放を受けていた人たちも復活を遂げていた。岸首相は、その代表格ということになる。
一方、全学連の学生たちは、占領前期の理想主義的な教育を受けてきた。
「60年安保」の背景として、そのギャップ、言い換えれば、占領前期の「理念」と占領後期から講和条約発効後の「現実」との対立という図式があったのではないか。

1960年から、既にほぼ半世紀が過ぎたことになる。
今の時点で振り返れば、1960年は、戦後史の大きな転換点だったといっていいだろう。

1960年は、安保改定運動が大きな持ち上がりを見せた以外に、三井鉱山三池炭鉱で激しい争議が起きた年でもあった。
三池労組は、1947年頃から九州大学の向坂逸郎教授が向坂教室と呼ばれる労働者のための学校を開設し、理論的な指導を行っていて、日本で最も戦闘的な労働組合であった。
石炭から石油へのエネルギー源の転換が進むことを背景に、三井鉱山は人員整理を含む合理化を計画し、1959年12月に1492人に退職を勧告し、これに応じない1278人に指名解雇通告をした。
1960年1月5日、労組側は指名解雇を一括返上する。これに対して25日、会社側は三池炭鉱をロックアウトして、組合員を構内立ち入り禁止にした。反発した組合は無期限ストに突入した。

3月17日、三池炭鉱に第二組合(三池炭坑新労働組合)が結成され、28日に会社と第二組合が生産再開のため、第一組合員のピケラインの強行突破を図って多数のけが人が出る事態となり、翌29日には、第一組合員が、暴力団にナイフで刺殺されるという惨事が発生した。
安保闘争が盛り上がるのに連動するように、現地での対立は激しさを増し、5月12日には、ふたたび重軽傷者170人余を出す衝突が起きた。

争議は安保闘争の終焉後も続いた。
7月7日に、福岡地裁で貯炭場(ホッパー)への組合員の立ち入り禁止の仮処分を下すと、福岡県警はピケライン排除のために警官隊を動員し、一触即発で流血の惨事が憂慮される状態となった。
日本炭鉱労働組合(炭労)と三池鉱山は、中央労働委員会に事態の解決を委ねることにした。

中労委は、8月10日に斡旋案を提示した。
指名解雇を自発的退職とみなし、退職金を増額するという内容で、炭労や総評などの上部組織は、戦いの限界とみて、第一組合に受諾を迫った。
組合では、諾否について論争が続いたが、9月6日に斡旋案受容を決定し、10月29日に協定に調印した。
第二組合は11月1日から就労し、第一組合も12月1日に就労した。ロックアウトから313日が過ぎていた。

三池争議の背景である石炭から石油へのエネルギー革命は、必然的なものだった。
その意味で、組合側は、流血に至るまでの徹底抗戦よりも、有利な退職条件を引き出す方向で考えるべきだっただろう。向坂教授は、経済構造に関する長期的な視野に欠けていたとせざるを得ないのではないか。
一方、会社側も、資金が豊富な時期に、事業の多角化などの戦略をとるべきだっただろう。
もちろん、半世紀後の後知恵に過ぎないことは承知している。
しかし、1963年11月9日の、死者458人、重軽傷者555人という被害者を出した炭塵爆発事故は、1960年の争議の後遺症であったはずで、労使共にもう少し異なる対応があり得たのではないかと考える。

退陣した岸首相の後を引き継いだのは、池田勇人だった。池田首相は、「寛容と忍耐」を強調し、岸前首相との違いを訴求した。
12月27日、「国民所得倍増計画」が決定され、10年間に国民所得の総額が2倍になるように、7.2%の成長率が設定された。
国策の中心に経済が据えられ、経済成長が目的化された。実際に池田内閣の下でわが国は驚異的な経済成長を遂げるが、それを可能にした条件の一つががエネルギー革命だった、ということになる。

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2007年10月 9日 (火)

60年安保…③6月15日

5月19日、20日の警官隊を導入して強行採決した際の、清瀬一郎衆議院議長は、東京裁判(極東国際軍事裁判)の日本側弁護団副団長として、連合国と対峙した法律家だった。
したがって、法律的な手続きには元来厳格な考えをもっていた。採決後の記者会見では、「断腸の思いで警官隊を導入することにした」と語ったが、議会政治史において大きな汚点を残したことは否定できない。

5月20日以降、新安保条約に対する賛否を越えて、岸首相に代表される議会政治軽視に対する反発が急速に膨れ上がった。
さまざまな団体が強行採決批判の声明を出した。
東京都立大学の教授だった竹内好さん(中国文学者)は、公務員としての職務を離れる決意を固め、辞表を提出した。
後に保守派の論客となる江藤淳さんすらも、岸政権との闘いの必要性と重要性を説く評論を執筆した。

6月19日に予定されているアイゼンハワー大統領の訪日に先立って、ハガチー大統領秘書が6月10日に羽田に到着した。
ハガチー秘書は、車で都心に向かったが、弁天橋付近に集結していた全学連反主流派(共産党系)の学生や神奈川県評の労組員たちに取り囲まれて、身動きがとれなくなってしまった。
1000人の警官隊が駆けつけてデモ隊を排除してヘリコプターの着地地点を確保し、ハガチー秘書はアメリカ軍のヘリコプターに乗り換えて都心に飛び去った。
この「ハガチー事件」は、国際的な儀礼を欠く行動ではないかと捉えられ、アイゼンハワー大統領の訪日に関して、世論に微妙な影響を与えた。

6月15日に国民会議の統一行動日が設定された。国会請願デモは、午後から夕方にかけて、10万人が国会、首相官営、アメリカ大使館に向けてデモ行進を行い、新橋付近で解散することになっていた。
国民会議の方針とは別に、全学連主流派は、国会に突入する計画を立てていた。唐牛委員長らは拘置所に拘留中だったので、この日のデモは北小路敏全学連委員長代理(京都府学連委員長)が指揮をとった。
午後4時過ぎに国会を一周するデモが始まったが、最前列が最後尾に重なるほどの人数だった。

午後5時30分から、全学連主流派の学生は、国会南通用門から国会構内へ突入しはじめた。7時過ぎ、警官隊が学生の排除に入り、乱闘状態になった。
午後7時半ころには学生は構外に押し出されたが、その間に、「女子学生が死んだ」という情報が流れた。実際に東大生の樺美智子さんが乱闘の中で亡くなったのだった。
午後10時、学生のデモ隊が正門から国会に入ろうとし、再び警官隊と激突した。多数のけが人が出て、学生は排除された。この日、樺さんが亡くなった他、700名以上の重軽傷者が出るという歴史的な1日となった。

こうした事態の中で、警備当局が、アイゼンハワー大統領の訪日の警備に自信がもてないことを、岸首相に明言し、16日に大統領の訪日を断ることが決定された。
6月18日、新安保条約の自然成立を目前にして、朝から国会周辺に人の波が溢れていた。
東大では、15日に亡くなった樺美智子さんの慰霊祭が開かれ、全学連は日比谷公園で抗議の総決起大会を開いた。
午後11時過ぎても、新安保条約の成立に抗議すべく、4万人近くが国会周辺に座り込んでいた。
しかし、もはやどの政治勢力にも為すすべは無く、19日午前0時、新安保条約は自然成立となった。
6月23日、藤山外相とマッカーサー駐日大使の間で、批准書の交換が行われ、岸首相は、新安保条約が発効したのを機に、辞任を表明した。

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2007年10月 8日 (月)

60年安保…②5月19日

岸首相は、1960年1月17日羽田空港を飛び立ち、1月19日午後2時半(現地時間)、ホワイトハウスのイーストルームで新安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条)の調印式が行われた。
新条約批准案は、1960年2月5日に衆議院に提出され、2月19日からの衆議院安保条約特別委員会で本格的な論戦に入った。

論点はいくつもあった。
最初に問題になったのは、「国会修正権」で、国会に条約の修正を行う権利があるかどうかが問われた。
この問題に関しては、参考人として呼ばれた学者の間でも意見が分かれたが、保留状態で審議が続けられた。
次に問題になったのは「極東の範囲」だった。
岸首相は、「韓国、中華民国の支配下にある地域も含まれる」という見解だったが、これに対して、社会党だけでなく、中国との関係改善を主張していた自民党の議員たちも問題視した。
さらに、在日米軍の出動の際の「事前協議」において、日本に拒否権があるのかどうかが問われた。

政府の答弁は、これらの論点に関して、明確性・一貫性・具体性を欠くものであった。
しかし、岸首相は、条約の批准を急いだ。アメリカ側で批准されたにもかかわらず、日本が国会の会期末までに法案を可決できなかったらどういう事態になるか?
通常国会は、5月26日が会期切れで、参議院での自然承認を可能にするためには、4月26日までに衆議院で可決することが必要だった。

政府の説明が十分に説得的なものでない一方で、4月22日に自民党から安保特別委員会で参考人の意見聴取を行う、という動議が提出された。それは、審議打ち切りを意味し、社会党、民主党は態度を硬化させて、特別委だけでなく衆議院の審議を拒否した。
4月26日に、国民会議の第15次統一行動が行われた。
この頃には、全学連主流派は、国民会議の方針とまったく別の闘争方針を取るに至っていた。

国民会議の統一行動は、日比谷公園から国会まで請願デモを行い、日比谷公園に戻って東京駅までデモを続けて流れ解散するもので、平穏なものだった。
一方、全学連主流派の学生は、国会への突入を試みたが、警官隊の防御線を破れず、唐牛委員長をはじめ、多くの幹部クラスが逮捕される結果となった。
全学連の闘いは孤立したものだったが、一方で、国民会議型運動に飽き足らない感情に訴える要素も持っていた。

5月10日に、外務省がアイゼンハワー大統領が、6月19日から5日間訪日することになったと発表した。
岸首相は、6月19日までに批准を終えていることが至上命題だと考えた。
衆参両議院の可決か、衆議院で可決して自然承認するか。後者ならば、5月19日までに衆議院を通過させなければならない。そのためには、安保特別委の審議を打ち切らなければならない。

5月19日、岸首相を中心とした自民党主流派は、議員秘書のうち女性や老人を青年名義に変え、600名近くの「秘書団」を編成した。
衆議院の傍聴席は、早朝から暴力団風の男たちで埋まっていた。
午前10時40分に安保特別委が開会した。午後0時37分にいったん休憩になった。
自民党の秘書団が議長室、安保特別委室、本会議場入り口、議員入り口などにピケを張る。この秘書団の中には、顔に傷のある者やサングラスをかけた者が多くいた。

午後10時25分に本会議開催の予鈴が鳴った頃、安保特別委の再開が宣せられた。
議員が入り乱れて審議が行われ得ないような状況の中で、3分ほどの間に次のことが可決されたことになった。この時の安保特別委の委員長は、小沢民主党代表の父の佐重喜氏だった。
①委員長が開会を宣言
②質疑打ち切りの動議が読み上げられ、賛成多数で可決
③日米新安保条約、新行政協定、関連法案の採決を求める動議が出され、賛成多数で可決
④上記の採決が行われ、賛成多数で可決
この様子はTVでも放映されたが、茶番劇であることが国民の目に曝された。

午後10時35分に再び本会議開催の予鈴が鳴るが、清瀬議長が社会党の議員と秘書団に阻まれて、議長席を出ることができない。
議長は、警官隊を導入し、11時5分から警官隊の実力行使が始まった。議長は警官隊と院外団に守られて、自民党議員しかいない本会議場に入った。
11時49分に本会議の開会が宣せられ、50日間の会期延長が賛成多数で可決された。散会が宣せられたのは、午後11時51分だった。
翌日は午前0時6分に開会が宣せられ、新安保条約を関連法案が一括して多数で可決された。散会は0時18分だった。

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2007年10月 7日 (日)

60年安保…①1月15日

1960(昭和35)年は、日米安保改定反対闘争が、空前の盛り上がりを見せた年として記録され、記憶されている。
私はこの年の4月に高校に入った。
地方都市の高校であったためか、1年に入ったばかりで事情が分からなかったのか、私の通学していた高校で実践的な反対運動に加わっていた人の存在を知らない。
だから、「60年安保」についての自分自身の体験というものは、直接的にも間接的にも皆無といっていい状態である。
しかし、戦後という私の生きてきた時間軸において、「60年安保」の問題は、やはり一つの画期として位置づけられるべきだろう。

以下、保阪正康『六○年安保闘争』講談社現代新書(8605)や小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性 』新曜社(0210)などを参考に、「60年安保」の節目を追ってみたい。

1958年9月から、安保条約の改定に向けて、日米間の交渉が続けられていた。
これに対し、岸内閣成立後、学校における勤務評定問題や警察官職務執行法などで、岸内閣といわゆる進歩派・革新派の争いが激しくなっており、安保条約改定問題は、そのシンボル的存在になっていた。
1959年3月、安保改定阻止国民会議(国民会議)が結成され、反対運動の幅が広がりをみせていたが、安保改定に関する日米間の交渉も進展していた。

1959年12月には、後は日米両政府が調印式を行い、それぞれの議会で批准するという段階にまで、改定内容が煮詰まった。
岸首相以下の全権団が調印のために、1960年1月に訪米するというスケジュールが発表され、安保条約は、そのまま調印・批准に進むかという流れになった。
国民会議は、岸訪米阻止のために羽田に大量動員するという方針を一度は決めたが、世論の動向を忖度して、結局は羽田に動員はしないで、代表者の集会で反対の意思表示をするという方針に変更した。
これに対して、全学連主流派は、状況を切り開くために突出した行動が必要だと考えていた。

岸首相のスケジュールは、1月15日になって、16日の午前8時出発ということが発表された。
全学連主流派は、15日の午後6時ごろから空港ロビーで座り込みを始め、午後8時頃には700人ほどになった。
午後10時になると、国際線ロビーは全学連の集会場と化したが、遅れて到着した学生を加えて約1000人の学生の集団となった。
集会後、学生たちは空港内のレストランに、椅子やテーブルでバリケードをつくり、篭城するという戦術をとった。

16日の午前2時、増援された警官隊によって、バリケードが撤去され、学生たちはごぼう抜きにされていった。
警察側からみれば、全学連主流派の主要分子を一網打尽に逮捕できるという非常に都合のいい状況が生まれたということになる。
検挙者は77人に上り、そのうちの39人はAクラスの全学連幹部だったという。
その中に、全学連委員長の唐牛健太郎さんや青木昌彦さんが含まれていたことになる。
マスコミの論調は、学生たちの行動を「はねあがり」と批判するのが基調であったが、一方で、新安保条約に関しても批判的だった。

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2007年10月 6日 (土)

日米安保条約

青木昌彦さんが、学生運動のリーダーとして逮捕されたのは、1960年1月15日の「岸訪米阻止闘争」における羽田空港ロビー占拠の際であった。青木さんらが属する共産主義者同盟(ブント)の行動パターンを象徴する事件だった。

日米安全保障条約は、講和条約と不可分の条約である。
1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本は、1945(昭和20)年8月15日以後の連合国による占領状態から抜け出ることになった。
講和会議に参加していた52ヵ国のうち、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドが調印を拒否し、49ヵ国が講和条約に調印して、日本は国際社会への復帰を果たした。

講和条約の調印の5時間後、吉田首相と国務長官顧問のJ.F.ダレス他アメリカ側代表との間で、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(日米安保条約)の調印を行った。
この条約に基づき、占領軍のうちアメリカ軍部隊は、在日アメリカ軍として、占領が解かれ他の連合国軍(主としてイギリス)部隊が撤収した後も日本に留まった。
日本は、講和条約を締結しても、武装解除された丸裸の状態なので、自衛権を発動する手段を持っていない。それをアメリカ軍が肩代わりするために、日本とその周辺に駐留することとしたのであった。
日米安保条約は、日本の国際社会への復帰のスタンスを示したものだったということになる。

既に1950(昭和25)年6月には朝鮮戦争が始まっており、米ソを軸にした東西冷戦構造ができあがっていた。
その枠組みの中で、日本は、西側の一員となることを選択したのだった。
吉田茂は、西側の一員となることは当然のこととしつつ、この段階で日本が防衛力を持とうとは考えなかった。
アメリカは、占領の前期には日本の非武装化を推進したが、冷戦構造が固定化すると共に、日本に再軍備を要求するようになった。
それに対し、吉田首相は、防衛はアメリカに任せ、日本は経済や文化の復興に注力するほうが得策だと判断したのだった。

吉田首相は、日本の防衛は、国連主導の集団安全保障安全という建前を採りたかった。しかし、ダレス長官等の再軍備の要求は拒否したものの、日本の防衛の主体が国連ではなくアメリカにあるという形は受け入れざるを得なかった。
その結果、日米関係は、対等のものではなく日本がアメリカに従属する、という性格のものとなった。
日米安保条約の対米従属性については、二つの反対の立場があった。
一つは、この条約は日本の主体性を損なうものであり、日本も再軍備をして日米対等の立場に立つべきだ、とするものである。
民主党の芦田均などの主張だったが、吉田はこれに対して国力の回復と民主主義化したことを世界に対して印象づけることが必要だ、とした。
もう一つは、社会党などの対米従属批判である。社会党の中でも、左派は講和条約・安保条約共に反対、右派は講和条約賛成、安保条約反対という意見で、結局左右両派に分裂する結果となった。

朝鮮戦争のもたらした特需によって、わが国の経済は復興を加速した。
1956(昭和31)年の『経済白書』は、「もはや戦後ではない」という名文句で有名であるが、その趣旨は、日本経済の課題は、戦後復興から技術革新・近代化のフェーズに移ったという認識である。
こうした状況の中で、1957(昭和32)年2月に、岸信介内閣が成立した。
岸首相は、東京帝国大学法学部で、のちに民法学の大家となる我妻栄と首席を争ったという秀才だった。
天皇主権主義の憲法学者上杉慎吉から、後継者となることを求められたが、官僚の道を選んだ。
1936(昭和11)年から39(昭和14)年まで、旧満州国の要職に就き、東亜・太平洋戦争の開戦時には、東条内閣の商工大臣として、開戦の詔勅に署名するという履歴の持ち主であった。
敗戦後にA級戦犯容疑で収監されたが、占領の終結後に政界に復帰した。(小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性 』新曜社(0210)

岸は履歴からも窺えるように、反共意識が強かった。
そして、日本を「反共の砦」とする使命感を持ち、そのために安保条約を改定して日米対等の関係に立つべきだと考えた。
吉田が、軍事力よりも経済力で自由主義陣営の一員として貢献しようと考えたのに対し、岸は反共軍事国家を構築するという姿勢だった。
組閣から5ヵ月後に、岸はアメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領と会見して、日本の防衛力の強化の必要性を盛り込んだ共同声明を発表する。

岸・アイゼンハワー共同声明を受けて、日米間の事務当局の間で、日米安保委員会が作られ、協議が重ねられた。
具体的な改定交渉は、1958(昭和33)年9月の藤山愛一郎外相のワシントン訪問によってスタートした。
しかし、その直後に、岸内閣が「警察官職務執行改正案」を衆議院に提出したことから、国内の政治情勢が波乱含みとなり、改定交渉が続けられる状態でなくなってしまった。
そのため、改定交渉は当初の想定から大幅に遅延し、結果的に、1960(昭和35)年の1月6日まで続くことになった。

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2007年10月 5日 (金)

ベンチャー精神と軽はずみ

ベンチャー精神とは何かといえば、ベンチャービジネスを起こし、マネジメントしていくために必要な心の構えといったところだろうか。
ベンチャービジネスは和製英語だといわれているが、一般に、新技術や高度な知識を軸に、大企業では実施しにくい創造的・革新的な経営を展開する中小企業を指す言葉として使われている。
もっとも、新技術や高度な知識というのは相対的なものだから、ベンチャービジネスを厳密に定義することは難しいだろう。

私も、最初は一部上場の大企業に勤務していたのだが、思うところがあってベンチャー企業に転職した者の一人である。
いま振り替えってみて、それが良かったことなのかどうか分からない。もちろん、今さら時間を逆回転させられるわけでもないので、そもそも振り返ってみたとしてもどうしようもないのではあるが。
体験を踏まえていえば、大企業とベンチャー企業との根本的な差異は、安定性・安全性の違いにあると思う。
大企業は信用も高く、財務基盤も固まっていることが多いので、一般には大きな安定性・安全性を持っている。
それに対し、新創業のベンチャー企業は、信用もなく、財務的にも脆弱である場合がほとんどである。

もちろん、年齢も会社における立場も異なっているから単純な比較はできないが、ベンチャー企業ではとても他人に話せないような心的なプレッシャーを感じるような体験をした。
企業には、社員、取引先などの利害関係者がいる。そしてそれぞれに家族がいる。
ベンチャー企業と大企業とを比較すると、企業とそれぞれの利害関係者の関係の深さは、ベンチャー企業の方が大きいといえるだろう。分母(関係者の数)の大きさの違いである。
だから、苦境に陥ったときの心理的な負担は、大企業に比べるとベンチャー企業の方が遥かに大きくなる。そして、苦境に陥る可能性も当然ベンチャー企業の方が高いだろう。

とすれば、大企業を離脱して、ベンチャー企業を創業することにはどのような意味があるのだろうか。
一般的には、大企業の方が人的にも、財務的にも、ネットワーク的にも恵まれているだろう。とすれば、事業を成功させる確率は、大企業の方が高いはずである。
しかも、大企業には成功体験の蓄積がある。大企業といえども最初から大企業であるわけではないので、大企業に発展する過程で、多くの成功事例を積み重ねているはずである。その成功事例を参照すれば、失敗を予防できるのではないか。
しかし、逆説的なことではあるが、その成功体験が、風土となり文化となって、それと異なるやり方を封じることにもなる。
そこにベンチャー企業の存在理由が生まれてくる。

ベンチャービジネスについて考える場合、最も重要な概念は、J.A.シュンペーターによって提示された「創造的破壊」という概念だろう。
多くの場合、起業の契機は、イノベーション(新財貨、新生産方法ないし新輸送方法、新市場、新販路、新組織)である。
イノベーションは、技術革新と訳されることが多いが、純粋に技術的なジャンルだけに留まらない。要は、新しい挑戦的な試みのことである。
そうして創業した企業の最も危険な時期は、おそらく創業した直後ということになるだろう。

事業が継続できていれば、次第に取引先の数も増え、信用も増して、資金調達力も大きくなってくる。
そこに至ることができるかどうかが問題で、その前に立ちゆかなくケースが非常に多い。
よく、「銀行は晴れていれば傘を貸そうとし、雨が降り始めると傘を取り返してしまう」といわれる。
もちろん、銀行側からすれば、大切な預金の運用だから、安全第一ということだろうが、それではベンチャービジネスは生き残ることが難しい。
特に、日本の社会では、創業後の失敗に関して、敗者復活的な風土がないので、新創業に踏み切れないということも多いと思われる。
ベンチャービジネスに失敗はつきものでたある。失敗した人間が再チャレンジできる機会があるか否かは、経済活動の活力の根本にかかわる問題ではないだろうか。

ベンチャービジネスは、多くの場合、伝統ある大企業から離脱することを意味している。
つまり、安全性・安定性よりも、イノベーションの機会を重視するという姿勢である。
それは未知へのチャレンジであり、保守的な精神とは相容れない。
そこにはある種の「軽はずみ」が不可欠である。
石橋を叩くばかりでは、川の向こう側には渡れないのだ。

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2007年10月 4日 (木)

青木昌彦さん

日本経済新聞の今月の「私の履歴書」は、経済学者の青木昌彦さんが執筆している。
青木さんは、ノーベル経済学賞に最も近い日本人と言われているが、第1回(1日)に書いているように、2008年から「世界経済学連合」の会長に就任することが決まっている。
門外漢からすると、国際的な学会の会長に就任するのか、という程度の認識になってしまうが、実は大変に重要なポストである(らしい)。

先ず、日本人としては都留重人さんに次いで2人目である。任期は3年で、その任期中に1回(つまり3年に1度)世界大会が開かれる。会長の主な仕事は、そのプログラムを作ることである。
青木さんは、「経済学の流れに一石を投ずることもできる」とあっさり書いているが、要するに経済学のパラダイムを問い直す、という野心の表明だろう。

青木さんのプロフィールを、ホームページから引用する。

1962年東京大学経済学部卒業。1964年東京大学経済学修士。1967年ミネソタ大学経済学博士号(Ph.D.)を取得。スタンフォード大学とハーバード大学で助教授を務めた後、京都大学において助教授、教授(現在同大学名誉教授)。1984年から2004年スタンフォード大学教授を経て、現在は同大学名誉教授。さまざまな国際的活動に従事しながら研究に取り組んでいる。

まさに赫々たる履歴といえるだろう。
しかし、その研究内容は難解である。私も、処女著作の『組織と計画の経済理論』岩波書店(7101)などを覗いてみたことがあるが、残念ながら私の学力ではとても歯が立たなかった。

その風貌には一度だけ接したことがある。
経済同友会が『第15回企業白書:市場の進化と企業の社会的責任』(0303)という調査報告書をまとめ、その発表を兼ねたシンポジウムを開催した。
私もそのシンポジウムの聴衆の1人だった。その時青木さんが基調講演を行った。
見事な白髪で、いかにもシャープな頭脳の持ち主という感じだったことを覚えている。

青木さんは、知る人ぞ知る、「60年安保」当時の全学連指導者で、逮捕されて万世橋警察署の独房に入ったことがある、と書いている。
現在の専門分野は、比較制度分析ということだが、「社会問題や国際的なかかわりへの関心、よくいえばベンチャー精神(シニカルにいえば軽はずみ)が、学生運動時代からのものだ」と振り返っている。
ベンチャー精神(シニカルにいえば軽はずみ)という表現が面白いが、『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書) 』(0602)の著者の梅田望夫さんは、ブログで、それはシリコンバレー全体の雰囲気の形容にぴったりだ、と評している。
確かに、ベンチャー精神と軽はずみは、表と裏のような関係なのだろう。

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2007年10月 3日 (水)

呰麻呂反乱の真相

呰麻呂反乱にまつわるさまざまな謎は、事件が謀略によって起きたと考えるとうまく説明できる。
あるいは、謀略の存在を想定しないとつじつまが合わない。
誰による謀略か?
定石としては、最大の受益者を先ず疑うべきだろう。それは、藤原氏である。何よりも、不比等以来、謀略は藤原氏の常套手段だった。
呰麻呂の反乱事件もその一環だったのではないか。

藤原氏は、光仁帝の下で勢力を拡大した紀氏に対して危機感を持っていた。
その政敵を倒すのに、蝦夷の反乱を利用したのだ。それは、光仁帝を牽制することにおいても有効だった。
マクロな見取り図はそう想定されるが、実際の状況、例えば広純を殺したのは誰だったのか、首謀者が藤原一門の誰だったのか、などは藪の中である。

前掲浅野氏の著書(浅野恭平『謎の反乱』地産出版(7606)は、以下のような一つの仮説を提示している。
宝亀6、7年になると、光仁帝と山部皇太子(後の桓武天皇)の呼吸があってきた。
律令体制の引き締めが課題で、そのためには、藤原一門の力を弱めることが必要だった。
天皇は、紀氏一族を育成しようと考え、宝亀6年に大伴、紀氏から参議を新任させた。
この措置は、藤原側の警戒心を刺激したが、新参議の大伴駿河麻呂と紀広庭は共に高齢で、問題は次の世代の大伴家持、紀広純らだという判断だった。

つまり、家持、広純が登用された時点こそが、事を起こすタイミングであった。
その作戦を、策士藤原百川は以下のようなシナリオとして想定していた。
1.道嶋一族が支配下の夷俘をもって山道方面に不穏の情勢を醸す
2.真綱が広純に山道への進撃を献言する
3.大楯が近接地域に敵襲を演出し、真綱の献言をサポートする
4.広純が多賀城を出て北進するのを待ち、真綱がこれを殺害する。大楯は、山道の実力者呰麻呂を謀殺する
5.多賀城に戻り、大楯の部下に略奪させ、証拠隠滅のため焼却を図る
6.都への報告は呰麻呂の反乱とする。呰麻呂は、大楯が殺したことにし、多賀城は賊の残兵が乱入したことにする

宝亀10(779)年、藤原百川、縄麻呂が相次いで死んだ。
天皇はこれを好機として捉え、翌11(780)年に、藤原以外の閣僚を5人に増やし、その中に家持と広純を入れた。
藤原側は、直ちに、百川の残した作戦をもとに行動に移った。
作戦は順調に進んだ。しかし、呰麻呂を殺すはずだった大楯が逆に殺されてしまう、という手違いが起きた。
呰麻呂は、日頃から大楯を警戒していたのだろう。
座麻呂は、大楯を殺すと、広純に報告すべく伊治城に赴く。そのときには広純は既に殺害されており、真綱は呰麻呂に、大楯が広純を殺して大騒ぎになっている、と言い繕った。

呰麻呂はこれを信じて真綱を多賀城に護送したが、真綱はこのウソがすぐにばれることを想定しており、城を抜け出して道嶋一族に事情を説明した。
道嶋一族には、都から既に用済みになった真綱を消せ、という指令が届いていて、真綱はあえなく殺されてしまう。
広純殺しについて疑問をもった呰麻呂が多賀城につくと、道嶋一族が待ちかまえていて、呰麻呂を殺す。

事実とすれば、マフィアもかくやと思うような凄まじい謀略である。
しかし、情報の伝達速度にまつわる不審を解こうとすると、予め仕組まれていた事件と考えざるを得ない、というのが浅野氏の結論である。
光仁帝に替わって桓武天皇が京都に遷都すると、藤原氏の一族は独占的な権力を確立し、わが世の春を謳歌するようになる。

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2007年10月 2日 (火)

事件の謎

呰麻呂の反乱は、歴史の転換点となるものであったが、その実像には謎が多い。
浅野恭平『謎の反乱』地産出版(7606)を参考に、呰麻呂反乱の謎について考えてみよう。

先ず第一に、そもそも呰麻呂は、何を動機として、いつ反乱を決断したのか?
『続日本紀』は、反乱の原因を明確に説明していない。
呰麻呂が最初は広純を嫌うことがあったことや、道嶋大楯に侮蔑されて反感を持っていたことなどが記されている。しかし、呰麻呂がクーデターを起こす理由としては、十分な説得力があるとはいえないだろう。

『続日本紀』の編者たちのスタンスは、以下のような推測に基づいていると思われる。
呰麻呂は、もとも夷俘の種だから、蝦夷と内応していたとしても不思議ではない。
広純と大楯を殺しているのは個人的な恨みを持っていたのだろう。
呰麻呂は広純の信用を得ていたが、それは恨みを隠していたからだろう。
つまり、反乱の動機は、平素からは窺い知れない呰麻呂の内面にあり、政府は全く無関係なのだ、という態度である。

また、WIKIPEDIA(最終更新7月23日)は、以下のように解説している。

呰麻呂の行動記録は伊治城の反乱で途切れる。多賀城の略奪は反乱の直接の結果だが、その指揮官が誰かを史料は記さない。呰麻呂が多賀城を落とした可能性も高いが、別の将による可能性も否定できない。中央政府は、ただちに藤原継縄を征東大使に任命し軍を出したが何の成果もなく戦闘は拡大した。肝心の呰麻呂がどんな役割を果たしたかその後どうなったかは不明である。呰麻呂が征東軍に敗れて殺されるようなことがあれば『続日本紀』が記しただろうから、記録の欠落はそうした最期を迎えなかったことを示唆する。そもそも呰麻呂は逮捕されていないのだから、当然自供も得られていない。

呰麻呂の反乱は、インディアンの白人に対する反抗に似ているだろう。
つまり、圧迫された先住民が、受忍の限界を越えて、武装蜂起に立ち上がった。
政府対蝦夷という勢力対立の図式を考えれば、呰麻呂が広純の侵攻の機会を捉えて反旗を翻すことは、十分にあり得ることのように思われる。

しかし、そもそも当時、蝦夷の側に政府に対立せきるような統一組織があったとは考えられないだろう。
庶民にとっては、国家とか民族などという意識が存在しなかった時代である。
呰麻呂自身、すでに久しく政府側に服属して、職務、位階を受け体制に組み込まれていた。
この時点で反乱を起こす動機は見当たらない。

浅野恭平氏は、上掲書で、東北と奈良を往復する使者のスピードについて、詳細に検討している。
反乱情報は、わすか5、6日で都に達している。
古代でもそれくらいの速度は可能のように思える。
しかし、浅野氏は、当時の条件下では、伊治城を発した使者が、5日でつまり200km/日のスピードを維持して、奈良の都に到着するのは不可能であり、十数日はかかったはずだと計算している。
とすれば、征討大使以下の人事の発令は、余りにも早すぎるのではないか?

また、反乱軍は、長官は殺したが、次官は助命して多賀城に送り返している。
しかもその次官は、賊の南下襲来に先立って逃亡を遂げ、以来姿を見せない。
反乱軍の首領の呰麻呂も、その後姿を見せることがない。
征討軍も、天皇の度重なる叱責、督戦にもかかわらず、ほとんど作戦らしいものを行わないまま、要領を得ない撤収をしてしまう。
全体として、何とも不可解な事柄が多い。

それはともかく、この事件をきっかけに、中央政界の力関係は藤原氏に大きく傾いていく。
藤原氏は、以後200年にわたる摂関政治を主宰する力の基礎を確立するのである。
つまり、結果として藤原氏は、この事件の最大の受益者であったと見ることができる。

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2007年10月 1日 (月)

歴史の転回点

多賀城焼失の急報を受けて、朝廷は震撼した。
ただちに呰麻呂を討つため、中納言藤原継縄を征東大使に任命するが、継縄の軍は蝦夷たちに奪われた拠点を奪回出来ず、9月に更迭されてしまう。
後任に、藤原小黒麻呂が任命されるが、戦果は芳しくなく、10月には小黒麻呂は天皇から叱責されている。
結局、小黒麻呂も反乱軍を捕捉することができず、翌年、曖昧な形で撤兵してしまう。

浅野恭平『謎の反乱』地産出版(7606)は、以下のような理由から、呰麻呂の反乱は、従来のフロンティアでの小競り合いとは性格が異なるものであるとしている。

第一に、規模が大きかった。反乱は「軍団」という規模で起きたのだった。
指揮者は、朝廷に帰属して忠実に働いていた蝦夷の元の首長だった。それが数千人の部下を率いて反乱に踏み切ったのであり、前例のないことであった。

第二に、反乱の性格が単なる反抗ではなく、クーデターに近いものだった。反乱軍は、陸奥の最高軍政長官を襲ってこれを殺害し、多賀城を焼き払った。
それまで営々と積み上げてきた政府の東北経営の基盤が無に帰す可能性があった。

第三に、政府の東北政策の転換を促す契機となった。
老齢の光仁天皇が退位し、桓武天皇が即位して、準備に数年をかけて坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。それは20年に及ぶ東北戦争のきっかけとなるものであった。
微温的だった東北政策は武力制圧の形をとるに至った。

政府は多くの人と物を使って、「蝦夷征討」の軍事遠征を行い、延暦20(801)年に蝦夷側の指導者である阿弖流為らを降伏させた。
その結果、延暦21(802)年に胆沢城(岩手県水沢市)、延暦22(803)年に、志波城(岩手県盛岡市)が建設され、律令政府の勢力は岩手県内に拡大していった。

西から東へと拡大してきた中央政府権力の流れが、先住民の反対でいったん堰き止められたのであるが、流れは止むことなく、堰き止められることによって巨大に膨れあがって、一気に東北全土を併呑してしまうことになったのだ。
宝亀の呰麻呂の反乱は、歴史の大きな転回点となった。

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